『ワンフレーズ』 5話 「ミズちゃん」
習慣みたいになっていたから、気づけば半年も前から、僕はミズちゃんと連絡を取り合っていたこと、すっかり忘れていた。夕方六時過ぎ、面接帰りに、そういえばここはミズちゃんの最寄り駅だったような、ぼんやり思い出した。前に一回、この駅までミズちゃんに会いにきたことがあったから、なんとなく覚えている。僕は「就活でたまたま近くにいるよ」と返信した。ジュンヤと別れてから、一度も会っていなかったから。
「ジュンヤくんは今元気ですか?」
そう僕に聞いて、ミズちゃんはジンジャーハイボールをひと口ゴクリと飲んだ。細い手首から小さい手にかけて浮き出た筋が、二十歳になりたて、重たいジョッキ、持ち上げる初々しさと不格好さを露わにさせていた。前会った時は、もっと可愛いお酒をちまちま飲んでいたような気がしたけれど。
「あいつは相変わらず元気だよ、いつも楽しそうにしてる」
「そうですか、ならよかったです」
またひと口お酒を飲んだ。
「就活、どんな感じなんですか?」
「んー、東京就職を一応考えてやってるんだけどね、まだなんともいえないな」
「そうですか」
「そうですか、って、そんな興味ないならわざわざ聞くなよ」
「ごめんなさい」
「ミズちゃんはでも、元気そうだよね」
「私は元気ですよ、今日もセフレと会うし」
「セフレかあ」
普段慎ましくしている人間ほど、突然出す下品な言葉とかは、色気に変わったりするのに、ミズちゃんにはそんな風に感じない。ミズちゃんはきっと、僕が想像するよりずっと、汚いこと、やらしいこと、しているんだろう、そう思うことにした。
「今は何人いるの?」
「何がですか?」
「セフレ」
「わかんないです、一回だけ寝た人も、関係が終わっているかといえばそうでもないし、今日会う人は、もう何回も会ってますけど」
「そのセフレくんは相性いいんだ」
「相性いいっていうか、求めてくれるんです、私のこと、いつもいつも「会いたい」って子供みたいに言ってくるんです、可愛いでしょ」
「そこまでなら、付き合ったらいいのに」
「無理ですよ、四十歳妻子持ちだから」
「ああ」
無意識に酒を口に運んだ、僕はこんな話を聞いたとき、何も言葉を返せない自分を、言葉を返そうとしない自分を、どうか救ってやりたくなる気持ちになる。
「どうしようもないですよね、わたし、わかってるんです」
ミズちゃんは、ジョッキの中の氷を揺らしカラカラ立てる音をやめた。
「わかってるなら、どうしてそんなことするの」
「身体がとまんないんです、身体というか、気持ちが」
「どういうこと?」
「結果止まらないのは身体なんですけど、原因になってるのは気持ちで」
「?」
「わたし、ジュンヤくんと別れてから、男の人の身体が頭に焼き付いちゃって、触れる人がいない日がさみしいんです、忘れられないんです」
「そういうことか」
「わたし、本当に好きでした、本当に本当に好きだったんです、これだけは嘘じゃないです」
「それは俺も、信じてるよ」
「ありがとうございます」
「それはそれで本当だって信じてるけど、でも、それが本当だって、もうミズちゃんは言い張れないよ、こんなことばっかりしてたら」
「なんでですか?」
普通の人は、普通の失恋をした人は、相手のことで頭がいっぱいで、ほかの男の人なんかには目もくれないから、普通の失恋ってなんですか?なんて聞かないでね、わかってると思うから、そう言おうとして、ヌルい同情心で、慰める気だった自分の内心を一瞬、冷静になって見返した。冷たくて皮肉を垂れる保護者みたいな人間が、僕の中にいた。
「・・・やっぱり、なんでもない」
ジュンヤのことは本当に好きだった。空っぽなその誇りを持ったミズちゃんが、他人事のように哀れに見えた。
「アラタさんは、逆ですよね」
「え、何が」
「こういう、わたしみたいな女子を、もてあそぶ側の人間でしょ」
「ひどい言い方だな」
「だって、彼女さんいるのにモモちゃんのこと振りまわしてるでしょ」
「〝ちゃん〟って、見た事ないのに友達みたいに呼ぶなよ、ミズちゃんより先輩だし」
「そうだけどなんか、親しみを込めて〝ちゃん」
「別に、振りまわしてなんかないよ、モモはこれでいいっていうし、俺だって好きじゃないし」
「モモちゃんはアラタさんのこと好きなの?」
「わかんない、好きって一回言われた事あるけど、信用してない」
「なんなのそれ」
ミズちゃんは呆れて、ダメージデニムのポケットから電子タバコを取り出した。電源を入れて、タバコを挿入口に入れた。焦げた砂糖みたいな、甘ったるいニオイが広がった。
「タバコ、吸うんだ、ジュンヤは吸ってなかったけど」
「ジュンヤくんが吸ってなかったからじゃないですよ、別に二十歳だし」
「それは、そうだけど」
なんだか、いかにも男の生活習慣に毒された証拠を見せつけられているような気がした。
「モモは大学の間一緒にいるだけだよ、それ以外はないと思う」
「アラタさんって、彼女さんの話全然しないですよね」
「え?」
「なんか、聞いても彼女さんの話全然してくれないから、本当に好きなのか疑っちゃう」
「なんでよ」
「本当に好きだと思ってますか?」
「好きなことは本当だよ」
「何その言い方」
「ちょっと、飲みすぎなんじゃない?水飲んだ方がいいよ」
ちょうど僕の背中を通り過ぎた店員に声をかけて、お冷を二つ頼んだ。
「実際、最近は全然会ってないんだよ、話さないってよりは、話す機会がないんだ」
「へえ、そうなんだ」
嘘をついた。本当は、今彼氏がいないミズちゃん、だからいろんな男の人と一緒にいるミズちゃん、そんなミズちゃんより、はっきり「好き」だと言える彼女がいるのに、知らないところで他の女の子と寝ている自分が、たまらなくくだらないと思えた。変にへりくだった感情になった。だから、彼女の話をする気にいつもなれない。だから苦し紛れに、どうなってもいいと思っているはずのモモの話だけは、ポンポン口から出てくるんだ。
「ジュンヤくんは、今彼女はいるんですか?」
「そんなに早くはできないよ、今サークル全然行ってないからあんまり会ってないし、わからないけど」
「そうですか」
合いの手みたいに、話の切れる度、ミズちゃんは口から白い煙を吐いた。
「ジュンヤくん、今のわたしの姿見たらなんて思うんだろう、もう会えないな」
また、煙を吐いた。きっとジュンヤは、ミズちゃんをもうなんとも思っていない。そんな一周回った気遣いを、言う気にはなれなかった。
お冷が届いた。でも、ミズちゃんはお店を出るまで、一口も口にしなかった。
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