連れてきたよファンタァジェンー岩井俊二『8日で死んだ怪獣の12日の物語』を観てみた※ネタバレあり
YouTubeの岩井俊二映画祭チャンネルがアツい。
『四月物語』『花とアリス』に続いて、『8日で死んだ怪獣の12日の物語-劇場版-』(岩井俊二監督 2020年)が無料配信されました。
(無料配信は昨日5月28日まで)
滑りこみでしたが、観ることができました。
ざっくりとした感想は以下の通り。
まずは、なんだか不思議な気持ちになりました。
冒頭からカメラが上空2〜3メールのあたりをゆっくり浮遊していて、なんだかふわふわします。
そして演技力と演出力の賜物だと思うのですが、登場人物たちは演技ではなく本人が本当にZoomしているかのようです。(斎藤工はサイトウタクミという役を演じるのですが、まるで斎藤工本人のよう)
特に真面目に怪獣を育てる斎藤工と宇宙人を育てるのんのやりとりにはほんわかします。
エンドロール中の音楽にもポワンとします。まさかの作曲:細野晴臣、歌:小泉今日子。
ポワンとしたのはいいのですが、肝心の映画のメッセージについては、一回みただけではよくわかりませんでした。
というわけで、この記事では本作のメッセージについて考えてみたいと思います。
以下ネタバレします。ご注意ください。
物語設定
ときはコロナが猛威をふるっている現代。
怪獣や宇宙人を通販で買える世界。
斎藤工は通販でカプセル怪獣の卵を買って育てます。怪獣にコロナと戦ってもらうことが目的です。
斎藤は、カプセル怪獣に詳しい樋口真嗣にアドバイスをもらったり、先輩の武井壮とZoom飲みしたり、宇宙人育成中の、のんと情報交換したり、それから斎藤と同じくカプセル怪獣を育てているユーチューバー穂志もえかの配信をみたりして過ごします。
(みな役名があるのですが、ここでは役者の名前のまま記します。斎藤の役名はサイトウタクミ、樋口真嗣の役名は樋口監督というように、半分本人役のような設定になっているので、役名に変換しなくても問題ないだろうと考えました。)
怪獣の形態は日々変化します。いろんな怪獣=>コロナウィルスもどき=>仮面もどき=>マスクもどきになったりします。
終盤、宇宙人は地球を去るのですが、そのとき、のんにコロナワクチンを残していきます。
浮遊するカメラは誰の視線?
冒頭、地上2〜3メートルの高さに設置されていると思われるカメラがガラガラの渋谷スクランブル交差点を映します。そしてゆっくりとセンター街、幹線道路?、商店街、駅などを移動します。
いきなり?です。
これはいったい誰の視線なのでしょう。
怪獣を飼い始めて11日目、ヒントを得ることができます。怪獣は風船怪獣バルンガのような形状に変化しています。斎藤はバルンガをネットで調べます。
なるほど。浮遊するカメラはどうやらバルンガの視線だったようです。いや、でも、東京上空に居座るのであれば、もっと東京全体を見渡せる上空にいる方がイメージに合うのではないでしょうか。
そういえば、育てている怪獣バルンガの形状は、コロナウィルスの形状に似ています。コロナウィルスの視線であれば納得しやすいよなぁ、とか考えていたら、視線と同じ高さを浮遊するバルンガ=コロナウィルスが映し出されます。
浮遊するカメラは、バルンガ=コロナウィルスに付随する専用カメラのことではないかと思います。別の個体のバルンガ=コロナウィルスの視線の可能性もありますが、本作では登場人物それぞれに専用のカメラがある設定なので、バルンガ=コロナウィルス専用カメラがある方が自然だろうと考えました。
Zoom画面に何を観るのか?
