ピンクの象|短編小説
「ねえ!私昨日の夜明け、ピンクの象を見たの!」
寝起き早々部屋に入って来るなり、彼女は息を切らして開口一番にそう早口に言った。
僕はまだ半分夢の中。
「夢?」
「違う!本当に見たの!信じてくれないの?バカ」彼女の口癖だから、僕は気にしない。
「あ、オールドファッションチョコ掛けある!食べて良い?」
聞いてる側から既に食べてる彼女を見て、少し目が覚めた。
熱いブラックを二つマグカップに入れて、ぽってりとした形と色が可愛いと、彼女が色違いで買った物をテーブルに運び、彼女の目の前に置いた。
「ありがとう。ねえ、信じる?ピンクの象だよ?何か幸運が運ばれて来るかもよ」
彼女の口の端に付いた、チョコを指で取ってそのまま僕は口に入れた。
「うん。信じる。」僕は彼女の言う事を周りが嗤っても、嘲笑してもずっと信じてきた。
彼女は、確かに周りと違う感性があって、それを個性とか特性とか色々言われるけど、僕はずっと彼女は彼女として見てきた。
ありのまま。
そこに色眼鏡もなければ、彼女が特段変わってるとも思わなかった。
彼女は彼女。それだけ。
精神疾患を長く患っているけれど、それは過去の傷から来たもの。
長く独りで背負って来たものが、崩れ落ちた。
時々、死にたいと口走るけど僕は否定せずに、ただ黙って隣に座り彼女を優しく温める。
親鳥が卵を温める様に、そっと。
無邪気にドーナツを食べてる彼女を見ていたら、僕も食べたくなった。
王道のオールドファッションに齧り付く。
このほのかに甘く、ザクザクした食感とブラックの相性は、彼女と僕みたいだ。
「ねえ、夜明けに見に行こう。絶対にいるの」
僕は彼女の誘いは断らない。
次の日の朝陽が昇る、ほんの数十分だけ見たと彼女は言った。
僕は彼女に言われるまま、その森の一番高い木に登り、その時を待った。
辺りに急に甘い香りが漂い始めた。
彼女が僕の手をギュッと握る。
僕も握り返した。
「見て」彼女が小声で囁く。
確かに居た。ピンクの象が、夜明け前の薄紫色の空を悠々と飛んでいる。
背中には、沢山の人が幸せそうな顔で座っている。
不意に彼女が僕の手を離した。
「もう大丈夫だよね?」
僕は必死に込み上げて来る物を抑えながら、「うん」とだけ答えた。
本当はまだ一緒にいたい。
ずっと傍にいて欲しい。
「どんな時もいつでも、私はセイの事を見てる。私がいつでも守ってるから。」
ピンクの象がラウの元に静かに近付き、じっと待っている。
ラウは僕に甘い香りの柔らかな唇でキスをして、そして象の背中に座り僕に手を振った。
僕は我慢していた糸が切れ、溢れ出す涙も拭かずに精一杯手を振った。
「ラウ、愛してる。ずっとずっと君だけを」
ラウは微笑み、頷きピンクの象と一緒に夜明けと共に消えた。
以来僕は、夜明け前に必ず森へ行きピンクの象を探してる。
けれど、あれから一度も会えた事は無い。
手のひらに遺った、ラウの柔らかい一束の三つ編み。
それを耳に近付ければ、いつでもラウのあの無邪気な笑い声が聴こえる。
[end]