図解|肥下の戦い(紀元前233年)
宜安(現在の、河北省石家荘市藁城区・南西部)での戦いがスタートする前に、このエリアでの一連の戦が「肥下の戦い」と呼ばれていますので、この戦いがどのようなものであったのかをいつもの図解を作成してまとめておきたいと思います。また、史実と本誌キングダムの違いについても書いておきたいと思います。
まず、戦のあらすじから。
1.肥下の戦い全貌
2.秦と趙の進軍ルート
Baidu百科には、秦軍と趙軍の進軍ルートもあります。
この図を見ると、趙は北方(国境警備)と南方(王都邯鄲)から軍を宜安に向かわせていますね。秦の桓騎軍は、太行山脈を越えて宜安を目指しています。宜安には何かあったのでしょうか?恐らく秦軍が太行山脈を越えてこの地に足を踏み入れたのは初めてのことだったと思います。
3.史書における不明点
①重複する平陽
これは司馬遷のミスかもしれませんが、平陽での戦いがまた繰り返し記載されていますね。太行山脈を越えて趙後方(北方)に秦軍が侵攻したのであれば、邯鄲の南にある平陽とは相容れない書き方になります。または、北方にも平陽があったのかもしれません。
②桓騎軍の行方
これは「史記」と「戦国策」で記載の仕方が別れます。史記では桓騎が秦国へ敗走したことになっています。一方の戦国策では、桓騎が討ち死にしたことになっています。原先生は今まで史記を引用することが多かったので、恐らく前者なのかな、と予想しますが…もしかしたら新しい解釈が加えられるかもしれません。
4.キングダムにおける相違点
相違点とまでは言い切ることが出来ないのですが、李牧軍の動きが気になります。本誌キングダムでは、李牧軍は一度邯鄲に戻っています。李牧はそこからカイネを引き連れて宜安を訪れ視察しています。
史実では、桓騎軍が一度宜安を落としてから、そこに趙軍が向かう流れになっています。そのため、趙軍の動きとしては、南の邯鄲から王都軍が出陣して宜安に向かう一方で、趙北方から李牧軍が宜安に向けて南下するという形になります。
本誌キングダムでは、李牧軍が既に邯鄲入りしてますね。ということは、李牧の主力部隊は邯鄲から出撃することになります。原先生のことですので、李牧が北方警備として残していた部隊を南下させ、邯鄲からの李牧軍と宜安で合流させる…という挟撃が完成するのかもしれません。誰か強い趙将が、まだ北方に残っているというわけですね。
5.図解・肥下の戦い
本誌キングダムの流れに沿った形で、かつ、史実も無視しない流れで展開図を作成しました。
現在、邯鄲の南側で戦っている桓騎軍は、太行山脈を越えて太原に行き、そこから肥下を目指します。まだ分からないのは秦軍の陣容と、趙軍の北方警備軍の陣容です。
李牧王都軍に関しては、既に邯鄲に集合している李牧・カイネ・傅抵・舜水樹・馬南慈が確定してそうです。
趙軍北方警備軍に関しては前述の通り、李牧が「誰か」を残していると思われます。原先生がそもそも北方からの趙軍合流を描くかどうかまだ分かりませんが、この軍隊がもし出てくるのであれば決定的な仕事をしそうな予感がします。
一方の秦軍は、桓騎軍が主軍となって太行山脈を越え、宜安に向かうでしょう。王翦が同行するのかどうかまだ見えませんが、桓騎軍のこれまでの戦いを見れば、飛信隊は同行することになるでしょう。設定的に王翦は「勝てない戦をしない」将なので、同行しないと思っています。史実では秦軍の規模が10万人ですから、桓騎軍単独での攻略と見て良いかもしれません。実はこれが裏目に出るのですが…
いよいよ開戦間近ですね。楽しみです。
キングダムで描かれている行軍ルートと史実の違いは下記をご参照。
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