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Gospelに出会って変えられた人生 #03

第3章 初めてのGospelサークル

 幼馴染・沙織(さおり)との再会をきっかけに、私は生まれて初めてゴスペルサークルという世界に足を踏み入れることになった。これまでの人生で合唱すらまともに経験したことがなく、音楽自体も“聴くのは好きだけど歌うのは苦手”というスタンス。そんな私がゴスペルに心を動かされ、そして涙まで流してしまうとは予想もしなかった。前章では、初めてスタジオの扉を開け、一度だけ練習に参加したところまでを描いた。だが、その“最初の一回”が終わったあとの私の気持ちや、サークルでの日々の始まりは、実はさらに濃密で、心を震わすものだった——。



1.揺れる心と期待感

1.1 初めての体験後の余韻

 あの夜、ゴスペルサークルの練習を終えて家に帰ってきた私は、シャワーを浴びてからもなかなか寝つけなかった。ベッドに潜り込んでも頭の中ではスタジオで聴いたコーラスの残響が消えず、まるで自分の心がずっとリズムを刻んでいるかのように感じる。日常の仕事やストレスが思い浮かぶときですら、その“ゴスペルの余韻”がさっと覆いかぶさってきて、嫌な気分を打ち消してくれるのだ。

 「こんなこと、初めて……」

 独り言のように呟きながら、私は枕元に置いたスマートフォンに目をやる。沙織から来ていたLINEには、“今日の練習楽しかったね!”や“また時間あるとき来てみて!”と書いてあった。正直、初回の体験は“とりあえず行ってみる”程度の気持ちで参加したのだけれど、蓋を開けてみれば想像を遥かに超える衝撃と充実感を味わった。私があの場所で流した涙の理由はまだ明確に言葉にできないけれど、「ゴスペルには何か特別な力があるかもしれない」という漠然とした思いだけがはっきりと脳裏に焼きついている。

 気怠い日常や仕事へのモヤモヤを抱え、“心が晴れないまま何年も過ごしている”と感じていた私にとって、この体験はあまりにも強烈だった。まるで、人生をもう一度見つめ直すためのヒントがふいに与えられたような気がする。そんな高揚感はありつつも、一方で「私なんかが本当に続けられるのだろうか……」という不安も胸をよぎる。

 - 仕事が忙しくなったら?
 - もともと歌が下手なのに、みんなの足を引っ張らない?
 - ゴスペルは神への祈りや感謝を歌うジャンルだけれど、私にはそういう信仰がない。仲間として受け入れてもらえるのかな?

 いくらサークルの雰囲気が温かいとはいえ、疑問や懸念は尽きない。けれども、沙織や他のメンバーの優しいまなざしを思い出すと、そうした不安が不思議と小さくなるのだ。私はベッドの上で深呼吸をし、ようやくまぶたを閉じる。これまでなら仕事でメンタルが疲弊してしまい、嫌な夢ばかり見ることもあったのに、その夜は眠りに落ちる瞬間まで心が柔らかく包み込まれる感覚を味わっていた。

1.2 会社で浮かび上がる小さな変化

 翌朝、いつものように私は通勤電車に揺られ、会社の最寄り駅へ降り立つ。ビル群が立ち並ぶオフィス街は月曜の朝特有の殺気立った雰囲気に包まれているし、私の仕事はいつも通りに山積みになっているはずだ。なのに、心のどこかが少し軽くなっていることに気づいた。

 - 「ま、どうにかなるでしょ」
 - 「早く終わらせて、夜にちょっとでも新しいことを調べよう」

 そんな前向きな声が自分の中から聞こえてくるのだ。これまでなら“今日も仕事か……”と重たい溜め息が先行していたのに、少しだけ景色が明るく見える気がする。職場に到着し、デスクに座ってパソコンを立ち上げると、後輩の美咲(みさき)が不思議そうな顔で声をかけてきた。

