1945年8月6日 午前8時15分。
こんにちは!広瀬和希です。
先日、1泊4日で広島弾丸旅行に行ってきました。
理由は、たった一つ。
「原爆ドームを見に行きたい。」
この事実を知らない人はほぼいないと思います。
僕も、学校やテレビなどで知っていました。
だけども、
あの日の出来事をもっと”ちゃんと”知っておきたい。
死ぬまでに絶対に訪れておきたい。
と思ったんです。
そして、行ってきました。
僕は、原爆ドームと平和記念公園を訪れました。平和記念公園の中には、祈念碑や資料館などがあり、おそらく一通り全て見学したと思います。
ある程度予想してた通り、もしくはそれ以上のショッキングな絵、写真、遺品などを目の当たりにして、悲しい気持ちにもなりましたが、
見終わった感想は、「あー勉強になったなー。」でした。
と同時に、ちゃんとここで学んだ事、感じた事を
なるべく長く記憶に定着させる為にもきちんと整理しておきたい。
と思い、このnoteを書くことにしました。
はい。そうです。
今回のnoteは、ただの「僕のメモ」です。
なので、これを今読んでいる皆様、
ここから先は読まなくて大丈夫です笑
(興味のある方のみ読んでいただけたら、と思います。)
まじでただのメモなので!
それでは、参ります。
原爆の悲惨さは、想像を遥かに超えていた。
今回、原爆ドーム周辺を訪れて学んだ事を一言でまとめるなら
これです。想像を超えていました。
よくよく考えれば、そりゃそうだよな。と思うのですが、ここに来る前はそこまで想像仕切れていませんでした。やっぱりどこか人ごとになってたんだと思います。
完全に想像力不足でした。
例えばどんなところが想像を超えていたのか?
について、これから書いていきます。
原爆による被害の「範囲」
この辺はネットで調べればすぐ分かるものですが、
僕は資料館を訪れて初めて、その被害の範囲の広さを知りました。
原爆の被害の"範囲"と聞いて
僕はなんとなく、「2kmくらいかなー」と思ってました。
(何の根拠もないです笑)
実際はもちろんそんなことはなかったです。
まず、「爆風と光熱による被害」は、3.5km以上に及んでいたと言います。
これだけの範囲の建物や人間を、まず爆風と光熱が一瞬にして焼き払ったのです。
その後降った「黒い雨」は、爆心地から遠く離れた山地にまで及んでいたそうです。
この黒い雨によって、直接、爆風や高熱による被害は受けてなかった人も「放射能」を浴びることになってしまい、間接的に被爆。その被害を受けることになりました。
※↑地図を見てもらえれば分かるように、爆煙はほぼ広島市内全土を覆ったと言っても過言ではありません。
そして、「放射能による被害」です。
ただ、この「放射能による被害」の範囲を正確に表すことは困難で、
今も?さまざまな議論がなされているそうです。
(すみません、ちょっとここは不確かです。)
被爆者は、被爆後、放射能を浴びたことが原因で、さまざまな病気などを発症し、多くの方が犠牲になりましたが、
そこには時間差があり、本当にその病気が「放射能」によるものなのか、判断するのが難しいそうです。
"ということを踏まえた上で"
ではありますが、いずれにしろこちらも非常に広範囲に被害をもたらしたことは確かです。
やっかいだったのが、
原爆が投下された後、遠方の人や医師などが、被爆者の看病のために広島市内へ出入りするようになりました。
そうです。これにより彼らも必然的に放射能を浴びてしまったのです。
これが、「放射能による被害」の範囲をさらに拡大させました。
考えれば考えるほど、原爆の被害がどれだけ広範囲に及んでいたのか、、、
原爆爆破後の「爆風と光熱」→ 爆煙による「黒い雨」→ その後も居座り続けた「放射能」
これらの被害を受けた全ての「範囲」が、この”原爆による被害の「範囲」”です。
完全に想像を超えていました。
原爆による死亡者"数"
