「いちばんむずかしいひらがなはどれ?」の素晴らしい点について

こんなニュース記事を読んだ。

ひらがなの難しさ、という題材に着目したのも面白い発想だと思うのだが、私がこの自由研究について最も感心したのはまた別の点にある。

それは
「ひらがなの難しさを自分なりに定義し、定量的に評価したこと」
である。

どのひらがなが難しいか、というのは大変抽象的な問いである。
大人でも書きにくいと思うひらがながあったりする(例えば私は「を」というひらがなが上手く書けない)し、小学校低学年ならなおさら上手く書けない字は多いであろう。
しかしどの字を書きにくいと思うかは人それぞれだし、ある二つの字を比べた時にどちらの方がより書きにくいのかを比較するのは困難である。50音を書きにくい順に並べろと言われても大変な作業だし、仮に並べてもその根拠を明確に示すのはやはり難しい。

しかし彼女はその抽象的な問題に対して
・画数が多い方が書きにくいだろう
・「折れ」「曲がり」「結び」は書きにくいだろう
というように「書きにくさ」の要素を具体的に定義し、そこに点数を与えることで定量的な扱いが出来るようにしてみせたわけである。
すなわち、ひらがなの難しさという極めて感覚的な問題を科学の世界に落とし込むことに成功しているのだ。

さて、科学と言ったわけだが、科学というのは絶えず議論に晒され続けるものである。
もし彼女がひらがなの難しさを「自分の感覚」だけで決めたならば、それはもう議論する余地がない。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」で終わりである。

しかし彼女は非常に明確で定量的な定義を示してくれた。
となればそこには議論する価値が出てくる。

例えば
・「折れ」「曲がり」「結び」にそれぞれ1画、2画、3画に等しい点数を与えているが、その点数の付け方は妥当なのだろうか。
・他に難しさに影響する要素は無いのだろうか(例えば考察で示されたようにバランスのとり方を何らかの形で取り込めないだろうか)。
・アンケート調査を行ったら、この点数による評価と一致するだろうか。例えば大人と子供ではそれぞれ別の補正が必要になるのではないか。
等といった形でその理論の正しさを検証することができる。

また
・ひらがな以外にも適用できるよう拡張された、より一般的な手法に出来ないだろうか。
・今まで定量評価が難しかった何かにこの手法を応用できないだろうか。
といった感じで、さらなる発展にも繋がっていく。

小学1年生の自由研究に何を大げさな、と思うかもしれないが、私がわざわざこういうことを書いているのには理由がある。
それは「大人でも出来てない人が多すぎる」と思うからだ。

私は一介のサラリーマンであるが、仕事上で議論をすることは少なくない。
しかしそういう場において「私の感想」を超えるものを出せない人はかなり多いと感じる。
そして互いに「感想」を出し合うからただの水掛け論にしかならない。そんな光景、皆さんも嫌になるほど見てきているのではないだろうか。
議論をするときは、言葉をきちんと定義するとか、何らかの形で客観的な評価が可能な内容を話さないと意味がないのである。

それこそ分かりやすく、仮想的に仕事上で「ひらがなの難しさ」を題材としてミーティングが開催されたとしよう。
誰かが「ひらがなを難しい順に並べました、レビューしてください」とか言って、その人の感覚のみに基づいて作った表を出してくる。そしてそれに対して他の参加者が「私は「ぬ」より「を」の方が難しいと思うなぁ」とか「「ふ」もバランスを取るのが難しい気がする」とか感想を適当に言い合って、最終的に最初に表を出した人が「意見を持ち帰って再考します」とか言い、また感覚的にちょっと並び替えた表を作って第二回のミーティングが開催され、また同じような感想の言い合い・・・
これが如何に意味のないミーティングかご理解いただけると思う。

しかしもし最初の人が「ひらがなの難しさを定義しました」といって先述の自由研究の結果を出してきたとしよう。他の参加者もそれに対して「ここの点数の付け方は定量的に調査して調整できないか」とか「こういう指標を使えばバランスの難しさも取り込めるのではないか」といった意見を出す。すると今度はそういう意見を元に実際に調査を進めて、今度はより洗練された定義を作り上げていくことができる。
明らかに「感想」だけで進んだ前述の議論とはそのミーティングの価値が違うのが分かる。

だからこの自由研究をした小学生の思考法というのは大人も大いに学ぶべきところがあるのである。
自分を省みて、本当にこの子のような思考が出来ているのかを振り返ってみるべきだろう。

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