 「先輩、今朝はなんだか機嫌がよさそうですね。いいことありました?」
 「え? そう見える? 何だろう……気のせいじゃないかな」

 私は照れ隠しのように笑ってみせる。週末のゴスペルの話をそのまま話してしまうのも、なんだか気恥ずかしい。だけど、美咲は「やっぱりなんか雰囲気違う気がしますよ」と首を傾げている。自分ではあまり意識していないが、表情や態度に何かしらの“変化”が現れているのかもしれない。

 書類作成や備品管理、雑務に追われるうち、気づけばお昼の時間が近づく。仕事は相変わらず煩雑だけれど、どこかいつもより落ち着いて対処できている自分がいる。何が変わったのかといえば、すぐには説明できない。ただ、頭のどこかで“またゴスペルを歌える日があるかも”と思うだけで、嫌なことに囚われなくなる瞬間が増えた。それは私にとって、大きな一歩のように感じられた。


2.思いがけない「次のステップ」への誘い

2.1 沙織からの連絡

 そんなふうに日常を過ごしていると、翌週の中頃に沙織から連絡が入った。

 「今週末も練習あるんだけど、よかったらまた参加してみない? ちょうど新しい曲を始めるタイミングなんだ」

 私はメッセージを見た瞬間、胸が高鳴る。前回の体験から、正直もう一度歌ってみたい気持ちはあった。けれども、先方から声をかけてもらえない限り、勝手に行っていいのか戸惑っていたのだ。だからこそ、沙織の「よかったらどう?」という一言は、私を背中から押してくれるかのようなタイミングだった。

 ただ、仕事の予定を考えると、土曜日はすでに上司・森田(もりた)の依頼で書類の取りまとめを進める必要があった。週末返上とまではいかなくても、残業が長引けば疲れて参加できないかもしれない。そう思うと返信に迷いが生じるが、結局私は「できるだけ行く方向で調整してみるね!」と送信し、自分の中でやるべきことをキリのいいところまで片付ける決意を固めた。

 (もう、先延ばしはやめよう。ゴスペルが私をこんなに動かしてくれるのはめったにないチャンスかもしれない)

 そんな考えが頭をよぎる。これまで私は“忙しいから”という理由を盾にして、あらゆる新しいことを後回しにしてきた。だけど、いまこそ自分を変えるきっかけを掴むときなのかもしれない。なんだか大げさなようだけど、そう思うくらいに前回の体験は強烈だったのだ。

2.2 上司・森田とのやりとり

 金曜日の夕方、私は上司である森田に「今週の仕事は明日の午前中までに大体仕上がります」と報告し、残務が残っている書類についても「月曜朝までにチェックすれば大丈夫ですか?」と確認を入れた。森田は訝しげにこちらを見ながら、「ん? 珍しいな。土曜は早めに帰りたいのか?」と首をかしげる。

 いつもなら土曜の残業をしてでも完璧に仕上げようとする私が、今回はあっさり「月曜で大丈夫ならそうしたい」と言ったものだから、彼にとっては予想外なのだろう。私は少しだけためらいながらも、「はい、ちょっと予定がありまして……」と答えた。ゴスペルのことを上司に話す必要はないし、そもそも理解してもらえるかもわからない。

 森田は「ああ、そうか。まあ、急ぎじゃなければいいけどな」と頷き、「月曜までにきちんと仕上げてくれるなら問題ない」と続けた。私からすればそれで十分。仕事の進め方に口うるさい森田が「月曜まででいい」というのであれば、何の遠慮もいらない。こうして私は、土曜の午後から日曜にかけての時間を、自分のために使えることになった。

 内心では少し胸を張る気持ちもある。これまでは仕事を最優先に考え、休日返上も辞さない姿勢でいたけれど、そうしてきたからこそ自分の時間を犠牲にしてきた面もある。今は自分が求める“小さな光”を逃したくないのだ。


3.再び訪れるスタジオ

3.1 駅前での待ち合わせ

 土曜の夕方、私は沙織と駅前で待ち合わせをすることにした。前回と同じスタジオで19時から練習があるとのことだが、早めに集まって軽く腹ごしらえをしようというわけだ。夕暮れの空は鮮やかなオレンジ色から紺色へと移り変わる合間で、街灯がともり始めるビル街がどこか幻想的に見える。

