河川の暗渠から神戸の歴史をたどる
神戸港の歴史
神戸は六甲山と瀬戸内海に挟まれた平野部が狭い街です。
川は傾斜が急で、六甲山から土砂を下流に流し、扇状地が広がりました。
大輪田泊(現在の神戸港の西)は、奈良時代に行基が開いた「摂播五泊」のひとつで、平清盛が改修したことで知られます。
鎌倉時代から兵庫津と呼ばれ、天然の良港で、日宋貿易・ニ日明貿易など国際貿易港となりました。
神戸旧居留地
江戸時代の末に鎖国が終り、横浜港から9年遅れた1868年の神戸港開港に伴い、住民が住む兵庫津から東に3.5km離れた神戸村に神戸外国人居留地が造られることになりました。
イギリス人土木技師ハート氏の設計により、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが建設され、126の区画が作られ現在もそのままです。
当時の英字新聞“The Far East”は、「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街である」と、神戸居留地を高く評価しました。
神戸の河川
徐々に外国人が増え(1890年に2000名強)、神戸市街地と兵庫津が接するようになりましたが、神戸の河川は川底に土砂を堆積した天井川が多く(旧湊川など)、洪水などの水害をもたらし、東西の交通の障害ともなり、さらに天然の良港であった海を浅くして大型船が係留できなくなるリスクがあり、神戸の発展を妨げました。
そのため湊川の付け替えや生田川の付け替えなどの大きな土木工事が行われましたが、この項は別の記事でご紹介します。
鯉川と暗渠
神戸外国人居留地は、東を旧生田川(現フラワーロード)、西を鯉川(現在の鯉川筋)、北を旧西国街道、南を海岸線に挟まれた狭い地域です。
横浜居留地に比べ、面積が1/7しかないため、西は宇治川・北は山麓・東は旧生田川まで外国人が住むことを許され、日本人と外国人が一緒に住むいわゆる「雑居地」となりました。
これが神戸の文化形成に大きく影響したことは確かと思います。
一方、居留地の西端を流れる鯉川が汚く腐臭を放ったことから外国人からクレームが出て、日本側と費用折半で明治8年に暗渠工事がなされ、人々の目から姿を消し、その上の道路は鯉川筋と呼ばれました。
私は、そんな鯉川の暗渠に興味を抱き、暗渠となった河川の流路を探すことにしました。
鯉川の流路探し
スタートは河口からです。
メリケンパークの東端の艀(はしけ)だまりに、鯉川の河口があったそうですが、河口を見つけることはできませんでした。
ここは1868年に設けられた第三波止場(のちのメリケン波止場)だった場所で、1987年に中突堤との間を埋め立て、メリケンパークとなりました。
メリケン波止場だった場所は震災メモリアルパークとして大震災で崩れた護岸が保存されています。
ここから北のメリケンロードと呼ばれる幹線道路の下に暗渠となった鯉川があります。
しかしここではその痕跡や証拠を見つけることはできません。
大丸と元町商店街の入口の間から北の鯉川筋という道路名だけが痕跡でしょうか。
JR元町駅の東のガード下をくぐり、100mほど北に行くと、
車道に「圧河川」のマンホールがありました。
暗渠の証拠です。
さらに北に(上流)に向かい、生田新道を越えると右側に流路らしいカーブがあります。
茶色い建物に沿ってカーブし、坂を上りますが、マンションの敷地で入れません。
この先に当たる場所に行くと、写真の交差点の西と南の道路はやや急な下りになります。
写真は南南西方向で、右方向の先が鯉川筋です。
写っていませんが、東側にはトア公園があります。
私の仮説ですが、鯉川はこの写真の建物の下辺りを流れていたような。
交差点の北方向には、明らかに川の流路のようなカーブがあり、上流と思われる方向に坂を上ります。
すると、山手幹線に出る手前の道路に不自然な段差がありました。
これは明らかに川の流路だった痕跡と思われます。
山手幹線の山側にも流路と思われる細い路地があります。
やはり不自然にカーブしています。
コンクリートの蓋は明らかに暗渠のようです。
開いている箇所を覗き込みましたがチョロチョロと水が流れています。
するとその先の道路左に柵がありました。
ついに鯉川暗渠の開口部に着きました。(北を向いて撮影)
右の緑は「トーア市民公園」や「北野工房のまち」の西端です。
鯉川は住宅の裏をひっそりと流れているようです。
この先は入れませんので、上流部と思われる中山手山手東西線の場所に向かい、下流方向を見た写真です。
この先で上の写真の部分と繋がっているようです。
鯉川は公園の端に沿ってカーブし、また暗渠になっていました。(南を向いて撮影)
さらに上流に向かいます。
細い路地がカーブし、左側に溝があります。
さらに上流に行くと、写真の左下で溝がコンクリートで蓋をされ、またまた暗渠に。
まっすぐ上ります。
さらに上流部で暗渠から出て、川らしい流路が見えました。
川底にレンガとは、いかにも外国人が住んだ北野町らしさが残っています。
何度も鯉川は暗渠になったり開口されたりを繰り返します。
この三叉路の下をくぐり、左の道路の右側を流れています。
さらに上流に行くとまた暗渠です。
道路は右に曲がりますが、鯉川は家と家の細い隙間に流れています。
その先は「東亜筋線」の山本通3丁目交差点の少し西です。
東亜筋線沿いのコイン駐車場の端から上流方向を覗き込んだ写真です。
丸い土管の下に、ブロックで閉ざされた部分があります。
道路の北側に向かいます。
マンション「ファミールグラン神戸北野」の西側に川の流路のようなカーブがあります。
西側にある細い坂道を登って、この先の上部に向かいます。
ありました。
鯉川の暗渠への流入部です。
随分と大きな流入口ですが、これが道路の南側に繋がっていたのでしょう。
地図で確認すると、ここから上部は二つに別れ、東は北野町の最上部に、西は追谷墓園につながります。
市街地を流れる鯉川の最上流部といえそうです。
いかがでしたか?
確たる証拠が無い中、川筋らしい道路を中心に推測しながら歩き、途中で確信に変わりました。
今回は鯉川の本流を辿りましたが、途中で本流に流れ込んだであろう支流らしきところが数か所ありました。
神戸の川はこうして暗渠にされ、街の発展に貢献したのでしょうね。
それにしても、鯉川を暗渠にした理由が、交通の便や水害対策でなく、住民が捨てるゴミによる悪臭だったとは意外でした。
居留地の端の川がなぜ暗渠になったのかを探ると、人の生活が浮き彫りになりました。