自己肯定感と自己愛。絵を描く私の価値観の話。
最近よく「自己肯定感」という言葉を聞く。
自尊心や自己存在感、自己効力感、自尊感情など、類似した言葉は色々あると思うが、要するに「自分の存在意義を肯定する感情」ということだ。
研究者によっても定義は異なるようだが、自分で自分の事を認める行為の事をこう呼ぶ。
ただ、類似しているが違う部分もあると思う。
例えば、「自分のことを好きか嫌いか」という感情は、単純に自己肯定感に当てはめて考えるには難しい部分だと思う。
自分のことが好きでも、良くないことが続いたり、傷つくような出来事があれば、一時的に自己肯定感は下がるものだと思う。
逆に何か嬉しいことがあれば、普段以上に自己肯定感が上昇することもあるだろう。
どんなに自信満々の人でも、ものすごく自分を愛している人でも、落ち込むときは落ち込むものだ。
その瞬間は、自分のことを嫌いだと思うこともあるかもしれない。
もし、好意をもち、信頼していた人間に辛く当たられることがあるとしたら、それはとても悲しいし辛い。
そんな状態で、果たして一定の自己肯定感を保てるのだろうか?
落ち込む加減が浅いとしても、やはり気分が良いものではない。
自分を大事にしているからこそ、そんな自分を傷つけることが起これば、当然辛く感じる。
そして防衛本能から、同じことを繰り返さないために、自分の良くなかった所を検証し、改善し、自分がこの先幸せに生きていくための行動を起こすのだと思う。
人生を良くする過程に、落ち込む(自己肯定感が下がる)タイミングは、必ずあるものだ。
その瞬間を切り取って「自己肯定感の低い人」と称されるのは、正直腹立たしい限りだ。
とはいえ、落ち込んだままの状態が心地よい人も存在すると、ここ最近初めて知ったので、私以外の誰かに「自己肯定感の低い人」というのは、存在するのかもしれない、と思い直した次第だ。
ただそれは、私ではない。
自分の生き方をどんな風に捉えているか。
私は元々ずっと、自分のやりたい事をして生きてきた。
絵を描いている時に、自分の事を好きかどうか、自己肯定感がどうかなんて、考えたことはほぼ無い。
ただ、描くという行為だけがそこにあって、ただそれが私の中で当たり前なだけだった。
「自分の事を好きなのか、嫌いなのか」を考えるようになったのは、他人と深く関わるようになってからだ。
自分の何かの行為で他人を傷つけたり、他人の行為で自分が傷つくこともあり、傷つけたことに傷つく心を知った。
自分と関わるならば、なるべく優しく幸せにその人らしく過ごしてほしい。
その為に自分なりに相手を思い、色々心尽くしているうちに、私は自分を後回しにするようになってしまい、仲の良い相手との関係が悪くなることを極端に怖がり、言いたいことが言えなくなるフラストレーションを起こしてしまっていた。
そもそも深く人と関わることは、嬉しくもあり苦しい事なんだな、と実感するとともに、他人の為ではなく、結局全ての行動は自分の為なのだと思い知る日々だ。
それまでの私は自分優先で、自分のやりたい事を中心に全てが回っており、良くも悪くも他人のことを一線置いたところで見ていた。
ほとんどの人には今でもそれができるのに、一部の距離感が近くなった人間には、どうやらそれが難しくなる時があるらしい。
近しい存在だと、他の人だと気にならない点まで気になってしまうからなのか、はたまた近いからこそ相手に求めるものも多くなってしまうからなのか、どちらにしろ、他人への期待感が高まるとろくな事はない。
距離感を誤ると、大事な人も大事にできない。
冷静に頭でわかっていても、なかなか離れる気持ちにならない時は、もはや人智を超えた何かが働いているとしか思えないこともある。
どうもこの分野に関して私は、「心理学的ホメオスタシス(生命の維持のために変化を止めようとする脳の働き)」が働きやすいようで、それこそかつて患った双極性障害の名残か、他人との距離感は私の永遠のテーマだ。
だからといって、何もしないでいることなど、到底できない。
案外、えいや!と動いてしまえば、状況はどんどん変わっていくもので、「今のまま」を求めた停滞の感情で他人に接すると、むしろ状況は後退して悪くなるばかりだ。
変化を恐れず、でも変わらぬ愛情をもって突き進めば、他人との間のバランスも良くなり、自分自身もハッピーになれる。
一石二鳥以上のものが得られるのだから、前に進む以外の選択肢はない。
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