葛藤とは出会いのことだったー乃木坂46『考えないようにする』について考えてみた
2023年8月18日に乃木坂46「考えないようにする」のMVが公開された。
とても感動したので、忘れないように感じたことを書き残しておこうと思う。
歌詞
MVを観る前にまず歌詞を確認する。
葉脈が美しい
植物は会話ができる
まず、この歌は葉の歌であることが宣言される。
しかしシーンは唐突に人間界に切り替わる。
友人ふたりと過ごしているパーフェクトワールド。
その友人たちが付き合っていることを知って世界が崩壊しはじめる。
でも世界を守るために、好きにならないと決心する。
でもそんなこと、できるわけがないことはわかっている。
好きという感情を制御するすべはないからだ。
だから世界の果てでもがき苦しむ。
葉の世界に切り替わる。
葉は移動するけどそれは風によってだ。
そして人間界に切り替わる。
頻繁に世界が切り替わるので、葉界と人間界が溶けて混ざっていく。
世界崩壊に抵抗するために、もしかしたら自分が付き合えたのではないかという妄想をつくるが、そんなものは役に立たないことを悟る。
しょうがないから考えないようにする。
でもできるわけがない。
好きという感情が溢れ出して止まらない。
そしてついに世界=自分が崩壊する。
ずっと喋り続けたり突然黙り込んだり
どこか不自然になってる私に
絶対気づかないで、それでもそばにいさせて
何も考えないでいるから
双極性障害だ。判断も壊れている。
「”絶対”気づかないで」
無理だ。相手に依存するからだ。
「何も考えないでいるから」
人間である以上無理だ。考えることは人間の条件だからだ。考えないものをもはや人間とは呼ばない。
このあたりで気づく。人間じゃなければ考えないでいられる。
そういえば葉界と人間界は混ざっていた。
考えないようにするとは葉になることだったのだ。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや
斬新すぎるだろ。確かに植物は会話や記憶ができるという研究はある。でも主体があるのかどうかはわからない。というか植物に主体があるとすると、人間の定義を考え直す必要がある。
そんなこと僕なんかには考えられないので、ここでは常識的に植物には主体がないとする。そうすると確かに考えないようにできるだろう。そしてそばにいることもできるかもしれないけど、それはあくまでも偶然に左右される。そばにいられない確率のほうが高いだろう。
ほんとうにこの歌詞は葉になれと言っているのか?
そして一番のサビに戻る。
世界を守るために抵抗する。好きにならないと決心する。
でもそんなことできるわけがないことはわかっている。
つねに考えるよりも先に好きという感情が生まれるからだ。
だから世界の果てでもがき苦しむ。
歌詞を一行にまとめると
人間界では救いはない。だから葉界にいけ。そして葉になれ。
斬新すぎてかっこいい。まったく共感できないけど、とりあえずわかったふりをしておこう。
これがMVを見るまでの感想だ。
だからMVを待ちわびていた。僕は決定的に誤解しているのではないかと思っていて、それをMVが解いてくれるのではないかと思っていたからだ。
ではMVを観ていく。
構造
海辺に立つ冨里奈央の後ろ姿からスタートする。
ゲームの三人称視点キャラクターのようだ。
海辺は陸と海の境界なので、文化と自然、意識と無意識、精神と身体、上半身と下半身、言葉と物、政治と経済、偶然と必然、まじめとふまじめなどの境界のメタファーになることが多い。そしてこれらの対立の間で揺れ動くのが人間だ。
冨里によるナレーションとテロップが入る。
冨里は「同調は美しく」と「同調は苦しい」の間に立っている。
