呂氏の始祖・呂尚
お読み頂く前に
本記事を読む前に、私が書いた外部サイトの記事をご一読ください。こちらに呂氏の始祖である呂尚について記載してあります。紀元前11世紀頃の人物ですので、呂不韋が活躍する紀元前3世紀よりずっと昔の人物です。
■外部サイト■ 斉から日本に来た渡来人の正体
お読み頂けましたでしょうか。なんとなくで良いので、羌族が呂氏を名乗る流れを掴んで頂けたらと思います。
本題
今回は呂氏を名乗る呂尚(姜子牙)について、これまた妄想全開で書いてみたいと思います。色々参考サイトはあるのですが、分かりやすくウィキペディア・呂尚から引用しながら書いてみます。
①歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
呂不韋が司馬遷「史記」でこき下ろされ、かつ、あれだけの偉業を成し遂げた人物であるのにも関わらず、謎に包まれた人物であるのと同様、呂尚も分からないことが多い傑物です。あえて「書き残さない」ことで、都合の悪いことを後世に伝えないという可能性を感じてしまいます。
②『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四嶽の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。
東海のほとりの出身ということですが、「史記」は前述の通り呂氏の痕跡を曖昧にしています。「東海のほとり」とは、恐らく山東省のどこかだと思います。または、古代中国で東海郡という地名もありました。現在の山東省臨沂市あたりです。
③一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。
呂尚は羌族です。地名にちなんで呂氏を名乗り始めます。この時には、羌族は既に山東省で漢民族に溶け込み始めていたと考えています。※「漢民族」はいつもの通り、分かりやすくするために使わせてもらいます。
山東省(②)~河南省(③)のエリアにおいて、呂氏は一族を拡大していったと考えられます。ちなみに山東省の西側に隣接するのが河南省です。下記の画像は現代の地図ですが、多少のエリアの違いはあれど紀元前から使われている地名が今でも残っていることに驚きます。余談ですが…キングダムで嬴政が呂不韋と再会した場所は「河南」でしたね。
④軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
②で述べた通り、東海のほとりの出身=東海郡だとすると、まさにこのエリアと合致します。軍功によって、「呂尚が生まれた土地は統治して良い」ということになったのでしょう。「斉国」の始祖が、呂尚です。
呂不韋の時代、この「斉国」の王だったのが建です。呂不韋の先祖・呂尚が統治していた斉国を、呂不韋の時代は建が統治していたのです。このあたりは、外部サイト「秦と斉~斉静観の裏側①~④」をお読みください。
⑤呂尚は非常に長生きをし、没時に100歳を超えていたという。
呂不韋は55歳で服毒自殺したとされています。私の妄想通り、呂不韋は死んだと偽って山東省で徐福に改名して生きていた場合、呂不韋=徐福が亡くなったのは82歳です。
呂尚が100歳を超えて生きていた=長寿だったことが、遺伝子的に呂不韋に受け継がれていてもおかしくはないと思います。
⑥呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』
呂不韋は紀元前239年に、呂氏春秋を完成させます。天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされています。※一方、呂尚の著書は兵法書です。
私は呂不韋が徐福になり、日本に持ち込んだ文明こそが、この呂氏春秋だったのでは?と思います。そうでなければ、縄文時代以降の日本の発展が不自然です。
ちなみにこの徐福の血族が、日本で秦氏となります。
⑦呂尚は殷国・帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、殷により拘禁されていた周国・文王を釈放させた後、周に仕官した。
これについては、何度も外部サイトで申し訳ないのですが、秦と斉~斉静観の裏側④をご覧ください。金で解決するのは、呂氏の専売特許です。
⑧呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)
呂不韋の名言「奇貨居くべし」は、大金持ちのユダヤ商人が言いそうな諺ですね。呂尚の諺からは、「金と女には未練は残さない」潔さを感じます。
以上、ウィキペディアの中だけで8項目について書いてみました。呂不韋との繋がりを少しでも感じて頂けたでしょうか。
最後に、呂尚(姜子牙)の幼少の頃のエピソードをご紹介します。
商(殷)の王・紂王による人狩りで一族を全滅させられ、辛くも戦火から逃げ延びた子供たちの一行がいた。6人の子供たちだ。
この6人のうちの長子である12歳の「望」は、今にも倒れそうになりながらも走り続ける5人を励まし続け、時には背負い、手を引き逃げていく。
「望」は、後に商を倒し、周の建国を助け、斉という国をつくることになる呂尚なのだ。
あれ…これはどこかで見たことがあるような逃走劇。
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