 沙織は白いTシャツにゆるめのパンツ、そしてスニーカー姿で現れた。音楽に合わせて体を動かすこともあるからか、いつも動きやすい服装だ。私も同じようにカジュアルなトップスとパンツを選んできた。会社ではオフィスカジュアルやパンプスが多いから、こんな軽快な恰好をすると、心まで軽くなる気がする。

 「ゆか、今日も頑張って仕事片付けたんだって? お疲れさま!」

 沙織がそう言い、コンビニで買ったおにぎりとお茶を私に差し出す。「私、夕食をがっつり食べると声出ないんだよね」と笑う彼女に倣い、私もコンビニでおにぎりを一つ買うことにした。スタジオで激しく動き回るわけではないが、さすがに空腹だと声が出ないかもしれない。

 少し早めにスタジオに向かう道すがら、前回会ったメンバーの名前や顔を思い返し、「全員の名前をちゃんと覚えられるかな……」と私が心配すると、沙織は「最初は無理しなくていいよ。練習が終わった後に雑談してるうちに自然と覚えるから」とアドバイスをくれる。本当に彼女はこういうところが自然体で、私の緊張をほどいてくれるのがうまい。

3.2 新曲との出会い

 19時前にスタジオに到着すると、そこには前回と同様にリーダーの高木(たかぎ)をはじめ、数名のメンバーが集まっていた。ざっと見たところ、今回も10人ほど来ているようだが、初めて見る顔もいくつかある。私が緊張気味に挨拶すると、高木は「今回も参加してくれて嬉しいな。前回よりもう少しディープに歌ってみましょう!」と明るく迎えてくれた。

 ウォーミングアップや発声練習は前回と同じ流れ。ただ、一度体験している私には少しだけ慣れが出てきたようで、声を出すときの恥ずかしさがやや軽減されているのを感じる。身体をほぐし、呼吸を深くし、声を出す。周りのメンバーとも目が合うようになり、自然に笑顔がこぼれる。

 そしてこの日の課題曲。高木が譜面を配りながら言うには、「前回歌った曲よりテンポが速めで、リズムをしっかり感じないと遅れやすい」らしい。歌詞は英語が中心だが、合いの手のように日本語フレーズが混ざっている部分もある。パッと読んだ限りでは“人生の試練を乗り越えて、光へ進む”というテーマが込められているようだ。

 「まずは全員で音を取っていきましょう。一度に全部は難しいので、サビの部分からやってみますね」

 ピアノの伴奏が始まり、メンバー全員がサビのリズムを口ずさんでみる。私は譜面に書かれたカタカナやローマ字を頼りに必死に追いかけるが、ところどころリズムに乗りきれずにもたついてしまう。しかし、隣の沙織がさりげなく手拍子で合図をくれるので、なんとか食らいついていける。

 サビを何度か繰り返しているうちに、メロディとリズムが身体に染み込み始めてくるから不思議だ。言葉の意味や歌詞の細かい発音は後回しにして、とにかく体感で覚える。これがゴスペルらしいアプローチなのかもしれない。高木も「理屈より先に体感で“楽しい”と思うほうが大事」とよく口にしている。

3.3 パート分けの試行錯誤

 続いてパート練習だ。ゴスペルでは、ソプラノ・アルト・テナーなどに分かれて重厚なハーモニーを作ることが多い。前回私はアルトパートに混ざってみたが、今回も同じパートで挑戦することにする。アルトはメロディの下支えを担うことが多く、ソプラノのメロディラインを引き立てる役割を果たすらしい。

 アルトパートの練習が始まると、リーダーの高木やパートリーダー役の真琴(まこと)という女性が鍵盤を使いながら音程を示してくれる。真琴は音楽サークルでの経験が長いようで、ソプラノからテナーまで幅広く歌えるという。私が戸惑っていると、「ここは一度声を出して覚えちゃえばいいよ。譜面はあまり見なくても平気」と微笑んでアドバイスをくれた。