そしてカメラが切り替わり、冨里が胸に抱える本のアップ。その本も冨里と同様「同調は美しく」と「同調は苦しい」のテロップの間に配置される。どうやらこの本も境界にあるようだ。
もしかしたら、上半身と下半身の間(心?)が「同調は美しく」と「同調は苦しい」の間にあるということかもしれない。
そしてようやく冨里の顔をみることができる。
この表情。
たしかに境界人はこんな表情をしているのかもしれない。
続々とメンバーが登場する。
まず井上和。
カメラが引く。
すると井上は一ノ瀬美空と川﨑桜の間にいることがわかる。
三層だ。まず境界(中間)の井上にフォーカスし、三層が提示される。
そして五百城茉央へ。
カメラが引く。五百城は小川彩と奥田いろはの間にいる。
井上のシーケンスと同じパターンだ。
境界の冨里、井上、五百城を写した後、他の二項または二人を映し出すパターンが連続する。(冨里の場合の他の二項とは「同調は美しく」と「同調は苦しい」)
次にパターンがくずされ、いきなり中西アルノ、菅原咲月、池田瑛紗の三人が映し出される。パターンは一つではないということか。
画面が切り替わる。今度は部屋の中に一人の女性が立っている。後ろ姿しかわからない。外の森を眺めている。
つづいて同調ダンスしている井上と冨里が映し出される。しかも上の後ろ姿の女性と同じドレスを着ているようだ。
後ろ姿の女性と井上、冨里のペアが三層をつくっているのかはわからない。ただもしこれが三層なのだとすれば、三層にもいろいろな形態があることを表現しているのではないか。
そしてロダンの地獄の門。テロップは「同調とバラバラ」。
最初のテロップは「同調は美しく 同調は苦しい」だった。同調の性質は美/苦の二項対立(対立しているのかは微妙)で表され、次に地獄の門は同調/バラバラの二項対立で表される。門はこちらとあちらに分ける境界だ。
地獄の門上部にある「三つの形」は同じひとりの人物を異なる角度で表現したものだ。なるほどこのMVでは、人間は三人で表現されるのだろう。謎の女性、井上、冨里もセットである可能性が高まった。
そして同調/バラバラなのは人間の性質のことでもあるだろう。
一瞬、考える人と対峙する冨里が挿入される。
考える人は冨里のそばにいるということか、あるいは冨里自身か。
直後に冨里のナレーション。
海辺で「あ、まただ。考えてしまう。」
そしてこの表情。憂鬱そうだ。
ようやくイントロが流れる。
テロップが入ることで縦も横も三層になっていることに注目。
縦はテロップの3層、横はメンバーの間にテロップを配置して三層。
徹底している。
そして衣装。みな同じだ。そして髪に葉のアクセサリー。
間違いない。彼女たちは葉だ。
そして三つの三層が連続して映し出される。
そして冨里一人。このシーケンスではみな普段着だ。
そのそばに一枚の葉。
普段着の冨里も葉なのか。いや人間冨里のすぐそばには葉があるということかもしれない。
そういえば、考えてしまって憂鬱になる時、そばには考える人があった。地獄の門前には冨里と考える人が、門の後ろには冨里と葉があるのではないか。
ここまでに三つの冨里が登場した。
冨里=境界
冨里=葉
冨里=人間(考える人)
(葉の冨里と人間の冨里は近くにいる)
ここから歌いはじめるのだが、そこでは冨里と井上ペアが同調ダンスしている。
葉脈について歌っているので、三人ではなく二人がふさわしい。
つづいて画面は同調ダンスする池田と一ノ瀬ペア。
ここもまだ植物について説明しているから二人が妥当だ。
そしていよいよ友人二人がつきあっていることを知ることになる。
ここでは三人がバラバラダンスしているのがふさわしい。
そう。バラバラな三人だ。とても論理的につくられている。
と安心?していたら、いきなり同調ダンス。
