愚か者同士、優しくしようよ
悪人正機という言葉がある。
ウィキペディアによると、以下のような意味です。
悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味である。
ぼくは学者ではないので、詳しくは知りませんが、この言葉は浄土真宗の開祖である親鸞の言葉だとされています。
勝手に私的に解釈すると、悪人であるあなたこそ、仏様は救済の手を差し延べてくださる、という意味なのかなと思ってます。
ぼくはこの言葉を知った時、安心しました。
それは自分の中に悪人がいることをぼくは知っていたからです。
悪人を自分の中に飼っているぼくでも、仏様はお救いくださるのか、ああ良かったと思ったのです。
考えてみれば、善人も悪人も全ての魂を救済することを目的としている仏様が、
「君は悪人だから救わないよ」
というのも、随分了見の狭い物言いです。
考えてみてください、仮にある極悪人が今生の最後に、一人捕らえられた牢獄の中で、自分の罪を悔いた時、彼に対して誰も救済の手を差し伸べず、
「自業自得だ、極悪人よ」
と切り捨てるなら、それこそなんと救いのない世の中でしょう。
話は変わりますが、購読しているマレーシア在住の野本響子さんに以下のような記事がありました。
有料記事になりますが、ご興味ある方は是非お読みください。
本文中に、このような言葉がありました。
私はそろそろ、スポーツ大会で「多様性と人権擁護」みたいな綺麗事スローガンを諦めたらいいと思う。
ぼくも本当にその通りだと思います。
野本さんの他の記事で触れられていた「言葉の陳腐化」問題にも、とても共感しました。
今のような状況の中で、ただ純粋に
「平和と希望の祭典」とか、「オリンピックで夢と希望を」って言ったって、どう考えても白々しいだけです。
ぼくはサッカー日本代表のファンなので、彼らの競技に向かう姿勢には、感動するし、尊敬します。
ただ、彼らアスリートを取り囲む状況に、あまりに胡散臭い利権が絡んでいるニュースを知ると、どこが平和の祭典なのだろう?と思いますよね。
ぼくがこんなこと唱えてもなんの効果もないと思いますが、ぼくは脱優等生社会、脱優等生教育が必要じゃないかと思うんです。
性悪説にのっとって、われわれはお互いに愚かなのだから、寛容になれる部分は寛容に、だめな者同士お互い優しくいようってなってほしいんです。
大体の人間は本当は愚か者なのに、無理して、無垢で聖者であるかのように取り繕うから、そのストレスでギスギスした社会の空気が生まれているのでは?と浅はかにも愚か者は思うのです。