コロナによって不要不急な外出は禁止されているので、斎藤、のん、武井、穂志、樋口といった登場人物はすべて、ZoomやらYouTubeのようなものを介したコミュニケーションを行います。だから、みんな自分の端末の画面の方を向いています。互いに直接視線を向けることはありません。
画面には相手の顔も自分の顔も映し出されるので、相手の顔も自分の顔も見ながら会話することになります。そしてそれぞれの顔は自分専用カメラが捉えた映像です。
ここまで確認した上で、いったい視聴者である私は何を観せられているのか考えます。視聴者の視線は、各登場人物それぞれ専用のカメラの視線になっています。Zoomの流行以前の映画は、基本的に、ワンショットひとつのカメラで撮っていることが多かったと思います。しかしZoom流行以後の現実世界ではカメラは爆発的に増えました。今や参加者ひとりひとりにカメラがあります。ですから、かつて現実をひとつの視線にまとめていたカメラは複数になり、もはやひとつにまとめることはありません。複数のショットをまとめるのは、今やZoomのようなプラットフォームではないでしょうか。いや、まとめるというよりは羅列するという方が適切かもしれません。ただし視聴者のカメラで撮影した視聴者の映像だけはそこには存在しません。
かつて人は映画のスクリーンに登場するキャラクターイメージ(見える)に憧れるとともに、カメラの背後にいる監督やカメラマンの存在(見えない)を想像して同一化しようとしてきました。この二重の同一化と差異によって主体が形成されました。
ところがポストモダン化が進み、背後の存在が弱体化してしまいます。同時にコンピュータが登場すると、スクリーン上にキャラクターイメージ(見える)とシンボル(ゴミ箱アイコンなど。見えない)両方が表示されるようになりました。この二重の同一化と差異によって主体が形成されるようになります。
そしてZoomが登場します。スクリーン上には、ほぼキャラクターイメージだけが表示されます。しかし今までとまったく違う現象があります。そこには自身の姿も表示されます。スクリーンというオブジェクトレベル上にメタレベルが表示されているようなものだと思います。そしてキャラクターイメージを撮影しているのは機械で、人間を必要としません。この環境では人間は機械にしか接触しません。殺伐とした世界です。そして、このZoomのスクリーンを映画のスクリーンに映し出すことでもう一捻り加わります。ただそこにはカメラがあるかどうかもわかりません。Zoomのスクリーンというデジタルデータをそのまま映画のスクリーンに投影しているのだとすれば、そこに映画のためのカメラは存在していないのではないでしょうか。このような状況の中でどうやって人は二重化するのでしょう。オブジェクトレベルのイメージとメタレベルのイメージで二重化するしかないのではないでしょうか。
しかしここにはシンボルはありません。イメージのみの世界です。ということは動物と見ている世界が同じになるのではないでしょうか。ただし、そこには自分というメタレベルのイメージも存在している世界。
かなり動物寄りな人間(人間と呼べるのかどうかあやしい)になりそうなので、イヤな予感しかしません。
心配なので、人間がこれからどう変化していくのか、よく考えたいと思います。
連れてってファンタァジェン
いまいち釈然としないままエンドロールを迎えるのですが、そこで流れるのが小泉今日子の「連れてってファンタァジェン」です。
ここにヒントがあるのではないかと思い、詩を確認します。
すぐそばにあるファンタァジェン(見えない)にいこう。そして勇気で世界をかえよう。
なるほど。小泉の歌を聴いて気づきました。本作はファンタァジェンそのものでした。だって怪獣も宇宙人も通販で買えるし、コロナウィルス専用カメラで街を眺めることができる世界なのですから。
しかし、勇気で世界を変える話になっていたかどうかについては疑問があります。怪獣は、いろいろ変形しながら、コロナウィルスになったり、最終的にはマスクになったりします。また、宇宙人がワクチンを提供してくれたりします。基本的に他力本願なんですよね。
だからふり絞るとすれば、ファンタァジェンにいくための勇気なのではないでしょうか。
ファンタァジェンにいくこととは、シンボル(見えないもの)をとりもどすことでしょう。つまり岩井はZoom的世界で動物化にまっすぐ向かうのではなく、ファンタァジェンに寄り道して人間的主体を失うことがないようにしようと言いたかったのではないでしょうか。
本作の中で樋口も言っていたように、つい最近まで、私たちはある意味超危険な宇宙人やUFOとともに生きていました。だって新聞に宇宙人やUFOの目撃情報なんかが掲載されていたのですから。だから抑圧・隔離するだけではなく、コロナとともに生きることを考えても良いのではないか。そうすることで、失った人間的なものを取り戻そうと言っているのではないでしょうか。
岩井は視聴者に「連れてきたよファンタァジェン」っていうために本作をつくったのかもしれません。
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