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彼女の音|短編小説

    ハスキーがかった、少し低めの声でギターに合わせ歌う彼女。

    このバーに来るようになって数ヶ月。
初めは流し聴きをしていたが、来る度に彼女のその声に惹かれた。

    昔の情熱が微かにまだ胸の奥底で燻っていた。

    彼女は、20代半ば位だろうか。
見た目も華やかな、目鼻立ちがくっきりとして、薄暗い照明の中で少し遠くを見やる大きな瞳と、艶やかな形の良い唇が、より一層彼女をセクシーでミステリアスに魅せた。

     何回目かで、俺は彼女に声を掛けた。
「歌って結構経つの?」
彼女は煙草を口に咥えた。
愛用のZIPPOで火をつけてやると「ありがとう」と、思わぬ人懐こい笑顔が返ってきた。

   「うん、長いかな。十代の頃はストリートで歌ってた。今はこういうお店で歌わせてもらってる」
    「他の店でも歌ってるの?」
    「うん、やっぱり一つのお店じゃ稼げないから…」
そう言って彼女は一本煙草を吸い終えたら「じゃ、またね」
と言って去ろうとした。
瞬間的に「近い内、ちょっと話せないかな?」
俺は自分でも戸惑っていた。
もう昔に諦めた夢。
だが、この子なら…そんな確信があった。

     彼女は驚いた顔をしていたが「色気のある話じゃなきゃOKよ」
とウィンクして、携帯番号をコースターの裏に書いて店を出て行った。
微かに薔薇の残り香がした。


     彼女の携帯に何度もかけたが、その度に留守電になり、その内「現在使われておりません」に変わった。

店には毎日足を運んだが、彼女の姿はなかった。
マスターに聞いたら、三日程前にもう来れなくなると言われたそうだ。
理由は詳しく話そうとしなかった為、マスターもそれで終わりだ、と言っていた。

    彼女の携帯番号が書かれたコースター。
綺麗な筆記の英字でRと書かれていた。
名前の頭文字かな…。

    その夜は一人静かに家に居た。
ふと薫った、薔薇の匂い。
彼女の残り香。

    ベランダを見ると一輪の薔薇が横たわっていた。
俺はそれを拾い上げ、空き瓶に飾り、久しぶりに埃を被ったギターを取り出した。


    真っさらな楽譜に、込み上げる想いと過去に忘れたはずの情熱を、再び書き綴っていった。

[end]



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