 「ほら、こんな感じ——♪」
 真琴がアルトラインだけをゆっくり歌ってくれるので、私はそれをなぞるように真似する。なんとなく覚えたら、今度は全員で合わせてみるという流れ。試行錯誤を繰り返していると、少しずつ自分の声がアルトのラインとして馴染んでくる瞬間がある。まだぎこちないし外している箇所も多いと思うが、その“手応え”こそがこの練習の醍醐味かもしれない。

 途中、別のメンバーがテナー部分を間違えたり、ソプラノが急に笑い出したり、アットホームな空気の中で一喜一憂しながら練習が進んでいく。上手くできたらハイタッチをして喜び合い、ミスしても「ま、いいか」と笑い飛ばす。こうした雰囲気の温かさに、私はますます惹かれていった。


4.涙の理由を探して

4.1 ふとした瞬間の感情爆発

 前回の初体験では、歌っている最中に思わず涙がこぼれてしまった。なぜ涙が出たのか、自分でも説明がつかないまま、今この瞬間を迎えている。そのことを沙織に問いかけると、彼女は「私も最初は泣いたよ」とあっさり笑う。

 「私の場合、歌詞の意味というよりは、声を合わせるうちに“自分でもわからない何か”が溶け出してきた感じかな。心の中に蓄積してたストレスとか不安が、一気に動き始めるっていうか……」

 彼女の言葉に、私は深く共感する。“何かが溶け出す”という表現はまさに私が感じたことと同じだ。いつのまにか自分の中に溜まっていた停滞感や虚無感が、ゴスペルの力強いリズムとコーラスに触れるうちに溶け出し、涙という形で外に現れる。音楽の力といってしまえばそれまでだが、ゴスペル特有の“魂を揺さぶる何か”が確かにそこにある気がする。

4.2 教会との繋がり

 練習の合間、メンバーの何人かが「実は週末に教会でゴスペルを歌うイベントがある」と話しているのを耳にする。私にはキリスト教の信仰がないため、教会という場所にあまり馴染みがないが、海外ではゴスペルと教会は切り離せない存在だと聞いたことがある。

 沙織にその話を振ってみると、彼女は「うちのサークルは必ずしも教会所属じゃないけど、たまに教会のイベントに呼ばれて歌うことがある」と教えてくれた。そこでは単に歌うだけでなく、牧師さんや信徒の方々と交流し、ゴスペルの原点や聖書の言葉などにも触れられるという。すべてのメンバーがそれに参加するわけではないが、“もっと深く学びたい”という人にとっては大きな意味を持つらしい。

 「もし有香が興味を持ったら、今度一緒に行ってみようよ。堅苦しくないし、みんな優しい人たちばかりだから」

 沙織の誘いを聞きながら、私はそっと頷く。まだ抵抗はあるけれど、一度はその空気に触れてみたい気もする。ゴスペルが本来どういう音楽なのか、そして私がなぜこんなにも心を動かされるのか、その手がかりを知るには教会という場を訪れるのも悪くないだろう。


5.練習後の雑談と仲間たち

5.1 打ち上げ感覚の食事

 その日の練習を終え、全員で最後に曲を通して歌い切ったとき、スタジオには拍手と笑顔が溢れた。思わずその場でハイタッチを交わしたり、肩を叩き合ったりする空気が生まれる。あの一体感は一度味わったらやみつきになるかもしれない。私自身もパートの細かい部分はまだまだだけれど、最初よりは確実にリズムに乗れるようになったし、声が出やすくなった気がする。

 片付けを終えると、高木が「よかったらこの後、軽く食事でも行く?」と声をかけてくれた。普段から練習後に有志でご飯を食べに行くことがあるらしく、サークル内ではお決まりの打ち上げのような雰囲気だそうだ。私のような新参者にも声をかけてくれるのはありがたい。沙織も「行こう行こう」と乗り気なので、私も二つ返事で参加を決める。

 スタジオ近くのファミレスに流れ込むと、店内はそこそこ混んでいたが、運よく大きなテーブル席を確保できた。ゴスペルメンバーは全部で8人ほどが参加しており、テーブルの上にはコーヒーやハンバーグ、パスタなどが運ばれてくる。私は練習でカロリーを消費したのか、急にお腹が空いてきて、軽めの食事を頼んでしまう。