なぜだ。
次のショットで謎が解ける。
別の三人が同調ダンスしている。
この時の歌詞は
一緒にいるその時間だけでも充分幸せだから
だ。
三人いたら境界(=葛藤)は決してなくならないが、見かけだけでも同調しているように、幸せであるように見せたいから同調ダンスなのだろう。
先の三人がバラバラダンスから同調ダンスに切り替わったのは、この心情を表現するためだったのだ。
そして地獄の門前でサビ。
地獄の門前。門はあちらとこちらを分けている。こちらでは葉の衣装で全員が同調ダンスしている。
ということは、門の前は葉の層、門は境界、門の後ろは人間の層ということになるだろう。
動物(身体or下半身)と人間(精神or上半身)の二項対立はよく目にするが、植物と人間の二項対立ははじめて目にするかもしれない。もしかして新しい人間像を提示しようとしているのか。
ここで休憩
↓サービスショット
(重なってる手がずれて離れていっている)
さて二番。
冨里は葉を手にとる。その葉を本にはさむ。冨里=葉=本に合体だ。冒頭、本も境界にあって、冨里が抱きしめていたから冨里自身だ。
ここは葉について歌っているので、葉を映すのは妥当だ。しかし一番と異なるのは冨里が人間の衣装(普段着)を着ていることだ。ということは人間冨里と葉冨里が合体したことになる。
そして普段着の3人のショットへ。
ここでは、風に舞う一枚の葉が落ちて地面のどこに「着地するのでしょうか?」という歌が流れる。葉が葉の世界を超えて人間界を彷徨っている。だから人間は普段着だ。
この「着地するのでしょうか?」が歌われるタイミングで五百城がアップになり、そしてしゃがみ込む。
まるで五百城は地面に着地する一枚の葉だ。五百城も人間と葉が重なっている存在なのだろう。
つづいて川﨑のアップ。川﨑も人間と葉の重なりかもしれない。
それにしてもここの川﨑の透明感にはちょっとびびる。
そして池田と菅原に中西が合流するシーケンス。
葛藤が生まれる瞬間だ。(三人になるから)
中西は人間と葉の重なりだろう。
このショット、実にアツいのだ。
言葉が書いてある看板の下に自動車。その境界は緑(と黄色?)の屋根。
つまり言葉と物の間に緑があることになる。ここまでの流れ上、緑とは葉だと考えられる。だから言葉と物の境界が葉ということになる。しかしこれはおかしい。人間(言葉)と葉(もの)の間に境界があるというのが歌詞の一番の結論だった。そこで黄色の存在に目がいく。なるほど黄色は人間の色だったのだ。言葉と物の境界は人間、ただしここでの人間は、人間と葉が重なった存在、いわば新しい人間のことだ。
そうだとすると他の三人グループも境界にいるのではないか。
確認する。
井上、一ノ瀬、川﨑は海と陸の境界にいる。
五百城、奥田、小川は町と山の境界にいる。
実に徹底している。
シーンは五百城を励ます奥田と小川へ。
座り込んでいる五百城の手をとり、立ち上がらせるのは二人の存在だ。二人とは二人の人間であり、人間と葉のことだ。
つづいて池田、菅原、中西の3人へ。
中西は二人の仲に嫉妬している境界的存在だ。
そして川﨑、井上、一ノ瀬へ。
一人だった川﨑に二人が話しかける。川﨑も嫉妬していたのかもしれないが、それでも歌詞は「私まで幸せだった」だ。
そして風速計。葉は自力ではなく風の力でここまで飛ばされたのだった。
二人に促されてなんとか立ち上がる五百城もちょっとだけ映る。二人の力を得てなんとか前に進もうとしている。
そしてサビへ。
まずは全員葉の衣装。しかも地獄の門前ではない。境界のない(見えない)葉の世界だ。
楽しそうな三人。
ここで冨里(だよね?ちがったらごめん。)が葉を手にするシーンが挿入される。
冨里は一枚の葉と重なっていた。その葉がかつていたであろう場所に触れている。同調とバラバラが接触している瞬間だ。