続いて、「死没者"数"」です。
こちらの数字ですが、実は正確な数字は未だに分かっていません。
理由は、先程述べたとおり、「放射能」による被害者が正確に特定できないからです。
そのため、諸説ありますが、原爆死没者追悼祈念館には
「30万人もの方が原爆によって亡くなった可能性がある」
と書かれていました。
"原爆が落とされた1945年、の12月末までに亡くなった数"
で言うと、約14万人が亡くなったと言われています。
当時の広島市の人口は推計35万人と言われています。
たった半年で、市の人口の約4割が失われたのです。
ちなみに、東日本大震災の死亡者数が約1万6000人だそうです。
東日本大震災の出来事については、今もなお人々の話題になったりしていますが、広島に原爆が投下された話は、今やほとんど話題にする人はいません。
当時生きていた方たちが今はもうほとんど亡くなってきているから、というのはあると思いますが、もっと語り継がれても良いものなんじゃないかなーと思ったりもします。
もちろん、単純な「死亡者数」でどっちが悲惨だったか、とかは計れるものではないし、計るつもりもないですが、
どう考えたって、原爆によって失われた命の数は、桁違いの数字です。
それを思うと、「なんて悲惨だったんだ。」とも思いますが、
と同時に、そこから立ち上がった広島は本当にすごいなと思います。
心なしか、広島の方たちは、強くてたくましそうな人が多い気がしました。
原爆の恐ろしさ①:爆風
原爆がもたらした被害は、大きく分けて「爆風」「光熱」「放射能」の3つによるものが考えられます。
まずは、そのうちの「爆風」による被害について。
「爆風」による被害
原爆爆破後、周囲の空気は急激に膨張し、超高圧の爆風を吹き起こしました。
爆風は広範囲まで及び、半径2km以内の建物はほぼ全壊。市内の約90%もの建物を破壊したそうです。
爆風は、人間や建物などあらゆるものを吹き飛ばしました。
吹き飛ばされた家屋の下敷きになってしまった人。
飛んできたガラスなどの破片により、血だらけになった人。
飛んできた破片によって、ボコボコに穴が空いた壁。
様々な痛々しい展示品を見てきました。
ものの数秒間の出来事です。
ピカッ、ドン!
この数秒後、あたり一面は焼け野原に変わっていて、身体は飛んできた破片によって血だらけ。目の前では、お母さんががれきの下敷きになっていて、助けたくてももはや助けることができない。
こんなことが書かれた日記や、絵、写真などがたくさん展示されていたのを覚えています。
建物疎開
当時の若者や学生の多くは、「建物疎開」と呼ばれる建物の解体工事に従事させられていました。「建物疎開」というのは、空襲の際、建物の火災による2次災害を防ぐため、あらかじめ建物を解体し、防火帯となるスペースを確保することを言います。
原爆が落とされる日、多くの学生たちはこの「建物疎開」のため、建物の解体工事を行なっていました。
そのため、原爆の爆風により多くの学生が建物の下敷きになり命を落としたのです。
資料館には多くの「学生たちの遺品」が展示されていました。
「自分はもう助からない。」ことを悟り、通行人に名札やバッジなどを彼らの家族に渡すようお願いしたと言います。
原爆の恐ろしさ②:光熱
「光熱」による被害
原爆の被害は「爆風」だけではありません。
原爆は、爆破と同時に強烈な閃光と熱線を放ちました。
火球中心の温度は、なんと100万度を超え、爆心地周辺の地表面の温度は3000〜4000度にも達したと言われています。
この「光熱」は非常に広範囲まで広がり、爆心地から3.5km離れた人でさえも火傷を負ったと言います。
この「光熱」により、爆心地周辺は火の海に包まれ、街は1日中燃え続けていたそうです。
僕の想像を超えていたのは何と言ってもこの「光熱」の温度です。
想像してください。爆心地周辺の地表面の温度、3000〜4000度ですよ?