5.2 多様な背景を持つメンバー

 会話が始まると、まず驚くのはメンバーそれぞれの背景の多様さだ。

  • 真琴(まこと):アルトからテナーまで自在に歌いこなす女性。実は学生時代に吹奏楽をやっていたが、社会人になってからゴスペルにハマった。

  • 亮(りょう):営業職の男性。平日はクライアント先を飛び回っているが、ストレス解消としてゴスペルを始めた。時折ソロパートも任されるほどのパワフルボイスの持ち主。

  • エミ:OL2年目の女性。最初は会社の同僚に誘われて来ただけだったが、ゴスペルの魅力に取りつかれてやめられなくなった。

  • 健人(けんと):大学生で他サークルにも所属しつつ、ゴスペルサークルでは若手のムードメーカー。リズム感が抜群でダンスも得意らしい。

 他にもいろいろなメンバーがいて、それぞれの事情やきっかけでゴスペルに触れている。音楽が専門でなくても、宗教色が薄くても、ここでは誰もが受け入れられる雰囲気だ。“社会人になってから趣味で始めた”という人が多い点に私は安心感を覚える。私同様、仕事や日常のストレスを抱えながら、ゴスペルで心を解放しているのだろう。

 亮などは「仕事で凹むことがあると、ゴスペルの歌詞を思い出して奮い立たせてるよ」と笑いながら語る。エミは「私はまだ歌詞の意味が全部わかってないけど、なんか元気出るんだよね。落ち込んでるときに歌うと、涙止まらなくなっちゃう」と頬を染める。そういう話を聞くだけで、“私だけじゃないんだ”と心強くなる。

5.3 有香の自己紹介と想い

 そして私自身も自己紹介を求められ、「えっと、まだ2回目なんですけど、有香といいます。会社では総務課で働いていて……」とぎこちなく話し始める。前回よりも少しだけ口が滑らかなのは、みんなが興味深そうに聞いてくれるからだろう。

 「歌は本当に苦手で、今回も正直不安いっぱいなんですが、ゴスペルを歌うと何だか心が軽くなる感じがして……もっと知りたいと思っています」

 そう話すと、周囲からは「わかるー!」「歌が下手とか気にしなくて大丈夫だよ」など温かい言葉が返ってくる。ある人は「私も最初は全然声が出なくて“すいません”って言いっぱなしだったけど、続けるうちに自然と歌えるようになった」と励ましてくれ、また別の人は「練習すればするほど味が出るのがゴスペルだし、一人じゃなくて仲間と合わせるから楽しさ倍増なんだよね」と教えてくれる。

 嬉しくて、恥ずかしくて、涙が出そうになる。職場の人間関係も悪くはないが、ここまで“ありのまま”を肯定してくれる場は初めてだ。確かに音程やリズムのズレはあるかもしれないが、それを一緒に直してくれる仲間がいるのだと思うと、やる気が湧いてくる。この瞬間、私は“続けてみたい”という気持ちがはっきり形になったように感じた。


6.仕事との両立に揺れる日々

6.1 ゴスペルを優先する勇気

 翌週から再び平日の忙しさが戻ってきた。上司の森田や同僚の美咲が関わるプロジェクトに一気にタスクが増え、残業も増えていく。ゴスペルの練習は週に1回や2回程度しかないものの、その日に仕事が遅くまで立て込めばスタジオへ行けなくなる可能性がある。そこで私はこれまで以上に効率的に仕事を進め、無駄な時間を減らす工夫を始めた。

 「先輩、最近なんだか動きが機敏になりましたね」と美咲が感心した様子で声をかけてくる。私自身、ゴスペルを“楽しみ”として捉えているからこそ、職場での雑務に追われっぱなしになるのは嫌だし、できれば早く片付けて、練習に参加できるようにしたいのだ。これまで「残業なんて当たり前」と思っていた価値観が少しずつ変わり始めている。

 この変化は会社の人々にも伝わり、森田は最初こそ「急いでどうした?」と訝しんだが、仕事の質が下がっているわけではないとわかると「まあ、やる気があるならいいことだ」と言葉少なに納得した様子。今までどこか受け身だった私が、“自分の時間を生み出すために仕事を効率化している”とは森田も想像していないだろうが、いずれにせよ悪い印象は持っていないらしい。

