「ファンダム」という薬を「行使の民主主義」にいかに結びつけるか。
「本との出会い」という言葉がありますが、私は密かに「引き」が強いのではないかと思っています。
宇野重規著・聞き手若林恵『実験の民主主義』中公新書(中央公論社、2023年)は、ある人の活動から知り、憲法記念日に購入したものでしたが、そこに「ファンダム」すなわち、アニメやアイドルといった「推し」を中心に、不特定多数の人たちが集い、みんなで語り合ったり、二次創作をしたりしていく存在についての記述がありました。
「ファンダム」は、私が担当している大学院の公共政策学の講義を受講している一人の院生の研究テーマでして、そのことの分析は研究としてあり得ると思うのですが、公共政策学、その中の政治学や行政学等とどう結びつけるか、そのあたりの考察の助けになるものがあれば良いなと思っていたところでしたので、当代一と言っても良いポピュラーな政治学者の宇野重規教授が「ファンダム」を大いに語っていたとは!本の購入の時には想像してなかっただけに、なんという「引き」の強さかと思ってしまいました。
これは、第4章「「市民」とは誰か」での宇野教授の言葉です。「市民」は政治学でも重要な単語です。
聞き手の若林恵氏は、『ファンダムエコノミー入門』(黒鳥社)を著わす等、この分野に詳しく、次のように語ります。
宇野教授は、消費者が市民となり得るとしつつ、消費者とファンダムを比較し、次のように語っています。
その後、若林氏が、ファンダムを駆動しているメカニズムで重要なのは「自分がギブしたものをゲットしてもらう喜び」だとし、そのためには、「ゲットすることでギブしている」受け手が必要。それが連鎖していく格好で、お互いに教え合ったり、助け合ったりといった活動が見られる。そうした営みが持続していく前提として、「脆弱性」の共有、「誰か一人が全部知っているわけではない」という前提のもと、「みんなで情報を共有し合えば、より多くのことを知ることができるよね」という場になっている、と解説(154頁)。『コンヴァ―ジェンス・カルチャー』の著者ヘンリー・ジェンキンスは、ファンダム内の学びのプロセスやスキルの伝達が、社会参加や政治参加の文脈で有用だとも語っているとします。(154頁)
宇野教授は、これらを受け、
市民とは、土地所有者→ブルジョア→賃金労働者→消費者→ファンダムと示しつつ、次のように述べます。
ファンダムは、直ちに民主主義に貢献するものではないとしつつ、米国のトランプ大統領とウクライナのゼレンスキー大統領を「2人のファンダム大統領」として説明する等、ファンダムと政治の繋がりについて述べています。
この辺りで、受講生の研究のファンダムと政治学との関連は十分に言語化できると思いました。このnoteには一部の引用しかしてませんので、是非、この本を手に取って読んでみてください。
さて、ここまで読む途中で、別の意味で少し興奮して来ました。私が関わっているいろいろな活動も、この「ファンダム」の動きに重なっているという感覚を持ったからです。
私は「みんとしょアンバサダー」を拝命しています。「みんとしょ」=一箱本棚オーナーシステムの私設民営図書館。この執筆現在、最初のものがオープンして4年ちょっとで、姉妹館登録が全国に77件となっています。これは、お金を払って一棚の場所を借り、本を貸すと言うものです。まさにギブのギブです。特定の本や作者についてのファン、あるいはシステム創始者のファン、このシステムについてのファンということなのかもしれません。ギブのギブが好きな人は、意外に多く、全国に広がっています。
この一箱本棚オーナーは、時に「変人」と呼ばれます。そう呼ばれても喜んでやっているのは、確かに、「ゲットすることでギブする」受け手がいるからなのでしょう。
本や作者についての「脆弱性」は感じませんが、このシステムについて「脆弱性」は皆感じています。言語化も明確にできてませんし、どうすれば受け手が増えるか等も模索中です。そこで確かに、全国の関連館の館長や一箱本棚オーナー間で、お互いの学び合いの場が生じてます。アワードに応募して、言語化を手伝ってもらったりしています。インクルーシブで、お互いに援け合いながら学び合っていく空間がそこにあるのは事実だと思います。
また、そこに集まった人たちが、学び合いの中から、いろいろな行動・DOも生じています。「みんなで情報を共有すれば、いろいろなことを知ることができるよね」から、「いろんなことができるよね」となり、「人々が共同して働くための技法」が生まれるのです。
各館で、他の館の取組を参考にした様々な取組等が行われたりしています。
また、一つの館でも、例えば50名を超える一箱本棚オーナーが同じ場所にいるわけではなく、それぞれ離れて自律分散的に、館と、館の活動と繋がっていたりします。そうした新たな繋がりの持つ「脆弱性」の認識が、それぞれの館において、学び合いの意識をもたらしているのも確かだと思います。
茅ケ崎のみんとしょ「Cの辺り」では、そうしたものが、まさにデモクラシーと結びついて、「こども選挙」とか、市議会議員との交流「まちのBAR」等の動きとなっています。
ちょっと興奮して、筆が乗りすぎですかね。
ここまで勢いで書いてしまっているという認識はあります。
どうやら「実験の民主主義」の中にいるのでは!という感じがあったもので。ただ、本当に宇野教授らの考えに当てはまるのかしら。少なくとも近い部分はあるかと思うのですが。
もう少し、関連の本も読んで、落ち着いて、改めて整理してみようかと思います。
「本との出会い」、大切です。