同調している三人。境界だった五百城が中央にいないのもポイントだ。同調すると境界がなくなる。だから中央ポジションをとる必要がなくなる。
池田、中西、菅原のシーンでは同調とバラバラが共存している。
同調と
バラバラ
バラバラ
バラバラ
そしてはじめて普段着の全員がそろう。しかも超躍動バラバラダンス。二番のサビ冒頭の葉たちがダンスしていなかったのとは対照的だ。
このシーン、地獄の門の後ろを表現しているのかもしれない。
どんどん画面が切り替わる。
ここの歌詞は友人二人を祝いたいけど、でも好きで好きで好きでたまらないという内容だ。
最初の「好きで」は葉の井上が歌い
次の「好きで」は葉の池田が歌い
最後の「好きで」は葉全員が歌う。
問題はここだ。ここは境界ではなく葉の世界だ。同調している葉たちには「好きで」という感情は生じないはずだ。もしかして同調していないのか。
よくわからないが先に進む。
そして転調(転調で合ってる?)。クライマックスへ、そして冒頭へ。
まずは双極性障害に苦しんでいるシーン。境界にいるのがふさわしい。
しかし途中で葉の世界へ。
冒頭近く、冨里と井上は互いを見ていた。今回はまっすぐ、しかも訴えかけるような表情で僕=視聴者を見ているから、自分がMVに取り込まれている錯覚に陥る。
つづいて池田と一ノ瀬にも見つめられる。
ここでふと気づく。
もしや境界にいるのは僕なのか。僕がいるから三層になるのか。
一瞬人間界が映る。ここでは見つめられないし、三人揃っているから、僕はMVの外から客観的に見ていられる。
しかしすぐにまたMVに引きずり込まれる。
なんだこれは。動悸が激しくなる。
ここでは中西は一枚の葉だ。
しかし次には人間界の中西にも見つめられる。
池田と菅原に嫉妬していた中西は僕だったのか。
間奏中の画面。
ここで確信する。
三人は三人称視点キャラクターだ。だから背中を見せている。そしてわざわざ振り向いて僕を見る。しかし逆光で顔がわからない。顔がわかってはいけないのだ。なぜなら彼女たちは僕自信、視聴者自身だからだ。彼女たちの顔は全て僕の顔なのだ。そして三人いるのは人間が三層だからだ。そういえば地獄の門の「三つの形」は同じ人物を異なる角度で表現したものだった。
つづいて葉の四人に見つめられる。
葉の集合の中にも僕はいたんだろう。僕は葉でもある。
そしてついに冒頭、うしろ姿だけが映されていた女性が振り向く。
そう池田だ。そして池田は僕だ。
つづいて井上から見つめられる。
ここで錯覚する。
僕は池田と井上の間に立っているのではないか。
僕は池田であり、井上であり、池田+僕+井上という「三つの形」だ。つまり池田+僕+井上で僕なのだ。
そしてこのシーケンスの最後は全ての葉から見つめられる。みな僕だった。
境界の僕
葉の僕
人間の僕
としてこのMVのいたるところに僕はいた。
間奏へ
一人の冨里を
葉たちがみまもっている。人間界と葉の世界が交錯している。
冨里は振り返る。
でも葉たちの姿は見えない。
そして一番のサビが繰り返される。
映像は葉が地上で同調しているシーンだ。葉たちは、ここではじめて地上に出る。
みな地面に落ちてしまったんだ。二階から見下ろしていた葉たちが見えなくなったのはそういうことだろう。そしてここには冨里もいる。葉の冨里だ。
ここからは全員が葉として地上と地獄の門前で、人間として港(ここは用宗漁港であることが公式に発表されている)で同じダンスをする。
地上(葉の世界)と地獄の門前(境界)と港(人間界)は重なっている。
全て同時に起こっている現象だ。
そして一瞬海辺の冨里が挿入される。振り返って僕を見つめているようだ。改めて冨里は僕だったことがわかる。