6.2 迷いを沙織に打ち明ける

 それでも時には残業が重なり、練習に行けない週もあった。そんなとき、沙織からの「今日はどう?」というメッセージに「ごめん、間に合わなさそう」と返事をすると、罪悪感に苛まれる自分がいた。私は“仕事よりゴスペルを優先していいのか”と揺れながらも、結局は会社員としての責任感を捨てきれない。

 ある日、私は沙織と電話で話す機会を作り、率直に胸の内を打ち明けた。

 「ゴスペルをもっと続けたいけど、仕事があるし、急な残業もあるから、結局ちゃんと通えるかわからない……。みんなに迷惑かけるのも嫌だし……」

 すると沙織は「大丈夫だって、あそこはゆるいサークルだから、来られる日に来ればいいのよ」と笑う。もちろん練習を重ねたほうが上達はするが、強制参加ではないのだ。「それに、迷惑っていう考え方はちょっと違う気がするな。みんなで作る音楽なんだから、いろんなペースの人が集まってこそのゴスペルなんじゃない?」と、沙織はさらりとした口調で答える。

 確かに、これまで参加した練習でも「毎回は来れません」というメンバーも多くいたし、仕事や家事の都合で途中参加・早退する人だっていた。誰もそれを咎めたり否定したりはしない。そういう多様性を受け入れる度量があるのが、このサークルのいいところなのだと気づかされる。

 「……そっか。そうだよね。ありがとう、沙織」

 電話を切る頃には、私の中での“仕事とゴスペルの両立”という課題が、少しだけハードルが下がっている気がした。やり方はあるはずだし、多少不定期でも続けられれば意味がある。それに、何より私自身が心から歌いたいと思うようになっているのだから、ここで諦めるなんて勿体ない。


7.心がほどけるゴスペルの魔法

7.1 ストレスの溶解

 忙しい仕事の合間を縫って、私は週に一度か二度のペースでゴスペル練習に顔を出すようになった。行けない日は仕方ないと割り切り、行ける日には思い切り声を出す。すると、その“思い切り歌う”時間が、仕事のストレスを驚くほど取り払ってくれることを実感する。

 特に大きなプロジェクトが動いている最中などは、メンタルがすり減る日が続く。上司の森田からのきつい言い方や、クレーム対応、膨大な資料作成……。負の要素が積み重なると、どうしても呼吸が浅くなり、夜もぐっすり眠れない。だが、ゴスペルの練習日にスタジオに入って歌い出すと、不思議なくらい「もうどうでもいいや」と思える瞬間が来る。私にとってはそれが最高のセラピーだと感じられた。

7.2 仲間と交わす笑顔

 ゴスペルサークルのメンバーとも少しずつ打ち解けることができ、練習後にはお互いの近況を報告し合うようになった。なかでもテナーの亮は営業職ならではのコミュニケーション能力が高く、私が悩んでいることを察すると「仕事と歌を両立させるコツ?」なんて冗談めかしてアドバイスをくれる。

 「平日は朝ちょっとでもストレッチすると身体が楽になるし、寝不足の日こそ深呼吸しながら声を出すと目が覚めるよ。俺、車の中でゴスペルのCD流して一緒に歌ったりしてるもん」

 彼の明るい調子につられて私も笑ってしまう。そういえば私も、最近は通勤中にゴスペルの音源を聴く機会が増えた。歌詞が英語だからはっきりと理解し切れない部分もあるのだけれど、それでもメロディの持つエネルギーを感じるだけで元気が湧いてくる。曲を覚えたら、一人カラオケでも行って練習してみようか、なんて思うほどだ。

 真琴やエミたちともLINEを交換し、「次の練習いつ行く?」とか「この曲いいよね!」などと気軽にやり取りできるようになった。社会に出てから“同じ趣味を持つ仲間”を作る機会は思いのほか少ないので、こうして音楽を通じて繋がる関係ができるのは新鮮で嬉しい。彼らのおかげで私は“ただの受け身”ではなく、少しずつ能動的にこのサークルに溶け込もうとしているのを感じる。


8.初めてのステージ計画?