鉄の溶ける温度が約1500度です。
家の瓦は、表面を泡のように細かいブツブツした形に変形させ、真っ黒に焦げ固まっていました。「光熱」を浴び、一瞬にして溶けて沸騰し、焦げて固まったのです。
では、人間はどうだったのか。言うまでもありません。。
爆心地周辺の人たちはほとんどが即死。まっ黒に焦げ固まった死体の写真が思い出されます。
半径1〜2km圏内の人たちも、多くがまもなく亡くなりました。
原爆ドームから広島駅までの距離が2kmちょっとです。広島に行ったことない方は想像しにくいかもですが、まあまあな距離です。これだけの人たちが、この原爆の「光熱」を浴びて亡くなりました。
また、資料館などには、この「光熱」を浴びてしまった人の写真が展示されているのですが、その写真の痛々しさは言葉を失うほどでした。
超高温の熱線を受け、肌は溶け落ち、テッカテカに黒光りしています。まるで、熱々のフライパンの上にジューッと押しつけられたかのよう。それも全身に。
どれほど痛かっただろう。。。
爆心地周辺の人々は即死だったので、痛みなどは感じることなく「うわ、眩しい、、」という間に亡くなったと思われるので、死に方としては”まだ”マシだったかなと思います。
辛かったのは、爆心地から1〜2km前後にいてギリギリ意識があった人たちです。「アツイ。イタイよ。」と泣き叫びながら、灼熱の炎に包まれた街のなかを彷徨いました。
肌が溶けて皮膚が剥がれ落ち、皮膚の内側の肉や骨が見えてしまっています。
背中は真っ黒に焦げています。
溶けた肌に衣服が絡まり、服が脱げなくなっています。
通常の火傷は、赤く腫れる程度ですが、被爆による火傷はそんなものではありません。
"腫れる"とかではないんです。"溶ける"とか"焦げる"なんです。
この痛々しさは、言葉では表しきれません。
また、広島市は三角州のような地形をしていて、周辺を山に囲われ、そこから複数の川が市街地へ流れています。
人々は、灼熱の街の中、
全身大火傷した身体を少しでも冷やそうと、
乾ききった喉を少しでも潤おそうと、
その川の中に飛び込みました。
”川に多くの人が飛び込んだ”という事実は知っていました。
しかし、ここを訪れる前まではどこか人ごとで「へーそうなんだー。」くらいにしか思っていませんでした。
今考えれば「そりゃそうだよね。辛かったよね。」と、心からそう思います。地面はめちゃくちゃ熱いし、街はものすごい高温に包まれている。喉はカラカラに乾ききり、からだは全身大火傷。身体中イタイしアツイ。
川の中は大量の死体でいっぱいだったそうです。死体は、水でふやけて腐り、淀んだ赤、青、紫色などに変色していたそうです。
また当時、「水を飲んだら死ぬ。」という噂が広がりました。
多くの人が、川にたどり着きようやく水を飲むことができましたが、その後バタバタと亡くなっていったそうです。
僕の記憶が正しければ、詳しい原因が記載された展示物はなかったように思います。
その為、僕も詳しい原因はわからないのですが、逆にこの”噂”のせいで、水を飲まずに苦しみながら死んでいった人も多くいたと言います。
水をせがんで泣きじゃくる赤ん坊に、最期まで水を与えなかった母親も多かったそうです。「せめて最期に水を飲ませてあげれば良かった。。」と言った事が書かれた日記などもありました。
「爆風」による被害に合わせて、この「光熱」による被害です。
当時の街の様子は「悲惨」という言葉では言い表せないほどに残酷な状態だったことと思います。。
ケロイド
原爆の強烈な「光熱」を浴び、全身大火傷を負いながらも無事生き延びれたのもつかの間。
原爆投下から数ヶ月〜数年後、「ケロイド」と呼ばれる”皮膚の炎症症状”を発症する人が続出しました。
被爆時に負った火傷跡が再び大きく盛り上がり、激しい痛みと痒みをともないました。見た目は非常におぞましく、蕁麻疹の腫れをもっと大きくし、表面を少しボコボコさせ、赤みを取り除いたような感じとでも言いましょうか。苦手な方は本当に見てられないほどです。