その僕がこの時歌っているのは「苦しい」だ。
そしてアウトロ。
普段着を着た人間と舞っている葉が重なっている。そしてみな僕を見ている。
まだまだアウトロ。
楽しそうな三人が連続する。
井上が緑の椅子に座って二人の間を行き来する。緑の椅子はもちろん葉だ。その椅子が移動しやすくしている。コミュニケーションの潤滑油のようだ。
また、井上は葛藤だから行ったり来たりするけれど、実に幸せそうだ。
そして葉脈が透けて見える葉を眺める冨里で曲は終わる。
つまり歌詞の一行目に戻る。
葉脈は冨里であり、僕だった。
ここで楽曲は終了。
歌詞は苦しいという叫びで終わっていた。でもMVでは葛藤が幸せそうだった。なぜその境地に至ったのか。
ターニングポイントは、地上と二階に離れ離れになったあと、地上で出会い直すところだ。それ以降、葉の世界でも人間の世界でも同調する。
実はMVはまだつづく。
井上が冨里に近づき話しかける。
冨里自身だった本のタイトルもわかる。「シンクロの森」だ。
井上をきっかけに他の二人も集まってくる。
葉が地上で出会い直したシーンの人間界側を見せられているかのようだ。
そして冨里のナレーション。
考えてしまうのは誰かがいるからだ。同調もバラバラも出会いがあるたびにおこることだ。
葛藤とは出会いだという境地に至ったから乗り越えられたんだ。
そして用宗駅から出会い直したみんなが出発する。どこかへ。
葉が手から離れる。三層のうち一層を手放せば葛藤はなくなる。でもそれは一瞬のできごとだ。次の出会いがまた三層にするからだ。
そして、冨里は満面の笑みで「あっ、また考えちゃった」。
つまり葛藤の中にいる。でも冒頭や双極性障害の時と違って笑顔だ。
ここで本編終了。
エンドロールは地獄の門=境界のショット。
境界はいつでも、MV本編が終わったあとも静かに存在している。
そして僕はあらためてMVを再生する。
するとまた別の層の『考えないようにする』に出会い直すことだろう。
『あの夏、いちばん静かな海。』
このショット。どこかで見たことがある。
思い出した。
北野武監督『あの夏、いちばん静かな海。』だ。サーフボードが境界を表現している。おそらく葛藤(バラバラ)と結合(同調)を表現している。
ちなみにここも海辺=境界だ。
二人の間にはいつもサーフボードがある。
↓男性が左脇に抱えている。
この男性+サーフボード+女性のセットはまるで冨里だ。
こんなショットも。
それにしてもサーフボードの形、葉に似ている。
ある理由で境界がなくなると(一人がいなくなると)サーフボードは海の中をただ漂う。海は無意識のメタファーだ。つまり境界は無意識に記憶される。自分の無意識にインストールされるのだ。
具体的に何があったか気になる人は、ぜひ映画を観て。
『考えないようにする』MVを気に入った人はきっと気に入るから。
葉脈
最後に登場人物のつながりを図にしてみたいと思う。MV内で関係したメンバーを線でつないでみた。
僕たちが考えようが、考えなかろうが、誰かと出会うとどうしてもつくられてしまうネットワーク。これを葉脈と言っていたんだね。人は偶然つながったり、つながらなかったり、好きになったり、好きにならなかったりする。
このMVが一貫して人間と葉の重なりを描いていたのは、このネットワークのことを言いたかったからではないか。
そしてこのMVは葉脈をつくる過程そのものでもあった。それぞれの関係を描きながら葉脈を伸ばしていったそのプロセスを表現していたのだと思う。
人間である以上、どうしようもなく考えちゃうのだけれど、考えてもしかたない(偶然に左右される)のだから、冨里を見習って「あっ、また考えちゃった」って言いながら、ただただ葉脈を伸ばしつづける。
生きるってこういうことなのかもしれない。
参考