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『移動祝祭日』

写真は先日虹が出た時にベランダから撮ったもの。
さて、一年で一番嫌いな季節がやってきた。
梅雨などと風情があるような言い方したって、ただの雨季じゃねえか、と思う。

ベタベタするのが嫌で一日に何度も風呂に入らなければならないし、入って、すぐにまた汗をかき始めるので本当に厄介だ。

考えてみると、この体を維持するのに我々はどのくらい労力を使っているのだろう。

いろんな生理欲求を満たしてやらにゃあいかんし、髪も髭もボサボサにならないようにケアして、爪が伸びれば切って、臭くならないように絶え間なく風呂に入って…
しまいには不具合が出たら医療の世話にならなくてはいけない。

今日は休みだったので、好き放題本でも読もうと思っていた。課題図書はヘミングウェイの『移動祝祭日』である。
ところがである。朝から湿気と暑さにうなされて、集中力が長引かず、昼飯を食べてワインを飲み、昼寝して、暑さにうなされて起きたら夕方。
寝汗を風呂で流して、盛大な夕立を眺めながら、今これを書いている。

この体という物質を持たなければ、身体的な欲求や不満に時間や労力を割かなければ、もっと集中力を保って、素晴らしい知的生産活動が可能なのだろうか?

なんて自分が自堕落なだけだな、単純に。

話を『移動祝祭日』に戻す。
これはまだ無名の若きヘミングウェイが1920年代パリでの日々を回想するという作品だ。

一遍一遍が短いので、移動中やちょっと気が向いた時に読んでいたのだが、今回読み返してみてやはり中々に面白い。

巻末にある訳者の高見浩さんの解説を読むと、この『移動祝祭日』はヘミングウェイが猟銃で自殺する直前に書かれたものらしい。

それによると、1961年3月のある日、夫と共に過ごすハドリー・モーラーに電話があった。
電話の主は34年前に分かれた最初の夫、アーネスト・ヘミングウェイからで、共に過ごしたパリ時代について回想録を書いていて、二三思い出せないことがある、という内容だったそうだ。
その回想録というのが『移動祝祭日』のことであり、それから三か月後にハドリーはヘミングウェイ死すという報に触れたのだそうだ。

僕はヘミングウェイについてほぼ何も知らない。なんか釣りが好きで、体がでかくて、キューバに行って、ハードボイルドな男臭い文豪という勝手なイメージしかない。

『移動祝祭日』を読んでみると、それがステレオタイプな一面的な見方だと分かる。

僕の『移動祝祭日』は確かブックオフで400円くらいで購入したものだと思うのだけど、まさか、この本が世紀の文豪ヘミングウェイが死の間際に若き日を回想した、ある種の走馬灯とも言える本だったとは思いもしなかった。
どうりで読み応えがあるわけだ。

ハドリーがかつての夫ヘミングウェイと34年ぶりに電話口で話した時、ハドリーはヘミングウェイの電話口から伝わる話振りに深い憔悴と披露を感じとったという。

ヘミングウェイは何を思って、かつての妻ハドリーに連絡をとったのか、何を思いながらかつて共に過ごした日々の回想を書いていたのか。
かつての夫ヘミングウェイ自殺の報に触れた時、ハドリーはどうそのニュースを受け止めたのだろうか。
ほんとすぐさま映画にでもなりそうなエピソードだ。

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