画像など、検索すれば出てくるので、気になる方は見てみてください。正直、見た目があまりよろしいものでは無いので、ここでは添付しないでおきます。
原因は完全には分かっていないそうなのですが、おそらく被爆による火傷キズの回復・再生段階で、皮膚が何らかの炎症を引き起こす為に発症するものだと言われています。
今でも、「ケロイド」という症状は存在するのですが、当時の人たちが発症した「ケロイド」ほど見た目も症状もひどくありません。
なので、当時の人たちが発症した「ケロイド」は、「放射能」による影響もあった可能性があると言われています。
「ケロイド」は、激しい痛みと痒みを伴うだけでなく、その見た目のおぞましさから、人々の心にも大きなキズを与えました。
後ほど、詳しく書きますが、当時、「放射能」の被害による恐怖が生き残った被爆者たちを苦しめました。被爆から年月が経っても人々は、”死の恐怖”から逃れることは出来なかったのです。
そんな精神状態の時に、この「ケロイド」の出現が人々の心を苦しめたことは言うまでもないでしょう。
「ケロイド」は、薬を塗ったり飲んだりしてもなかなか良くならず、治療はとても苦労したそうです。どうしても良くならないので、ケロイド部分を切断して治す人もいました。
原爆の恐ろしさ③:放射能
「放射能」による被害
そして、3つ目。「放射能」による被害です。
「放射能」は、長期間にわたって、いや、”死ぬまで” 被爆者たちを苦しめました。
爆心地近くでもろに放射能を浴びてしまった人たちは、”遅かれ早かれ”命を落としました。
この”遅かれ早かれ”というのは、本当にこの言葉通りで、早い人は、数日後、遅い人は、数ヶ月〜数年後経った後に亡くなりました。
放射能を浴びてしまった被爆者は、被爆後、吐き気や下痢の症状を発症しました。少しずつ体力が弱まっていき、そして死に至ります。
この吐き気と下痢を”発症するまでの期間”と、”発症から死に至るまでの期間”が、人それぞれで、この”時間差”が被爆者たちを長い間不安にさせ続けたのです。
吐き気や下痢の症状が始まり、次第に弱っていく様子が書かれた日記がいくつも展示してありました。死ぬ前日の日記はほとんどが、大きく崩れた字体で一言書いてある程度。
「疲れた。」
「今日は一日寝たきり。」
また、「放射能」による被害が他の「爆風」や「光熱」による被害と決定的に違ったのは、「直接被爆してない人へも影響を与えた」と言う点です。
原爆爆破後、広島市全域を覆ったと言われている「黒い雲」や、被爆者の看病のために広島市内を出入りしていた医師や被爆者のご家族なども、この「放射能」を浴びることになり、間接的に被爆しました。
彼らも、すぐに死に至ることは無かったにしろ、しばらくして腹痛や発熱、吐き気などに襲われ、やがて亡くなる、もしくは長期にわたって苦しめられ続けました。
死の斑点
爆心地からかなり近くで「放射能」を浴びてしまった人は、被爆後すぐに吐き気や下痢の症状を発症し、数日の間で亡くなっていきました。
しかし、それよりかは離れた場所で「放射能」を浴びた人は、吐き気や下痢の発症までに少し時間差がありました。
しかしながら、そういった人たちも多くがやがて亡くなりました。
しかも、被爆者たちはその死期を悟ることができたのです。
なぜか。
「死の斑点」の出現です。
被爆後すぐには「放射能」による症状を発症しなかった人も、やがてだるけを感じ、吐き気や下痢を発症したのですが、なぜだか、死期が近づくと顔や体中に黒紫色の斑点が出現したそうです。これを当時の人は「死の斑点」と呼び、これが出現したら”最期”と死を覚悟しました。
残酷すぎる。
人々は、被爆後、このいつ出るか分からない「死の斑点」にずっと怯えながら生きていかなければならなかったのです。
