なぜ、今、それなのか?
中川千英子(脚本家)さんのnoteをきっかけに、
私も色々と思い出したので書いてみます。
(noteの記事を読んでいると、自分も書きたくなるというnoteマジック!?)
中川さんのいう「今日性」について。
「なぜ、今、その話題を取り上げるのか?」
は、私もたびたび言われてきた言葉です。
例えば、とても素敵なことをしている人がいたとします。
その人のこと、その人の取り組みを
企画リポートで取り上げたいと提案書を書きます。
それを提案会議に出したとき、よく投げかけられるのが
「なぜ、今、その話題を取り上げるのか?」
という言葉です。
「なぜ、今、それなのか?」
素直な答えは、
私が、最近、その人のことを知って面白いと思ったから。
その取り組みのことを面白いと思ったから。
という答えになることがほとんどだったのですが、
今、放送にのせてよい内容かどうか、
放送するに値する内容かどうかを検討する材料として、
「なぜ、今」を問われることは多くありました。
「季節性がある」
「時代が注目している」
「法律や条例が変わる」
「あたらしいことがはじまる」
など、なにか「今」取り上げる口実!?があれば、
提案は通りやすかったのですが、
どんな内容でも、
「今、それを取り上げる理由がわからない」
という人が
提案会議のメンバーに
いつも一人はいたように思います。
例えば・・・。
秋川雅史さんを取り上げる企画リポートを提案した時の話です。
秋川雅史さんは、その数年後「千の風になって」で有名になりましたが、
私がリポートを作ったのは
「千の風になって」でブレイクするよりずっと前。
記憶によれば、事務所に所属したばかりで、
これから大きく売り出していこうという頃だったと思います。
(おそらく2001~2002年のこと)
秋川雅史さんは、愛媛県西条市出身のテノール歌手。
当時は主にカンツォーネを中心に歌っていたと記憶していますが、
カンツォーネのふるさとイタリアに留学していた間(おそらく4年間くらい)も、
毎年、お祭りのために愛媛に帰省していました。
お祭りとは「西条まつり」です。
絢爛豪華という言葉そのものの「だんじり」が有名です。
その「だんじり」を担ぐために、
毎年かかさず帰省(帰国)していたそうなのです。
さらには、自分の歌は
「西条まつりでだんじりを担ぎながら歌う伊勢音頭がルーツ」
というほど。
私は、音楽関係の知人から秋川さんを紹介してもらい、
そういう話を聞いて「面白い」と
私は夕方のローカルニュース番組の中の
「えひめあのまちこの人」
というコーナーへ企画を提案したのでした。
すると、やはり
「なぜ、今、この人を取り上げるの?」
との質問が投げられました。
正直に答えると
「今、私が出会って、話を聞いてみて、面白いと思ったからです!」
という答えになるのですが、
それでは提案が通らないこともわかっていました。
私がリポートで伝えたかったことは、
・秋川雅史さんがテノール歌手として、クラシックではない方向性を歩み始めたこと、
・喉のトラブルを乗り越えて、それでも歌い続けたいという思いがどこからくるのか
・ふるさと西条への思い、西条まつりへの思い
・そしてその思いは、同じテノールの父への尊敬と、
ふるさとの仲間たちを大切にしたいという気持ちが根底にあること
などでした。
でも、それだけでは提案は通らない。
そこで、
「なぜ、今」
を探します。
幸いにも、「秋川雅史さんのデビューCDが出る(出た?)」
というところにきっかけを見出しました。
すごくベタな展開ですが、
「手術を繰り返した喉のトラブルを乗り越えて、CDデビュー」
という切り口にして、
「なぜ、今、なのか」
に答えて、提案を通したのでした。
もし、CDデビューのタイミングじゃなかったら、
ボツになっていたかも知れません。
もしくは無理やり「なぜ、今、なのか」を導き出そうとするあまりに
伝えたかったことも伝わらず、本筋からもずれてしまった
消化不良のリポートが作られたかも知れません。
秋川雅史さんのときは
「なぜ、今」という切り口が生きたように思います。
秋川さんのときだけではなく、
私が企画リポートと提案するときは、
ある人と出会い、その人に魅力を感じ、紹介したいと思う
ことがきっかけとなります。
だから、取材して、編集して、リポートを作り上げる。
ただ、放送に至るまでの過程では、
直接取材した私の視点だけではなく、
デスク、編集責任者、プロデューサー、などの視点が取り入れられていきます。
その連携がとてもうまく行く場合は、
短いリポートだとしても、
取材させていただいた方の本質的な思いが凝縮されます。
「とてもうまくまとめてくれてありがとう!