8.1 リーダー・高木の提案

 そんなある日、リーダーの高木がいつもの練習終わりに「ちょっとみんなに話がある」と切り出した。メンバー全員が注目すると、彼は少しだけ興奮したような表情で言う。

 「来月末に、他のゴスペルグループや合唱団と合同の発表会が計画されてるんだ。まだ確定じゃないけど、もし実現したらウチのサークルも参加してほしいって話が来てるんだよね」

 その瞬間、スタジオがざわっとする。発表会ということは、観客の前で歌うステージが用意されるということだ。中にはステージ慣れしているメンバーもいるかもしれないが、私のような初心者にとっては“大舞台”に近い。さすがに緊張で震えそうだが、興味もある。

 高木は続けて、「もちろん強制じゃない。出たい人だけで構成してもいいし、みんなで出るならそれはそれで盛り上がる」と柔軟な提案をする。発表会のテーマは“Music for Hope(音楽による希望)”というもので、ゴスペル以外にもジャズコーラスやアカペラグループが参加するらしい。なんだか楽しそうだが、少しハードルが高い気もする。

 すると真琴が「私たちがよく歌ってるあの曲なら、きっとウケるんじゃない?」と乗り気になり、亮も「人前で歌うのは燃える!」と嬉しそうに叫ぶ。健人も「大学のサークルも誘っちゃおうかな」とやる気満々だ。そういう賑やかな空気に触れていると、私も段々と「やってみたい……かも」という思いが頭をもたげる。

8.2 不安と期待のはざまで

 練習後、沙織が私のそばに寄ってきた。「発表会の話、どう思った?」と聞かれ、私は半笑いで「いや、そんな大勢の前で歌うとか無理でしょ……」と答える。しかし同時に、初めてサークルに来たときの“涙が出るほどの感動”を思い返すと、あの感覚をもっと多くの人と共有できるなら、素敵だなと思ってしまう自分もいるのだ。

 「まあ、まだ確定じゃないし、参加するかどうかはこれからみんなで決める流れだと思う。だけど、私は行けるなら出たい派かな。ゆかにも一緒に来てほしい!」と沙織は目を輝かせる。彼女は元々ステージ経験が豊富で、大学時代にもライブを何度かこなしたらしい。私からすれば“別世界の人”のように思えたが、こうして同じサークルに通い、私を導いてくれる心強い存在でもある。

 (もし、本当にステージに立つなら……私はどんな気持ちで歌うんだろう?)

 そんな疑問が胸に浮かんで消えない。会社での悩みや、OLとしての日々から飛び出して、ステージに立つ自分なんて想像もしていなかった。だけど、これまで知らなかった世界に惹かれているのは事実。仕事と両立できるかはさておき、“挑戦してみたい”という思いが、私の中で少しずつ芽吹いている。


9.周囲への影響と、新たな一歩

9.1 職場で見られる変化

 ゴスペルを始めてから数週間、私の勤務態度や表情がどこか柔らかくなったのだろう。あるとき上司の森田が「最近、なんだか余裕あるじゃないか。何かいいことでもあったのか?」と尋ねてきた。私は一瞬ドキリとしたが、「まあ……趣味を見つけたといいますか」と適当に言葉を濁すと、彼は「へえ、いいじゃないか。仕事以外の楽しみがあるのは悪いことじゃない」と意外にも肯定的な返答をしてくれた。

 後輩の美咲にいたっては、「先輩、絶対に何か始めましたよね! 雰囲気が違いますもん!」とズバリ言ってくる。隠すこともないので、「実はゴスペルサークルにちょっと通い始めたの」と告白すると、目を丸くして「ゴスペル!? あの黒人音楽の?」と驚かれた。けれど、美咲は「いいなあ、私も興味あるかも!」と好奇心を見せる。まさか会社の同僚まで興味を示すとは思わなかったが、これがゴスペルの不思議な吸引力かもしれない。

