#7 父親に対する不信感 ~小学生時代(4)~
(前回の記事)夢は世界征服 ~小学生時代(3)~
「勉強だけは誰にも負けない」という自負は、学校での結果がある程度証明してくれたが、それだけにとどまらず、「ぼくはもっと面白いことだって言えるんだ」「ぼくは音楽だって得意なんだ」「ぼくは部活でもヒーローになれるんだ」という思い込みが激しかった。
「面白いこと」に関しては、当時はドリフターズ全盛の頃だったので、ちょっと真似をすればそこそこの笑いは取れた。「音楽」に関しては、確かに歌謡曲が大好きで、当時の雑誌、明星を毎月購入し、別冊付録の「Young Song」をチェックし、気になる歌はラジオで「エアチェック」し、「カセットテープ」に録音して、一人で歌っていたから、そこそこ上手だったと思う。でなければその後バンド活動はできなかっただろうし。
「部活」に関しては、4年生の時に野球部に入ったが、一番になれなかったというより、顧問の先生と馬が合わなかったので挫折し、退部した。5年生になりサッカー部に入ったが、やはり顧問の先生と合わなかったので退部してしまった。私のような内向的な生徒よりも、活発で明るい生徒ばかりひいきする先生だったからだ。
そんな私は、クラスの中では「勉強ばっかりしている、まじめで暗い子」というイメージが定着していた。なので「お笑い」「音楽」には結構力を入れた。でも、基本的に自己表現をするのが怖かったので、残念ながら「勉強ばっかりしている、まじめで暗い子」のイメージを払拭するまでには至らなかった。
ただ、「あいつは何でも知っている」と思われていたのは、クラスという集団の中で生きていくには、すごく得をしたと思う。「暗いやつだけど、何かの時に役に立つ」と思われていたのだろうか、おかげでいじめられたりすることはなく過ごしてきた。
しかし、ある時ちょっとした事件が起きた。我が家の車を買い替えることになったのだが、うちは貧乏だったので、何とか大衆車が買えるくらいの家計状況だった。で、購入対象として、トヨタのカローラかマツダのファミリアで悩んでいたのだ。
結果、マツダのファミリアを買うことになった。父は当時、私にとっては何でも知っているスーパーマンだった。なので、どうして地元愛知県のトヨタの車でなく、マツダの車を買うことにしたのかを父に尋ねた。
「マツダの車は、ロータリーエンジンだからだよ。」
と、父は言った。確かに言った。
父は将棋も強かった。私は何度対戦してもコテンパンにされた。野球も上手であった。唯一歌はへたくそだったが、何度も言うが、私にとっては何でも知っているスーパーマンだった。
ロータリーエンジンは当時マツダのみが採用していたエンジンで、RX-7に搭載されていたのだが、ファミリアには搭載されていない。大変残念なことに、父の言っていることは「うそ」だった。
でも、私は父の言うことを微塵も疑わなかった。「あの何でも知っているお父さんの言うことだから間違いない」と思っていた。だから、学校でクラスメートに「うち今度車買うんだよ。ロータリーエンジンの車なんだよ。」と言った。
小学校の社会の授業で、自動車工場について学ぶ単元があるので、クラスメートの中には車について詳しい子がいた。そしてその子にこう言われた。
「ロータリーエンジンってことはRX-7を買うの?すごいね!」
「いや、ファミリアって言ってたよ。」
「え?ファミリアだったら、ロータリーエンジンじゃないよ。」
「ロータリーエンジンだって言ってたよ。」
自信満々で言い切った私だった。「え?そうなの?じゃあ、もう一回聞いてみるよ。」と言えばいいのに、クラスで一番物知りだというプライドが邪魔をして、言い張ってしまったのだ。
「あいつ、うそつきだよ。ほらこれ見て。ファミリアはロータリーエンジンじゃないんだよ。」
次の日、不運なことに、その車好きのクラスメートはわざわざ車のパンフレットをもってきて、私の間違いをみんなの前で高らかに指摘したのだった。私に聞けば「何でも知っている」という「博士」のようなポジションがガラガラと音を立てて崩れ、「知ったかぶりのうそつき」として信用が失われた瞬間だった。
そして、それは、私の、父に対する信用が失われる瞬間でもあった。家に帰り、父にかなりの剣幕でその非をとがめた。
「おとうさん!ファミリアはロータリーエンジンじゃないってさ!うそつき!」
「いや、マツダの車はロータリーエンジンだぞ。」
父は私の指摘を認めなかったのだ。「そうか、違うのか、ごめんごめん。恥かかせちゃったね。」とは一言も口にしなかった。
それどころか、「おい、親に向かって、その口の利き方は何だ! 口答えするのか!」と反撃してきたのだった。
この事件が起きる前から、こんなやり取りはすでに何度かあった。勉強していてわからないことを父に聞いて、その答えを信じて宿題の答えを書いたりすると、なぜだか答え合わせの時に違っている。何でも知っているスーパーマンに聞いたのに。でも、父には言えなかった。救いはクラスメートには知られずに、私の中だけで処理できたことだった。なので、父には言えなかったというより言わなかった。ところが、今回の事件ではそうはいかなかった。今まで抑えてきたものが爆発した瞬間だった。
しかも、間違いを指摘したことに対して、謝るどころか、話題をすり替えて、目上の人に対する口の利き方がまずいと、叱責をしてきたのだから。私の中でスーパーマンが消えた一瞬だった。
ただでさえ、兄弟げんかをすると、「長男なんだから」という理由でゲンコツ制裁をくらったりすることが多々あった。常にこの理由で我慢を強要されてきたのだ。また、母との夫婦げんかで父の言い分を聞いていると、子どもながらに「あれ?なんだかおかしいぞ?」という違和感を感じ始めていたから、今回のこの父の反応は、私の理想の父親の虚像をぶち壊すかなりの決定打になった。
この日を境に、私は父に対するあら捜しを始めた。その経過を端折るが、結果、父は、「知ったかぶりで見栄っ張りでお人好しでスーパーマンでも何でもない、他人の気持ちを汲み取ることができない、母と夫婦げんかばかりする残念な人だ」という認識が、私の脳内で構築された。
これは、とんでもないことだった。我が家で最も優れているのが小学生の「私」という認識になったのだから。一人でいる孤独感を癒しそして母親に認めてほしいという自己承認欲求を満たすために、読書に励んで織田信長などの戦国武将やヒトラーなどの独裁者を知ったことも災いした。母との関係性による影響もマイナス方向に作用した。もはやこの家で「自分を保つ」には、「自分が一番優れている」と思い込むしかなかった。そしてそれが今後訪れる「反抗期」と複雑に絡み合い、壮絶な状況になるとはまだ予想もつかなかった。
(つづく)
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