自分でわかってなかったけど、そうなの、そういうことなの!」
と、取材&リポートを制作が、
いい意味で、その人が自分を客観的に評価するきっかけになり、
その後の活動に影響を及ぼすようなこともありました。
放送後に
「自分がこれをやっているのは、根本的にはそういう思いからなのよ。」
「そういうビジョンをもちたいとおもっていたの」
などの言葉をきかせてもらえたとき、
本当に嬉しくて、この上ない充実感を覚えたものです。
ですが、一方で、
うまくいかない場合も多々ありました。
私が取材相手から聞いて、リポートとして伝えたいこと、
その本質からどんどんずれていってしまう場合です。
「なぜ、今」
「なぜ、この話題」
と追及して行くと、
視聴者にはわかりやすい、
視聴者がうけいれやすい切り口でのリポートできることも多いのは確かです。
ただ、制作側の意図が、
取材対象の方の本質とずれている場合、
取り扱いはとても難しい。
先ほどの秋川雅史さんのリポートを例にして見ると、
「秋川雅史さんがCDデビューするにあたってのふるさと西条への思い」
を切り口にするのか
「西条祭りは、年に一度、遠く離れて暮らす若者たちも必ず帰省するほどの魅力がある」
を切り口にするのか
「困難(手術など)を乗り越えて、メジャーデビューしたふるさとの歌手を応援しよう」
を切り口にするのか
などで、作り方は全く変わってしまいます。
編集、再構成段階で、
デスクや編集責任者の意見を取り入れることで、
より良いものができたことの方も多いです。
ただ、どんどん変化してしまうことで、
直接取材者の私の伝えたいことからずれてしまったこともありました。
視聴者にとってわかりやすい切り口(いわゆるステレオタイプ的なもの)に
収まっただけで、本質が伝えきれないと思うこともありました。
たしかに、視聴者にとっては、
そう描いてくれる方がスッキリする、わかりやすい。
でも、取材対象の人が大切にしている本質的な思いはそこではない、
文句を言われるほどではないにしても、
「あ、見ました。ありがとうございました。
結構、長くロケしてたのにあれだけになっちゃうんですね。」
などと言われるときは、このパターンだったように思います。
もちろん、
あまりにも取材相手に寄り添いすぎると、
ひとりよがりで全く視聴者に伝わらないリポートになりがちです。
新人であるほど、その傾向も強いように思います。
そうならないための魔法の切り口が
「なぜ、今」なのかもしれません。
この切り口が加わると、少し、客観視できます。
取材相手に寄り添い過ぎているときには、
冷静さを取り戻して少し俯瞰できるようになります。
でも、それは魔法の杖じゃない。
きっと、まだ制作者として未熟な分、
ひとりよがりにならないように、
「なぜ、今」
という魔法の切り口を、先輩方は示したくなるのかもしれません。
ただ、それは「なぜ、今」ばかりをさがして、
形式的に取り繕うことだけがうまくなり、
取材相手の本質的な思いを凝縮してどうつたえるか、
取材する側としてそれを客観的にどう切りとるか、
という力がつかないように思います。
「なぜ、今」はとても大切な切り口だけど、
魔法の杖ではない、ということ。
私自身が、日々の業務の中でやっつけ仕事にならないよう、
本質を凝縮して伝えられる媒体でありたいなと思うのでした。
中川さんのこの記事。
よく見ると3月の投稿ですね。
noteには、こういう出会いがある。
noteには、いつでも「今日性」があるのかもしれませんね。