友情とはなにか 第1回 アリストテレスを引用したい夜だった

ここ数年のテーマは友情(friendship)なので、いま読んでいるアリストテレスの『二コマコス倫理学』下巻を引きながら、それらしい考察を述べたいと思っていたが、丁寧に引用するにはくたびれているので、記憶に従ってぼくなりにまとめると、彼の友情には3つのタイプがあって、それは次の通りである。

1. 善なる魂どうしが引き合う善き友情(理想形)
2.相手と関わることで利益を得られる友情
3.相手と関わることで快さを得られる友情

1がアリストテレスにおける友情の理想形であり、彼はプラトン的な言葉遣いはとくにしていないが、友情のイデアといってふさわしい友情であろう。2と3の区別が判然としないが、2は実際的な得失の得=利益ということであろう。つまり、この人と付き合っていると毎週食事をおごってもらえるとか、そういうメリットがあって友人関係を続けている、というような友情のあり方である。3は金銭であるとかモノの関係ではなく、快さであるから、精神的な得失の得をさしているのであろう。彼/彼女と付き合っているといつもなんだかいい気分になって心地よく過ごせる、そういうメリットがあって友情をはぐくんでいる、そういうあり方である。

アリストテレス的なフレンドシップの類型はあくまでもアリストテレスが考え出したものであって、友人関係のあり方の一例に過ぎないわけだが、ぼくらが生きている間にじぶんがこの人の善き魂とわが善き魂が共鳴して、永遠不滅の友情関係を生きるということはあまりなさそうにみえる。ぼくが好きなマンガ家のひとりに藤子不二雄がおり、ファンの人には有名だが藤子不二雄は二人組でA先生(安孫子素雄)とF先生(藤本弘)が富山での少年時代から上京以後プロのマンガ家として長きにわたって無私の友情を築いたというエピソードが思い出される。もちろんA、F両先生も相手に対する不満が皆無だったとは思えないが、名作『まんが道』やその続篇を読むと誰も少しは彼らのような友人関係が築けたらと思わずにはいられないだろう。アリストテレスももしかすると、藤子両先生の友情は善き魂どうしの共鳴し続ける友情の理想形として承認したかもしれない...。

とくにアリストテレスが提示した友情のひな型に則って思索を進める必要は無いのだが、彼の類型にしたがえば、ぼくの友情は実際的な利益というよりは、感情面での利益を重んじた3のタイプの友情関係が多いかもしれない。これはむろん、1より劣った友情なのだが、付き合っていて楽しいとか面白いとかうれしいとかそういう感情的な快さをぼくはどうしても求めてしまうことがあって、もちろん他にもいくつか自分が友人を友人と見定めて、付き合い続けている理由はいくつかあるだろうから、その点についても適宜考察して、自分なりの友情論を組み立てていきたいと思うのである。

(つづく)

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