9.2 “発表会”という目標

 ゴスペルサークルの練習では、着々と発表会に向けた準備が進んでいた。まだ正式に出演が決定したわけではないが、メンバーの大半が前向きで、レパートリーの中から一曲か二曲を披露する案が浮上している。課題曲は、私が初回から何度か歌ってきた“心に希望を灯す”ようなメッセージのもの。そしてもう一曲はアップテンポでノリのいいゴスペルソングを予定しているらしい。

 私も練習後の打ち合わせで「本当に私も歌えるんですかね?」と弱気になってしまうが、みんなは「大丈夫、やるなら全員でやろう!」と背中を押してくれる。特に真琴は「有香のアルトパート、前回よりずっと良くなってきてるよ」と具体的にフォローしてくれるし、沙織は「もしソロパートがあったら私がやるから、安心して!」と笑って言う。いや、ソロパートなんて恐ろしくて絶対に無理だけれど、仲間たちがここまでサポートしてくれるなら、自分でも何とかなるかもしれないと思えてくる。

9.3 自分を変える“きっかけ”

 こうしてゴスペルと出会い、サークルの仲間と笑い合い、発表会の構想まで膨らんできたこの数週間は、私にとってまるで別世界のような時間だった。仕事に忙殺されていた私が、少し先の未来に“ステージで歌う”自分を想像し始めているなんて、数か月前の私には到底考えられない変化だ。

 ただ、変化には不安もつきまとう。発表会の練習が本格化すれば、それだけ練習量も増えるだろう。仕事との両立が難しくなる可能性もある。実際、私もフルタイムのOLとして責任ある業務を任されているわけだから、途中で挫折するかもしれない。だけど、その不安に飲み込まれるほど、私はもう弱くない。ゴスペルの中で得た“前に進む力”が、私を支えてくれるようになっているからだ。

 ——“やってみよう。できるところまで、頑張ってみよう”

 そんな心の声が、これまでとは違う光を私の未来に照らしている。このころの私は、まだ詳しくは知らなかった。発表会が持つ大きなエネルギーが、私の人生をさらに動かしていくことを。けれど、その足音はすぐそこまで迫っている。そして私は、もう後戻りできないくらい“ゴスペル”という世界に惹きこまれていた。


10.新章への予兆

 こうして「初めてのGospelサークル」と題して始まった私の新しい日々は、いつしか“続けてみたい”という強い気持ちに結びつき、仲間たちと声を合わせる幸せを教えてくれた。気づけば、不安や仕事のストレスを抱えながらも、その先にある喜びや希望を感じられるようになっている自分がいる。まるで日常がカラフルに色づき始めたような、そんな感覚だ。

 幼馴染の沙織に背中を押されて踏み出した一歩。あの日、スタジオの扉を開けた私が流した涙。その涙が、固く閉ざしていた心を解きほぐしてくれるとは思いもしなかった。仕事も変わらず大変だし、悩みが完全に消えたわけではない。けれど、あの濃密なハーモニーの中にいるときだけは、私は私らしく呼吸ができる。そして、同じ思いを共有する仲間たちと共に、声を重ねる瞬間に言いようのない幸福を感じるのだ。

 次なる章では、より深くゴスペルの歌詞や背景に触れ、私自身が“なぜ泣いてしまうのか”“なぜこんなにも心が揺さぶられるのか”を探求することになるだろう。さらには、ステージや教会といった場所での経験が、私に新たな視野をもたらすかもしれない。仕事と両立しながらも、ゴスペルに打ち込もうとするこの気持ちが、やがては周囲の人々や私自身の人生にどう影響を与えていくのか——その物語は、まだ始まったばかりだ。

 「音楽が生み出す奇跡」を信じてみたい——。
 初めてゴスペルサークルに飛び込んだ私が、そんな思いを抱くようになるまでには、そう時間はかからなかった。ゴスペルが持つ力と、そこに集う人々の温かな絆を目の当たりにするにつれ、平凡でくすんだ日常が少しずつ光を帯びていく。そんな予感とともに、私は次のステップへ足を踏み出していくのだ。

 まるで長いトンネルの先に、一筋の光が見え始めたかのように——。

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かずとも523
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