前漢|十八功候~劉邦を支えた忠臣達
今週のキングダム本紙(週刊ヤングジャンプ)はお休みです。今回は前漢のお話を。
前漢はキングダムで描かれている秦の中華統一のあとの時代で、横山光輝の「項羽と劉邦」でも描かれました。秦は中華統一したものの、始皇帝亡き後は上手く行かず、いくつかの紛争を経て劉邦が統一国家を樹立しました。それが前漢です。
前漢の十八功候
始皇帝を支えた忠臣達(李信、王賁、王翦、呂不韋など)は個性豊かですが、劉邦を支えた忠臣達も個性豊かです。項羽を破った楚漢戦争終結後、忠臣達が論功行賞によって劉邦から「候」に封じられたのですが、今回は史書で「十八功候」と言われている18名の忠臣達をまとめてみました。
楚漢戦争に詳しい方や、「項羽と劉邦」を読んだ方は、見たことがある名前が1つはあると思います。この18名は、高祖6年(紀元前201年)に「候」となっています。「候(列侯)」は前漢の二十等爵の最高位であり、実質的に人臣が昇りうる最高爵位でした。
位次というのは順位で、1位は簫何。但しこの18名は、誰が並ぶとも劣らず「功臣中の功臣」なので、序列が低いから大した事ない…というわけではありません。全員凄かったのです。
十八功候に入っていない忠臣
高祖劉邦の時代には100名以上の「列侯」がいたわけですが、前述の18名が筆頭であることは間違い有りません。しかし、この18名の中にいない大将軍クラスがいます。最重要人物を何名かピックアップします。
張良・韓信は知っている方も多いと思います。簫何と合わせ漢の三傑と呼ばれています。蕭何は十八功候の1位ですね。三傑の逸話や伝説は世の中に知れ渡っていて、間違いなく劉邦の中華統一に「欠かせなかった」3人です。
ところが、彼ら「漢の三傑」や「十八功候」の誰よりも早く論功行賞によって列侯に封建された大将軍がいたことは、ほとんどの人が知りません。横山光輝「項羽と劉邦」にも描かれなかったほどです。呂沢と呂釈之の2人です。
偉業を消された呂氏
功臣ほど、早く論功行賞を確定させる必要がありました。なぜなら、有力者から不満が出ることが君主として最も避けなければならないことだったからです。「雍歯」という逸話もあり、詳しくは割愛しますが「君主が恨みなどにより偏らずに恩賞を与える」代名詞にもなっています。それほど、人心掌握には論功行賞が重要で、功臣ほど早く確定させてその労に報いる必要がありました。
前述の通り、呂沢と呂釈之の2名は、十八功候や三傑より早く列侯に封じられていたほどの重要人物なのですが、彼らの偉業についてはほぼ皆無です。それはこの2人が呂氏だったからだと考えています。
呂沢と呂釈之の2人の功績はトップクラスであることは間違い有りません。また、彼らは劉邦の妻・呂雉の兄弟です。詳しくは拙著で考察してますので、ぜひご覧ください。電子本ではなく紙本をオススメします。
呂沢と呂釈之の2人は、高祖6年1月1日に封建されました。その後、1月21日に張良が封建され、韓信は4月(日付不明)でした。韓信に対する論功行賞が最も遅かったのは、やはり韓信は劉邦から疎まれていたのか…ということが見え隠れしますよね。
記録に残っていない歴史の真実は、周辺状況から考察していくと、「勝者側の意図」がうっすら見えてきます。前漢時代の勝者とは「劉一族」であり、彼らが倒したのは「呂氏」でした。
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