「放射能」による”後障害”
被爆から数年経ち、だるけや吐き気などは続くものの、「死の斑点」は姿を表すことなく生存できた人たちもいました。
しかし、まだ安心することはできませんでした。
被爆後、比較的すぐに発症する症状(吐き気、下痢、発熱など)のことを”急性障害”と呼ぶのに対し、
被爆からしばらく経った後に長期にわたって被爆者を苦しめた症状のことを”後障害”と言うそうです。
「ケロイド」も後障害の一つと言えるでしょう。
被爆後もずっと頭痛やだるけが取れず、被爆から10年後とかにそのまま亡くなってしまった人などもいたそうですが、これも後障害の一つでしょう。
また、後障害として有名なのが「白血病」や「がん」です。
これらは、被爆から5年後とか10年後とかに発症する人が多かったそうです。
原爆の子の像
中でも有名なのが、「原爆の子の像」で有名な”佐々木禎子さん”の話です。
彼女は2歳のころに被爆しましたが、その後、幸い特に怪我や病気もなく元気に過ごしていたそうです。
ところが、10年後の12歳の時、突然「白血病」を発病。当時禎子さんは小学6年生でした。
禎子さんはとても笑顔の素敵な子だったと言います。
たくさんのお友達がお見舞いに訪れ、禎子さんを励まし続けたそうですが、約8ヶ月の闘病の末、その生涯を終えました。
禎子さんは、闘病中、「千羽鶴を折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙などで合計1300羽以上の鶴を折ったそうです。
病気で手先がだんだん動かなくなり、最後の方はピンセットを使って折っていたそうで、資料館にはその小さーく折られた鶴が展示されていました。
また、禎子さんのご両親は、本人には病名を伝えなかったらしいのですが、禎子さんは、自分が”血液の病気”であるというのは悟っていたらしく、毎日の血液検査の数値がびっしりと記録されたメモが展示されていました。
また、禎子さんの死後、人体解剖を行なった結果、全身に”がん”が転移していたことが分かったそうです。
禎子さんの死後、禎子さんの死を惜しんだ同級生たちなどによって作られたのが「原爆の子の像」です。
平和記念公園内にその像と大量の千羽鶴が入ったブースがあるので、平和記念公園を訪れた際は、是非お立ち寄りください。
当時の人たちが、世界に向けて平和を願った想いや言葉を感じることができると思います。
胎児への影響
「放射能」による被害はまだ続きました。「胎児への影響」です。
放射能を多く浴びてしまった母親から生まれた子どもは、この「放射能」による被害を受けているケースが多く、死産する人もいたり、無事に生まれても、その後亡くなる死亡率は高く寿命も短かったそうです。
また、無事に生まれても奇形児だったり、「原爆小頭症」と呼ばれる症状を持っていたりしました。「原爆小頭症」とは、頭が通常より小さい状態で生まれてきてしまうこと言い、知的障害を伴っているケースもあったそうです。
このように、「放射能」は長期間かつ広範囲に被害を及ぼし、被爆者は心身ともに疲弊していきました。また、被爆者本人のみならず、その子孫たちにも影響を及ぼし、どこまでもどこまでも被爆者を苦しめたのです。
原爆がもたらしたその他の被害
差別
これまで書いてきた「爆風」「光熱」「放射能」による被害を受けながらも、なんとか生き残れた人たちもいます。
しかしながら、せっかく生き延びることはできても、彼らのその後の人生は必ずしも幸せなものではありませんでした。
彼らは、”被爆者”というだけで様々な「差別」を受けたのです。
(もちろん全員ではないと思いますが)
前述した「ケロイド」を発症してしまった人たちも、そのおぞましい見た目などから数々の罵倒、差別用語を浴びせられました。これまで仲の良かった友達や家族からでさえも差別やいじめにあった人もいました。
