焚書坑儒の真実~始皇帝は暴君ではない
秦の始皇帝が、中華統一後に(正確にはこの時代に中華という呼び方はしません)行った焚書坑儒によって、始皇帝は「暴君」と呼ばれています。
様々なところで、本当に暴君だったのかどうかが議論されることがありますが、「なぜ焚書坑儒をしなければならなかったのか」を知ると、当時の価値観がぼんやりと浮かび上がって来ます。個人的には、始皇帝が「暴君」とされていることに疑問を感じます。
今回はそのあたりを簡潔に書いてみたいと思います。
焚書坑儒とは何だったのか
まず焚書令ですが、儒家の書物全般が焼かれたわけではありませんでした。
統一前に存在した詩経の中には、長らく続いた戦国時代の微妙な政治風刺があり、統一した秦への反乱分子が生まれる可能性がある。李斯はおそらくそう考えたに違いありません。
尚書は、古の帝王を賛美したものであり、五帝から夏殷周に連なる帝王の歴史をまとめたものです。これらの帝王の政治やあり方を賛美すれば、今=秦への批判になる。
処罰内容
医薬や卜筮(ぼくぜい)、種樹の書(農業書)については対象外とし、法令を学びたい者は官吏を師とすることも定められていました。始皇帝はこの李斯の提案に同意するのですが、この裏で始皇帝が進めていたこと(後述します)に対する批判の声を抑えるためでもあったのです。
坑儒があったとされる背景
この焚書令の翌年、紀元前212年、始皇帝は咸陽の諸生で人民を惑わせた者を処罰します。具体的には、460人を穴埋めにしたと言われています。実際には諸生と書いた通り、儒家だけではなく諸生全般が対象であったので、儒家だけを弾圧したという後世の批判は100%正しいとは言えません。
大事なので繰り返し書きますが、「人民を不安にしたこと」が法に触れたのであり、焚書坑儒という言葉が後世独り歩きしてしまった部分があるのです。
ここで少し考えてみましょう。一生をかけて、いや、秦という国で見れば紀元前778年から550年も費やして天下を統一したのです。その偉業を覆しかねないような反乱分子は、事前に目を摘んでおく必要があったのです。それは、かつての丞相・昌平君こと熊啓の乱を経験した現丞相・李斯が提案したことにも納得が出来ると思うのです。当然、始皇帝も同意しますよね。
この、多民族がひしめき合う中華において、「人心を惑わす行為」がいかにNGであるかは、遺伝子的に現世まで受け継がれているのではないでしょうか。情報統制・言論統制が必要な国であることを、歴史から窺い知ることが出来るのです。
当時の人口から見ても、たった460人の生き埋めは残虐でもなんでもありません。残虐という言葉を用いるのであれば、長平の戦いで秦の将軍・白起が趙兵を20万人生き埋めにして殺したほうが残虐です。規模が違い過ぎます。
後世には始皇帝より残虐な君主はいたわけで、始皇帝が行ったことがとりわけ残虐だと断言することは難しいことが分かると思います。もちろん、現代において460人を虐殺したら残虐ということにはなりますが。
ちなみに愍儒郷(びんじゅうきょう)という村があり、坑儒が行われた場所だとされていますが、本当にあったと断定できる痕跡は見つかっていません。
始皇帝が進めていたこと
これは長くなるので別の記事で詳しく書きたいと思いますが、始皇帝はこの時、北・匈奴、南・百越を攻略しようとしていました。ご存知かもしれませんが、匈奴に立ち向かったのはあの蒙恬将軍です。
この南北での戦争(特に百越地方への強制移住も含む)には、70万人もの人民が投入されていました。
秦国内で誰かが戦争を批判し、「人心を惑わした」結果、反乱が起きたら手薄な国内はまた群雄割拠に逆戻りです。そのためには、厳格な法によって統制しなければならない側面があったと思います。
これらの背景から判断しても、焚書坑儒にはまた新たな意味合いが見いだせるのではないでしょうか。
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