また、”病院になかなか受け入れてもらえない” などの差別もありました。
名前などは忘れてしまったのですが、ある40〜50歳前後の男性が、原爆の後障害で頭痛やだるけなどに悩まされ病院を訪れるも、結局最後まで受け入れてくれる病院が見つからなかったそうです。
何度も病院を訪れますが、終いには全身ギブスを渡され「これでも被って寝込んでろ。」と言われ突き放されてしまったそうです。
この男性の家族は被爆後、原爆で失ったか何かで妻がおらず二人の子供とこの男性の3人で暮らしていました。
しかし、この男性は、放射能の影響で頭痛や吐き気がもう何年も続いていて、基本寝たきりで生きる気力すら感じなくなってきています。
職も失い、家族を養うどころか自分が生きていくことすら困難な状況でした。子供たちは、父親が寝たきりなので、食料を獲りに近くの川に貝を拾いに行きます。街の人たちは彼らのそんな様子を見ながら軽蔑していました。
男性は、何年も何年もの間後障害に苦しめられ続けましたが、
結局、病院には受け入れてもらえず、職も見つからず、終いには子供たちからも呆れられ、
後障害により次第にからだは弱っていき、そのまま息を引き取りました。
奪われた"将来"
先程の男性の話でもありましたが、
被爆者のその後の人生は、せっかく生き残れたのにも関わらず、引き続き大変な生活を余儀無くされました。
"被爆者の今後の生活は国が保障します"なんてことはもちろんなく、被爆者は被爆後も自力で生活をしていかねばなりません。
しかし、それは彼らにとっては非常に酷な事でした。多くの被爆者は被爆により、職を失いました。差別的な要因もあったと思います。
そして、そんな彼らの再就職先を見つけるのも同じく非常に困難でした。
後障害などで頭痛や発熱などが続いていて、体調的に再帰が困難。
差別的要因により再就職できない。
被爆によって、その職業に必要な致命的な何かを失ってしまった。
などが理由として挙げられます。
どれもどうすることもできない事ばかりで、なんともやるせない気持ちになります。。
また、被爆時、学生だった人の中には、被爆による後障害や後遺症により将来の夢を諦めざるを得ない人などもいました。
被爆により皮膚や手足が変形してしまったり、後障害などで思うように体が動かせないなどで、就きたかった職業に就けなくなってしまったのです。
まあ、雇う側としては、
被爆の影響で体調やパフォーマンスが良好でない人や、(こう言う言い方は不適切かもしれませんが)もしかしたらいつ死ぬか分からない人だったりする人たちをなかなか雇いにくいという気持ちはあったのかもしれないし、その気持ちも全く理解できなくはないです。
でもやはり、多少、差別的な考えはあったんじゃないか?と勝手に思ってはいますが、、。
このように、被爆者たちは被爆後も「放射能」の後障害などでいつ死ぬか分からない恐怖と戦いながら、通常の元の生活を取り戻すことすらままならない状況の中、”生きて”いかねばならなかったのです。
まとめ
本当に彼らが受けた被害の大きさは僕の想像をはるかに超えていました。
しかしながら、だからこそ同時に、そこから立ち直った被爆者と広島市民の人たちには尊敬しかありません。
今回こうして原爆ドームや平和記念公園を訪れて、様々な学びと気づきがありました。
今後の人生で、活かせるところは活かしていこうと思いますし、
まだこの事実を知らない人には、是非とも伝えていきたいと思いました。
まとめると、本当に行って良かった!
これに尽きます。。!
というわけで、ここまで読んでくれた皆さま、本当に長々と長文を読んでいただきありがとうございます!!!
これを読んで何か新しい発見などがあったなら、この上なく嬉しいです!
また、補足や説明が足りない部分などがあったら、逆に教えてください!笑
勉強したいです!!!
それでは、今後ともよろしくお願いします!
ありがとうございました!