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短編小説『まさみとぼく 猫ゾンビの島』
「まさみ、久しぶりだね。ここに来るの」
「そうだね。そういえば、あの白猫、柴作さん家のミルクっていったっけ。元気かな?」
リュック型のキャリーケースの中から、ピーチは顔を覗かせて、小声でまさみに話しかけます。周りの人たちは、それぞれの愛猫たちを気にかけているので、ピーチが人間のことばを話していることなど、誰も気にしていません。
まさみとピーチは前に訪れたことがある、あの猫島に来ていました。
昨夜、まさみは、久しぶりに実家に帰り、父の勇作と母の敬子とゆっくり過ごしました。
「まさみ、あとからミルクさんに会いに行っていい?」
「うん、いいよ。けど、まずはイベントを楽しまないと、だよ。ピーチ」
「わかってるって」
今日はこの島で年に一度の一大イベントが開かれます。
猫好きミュージシャンたちによる野外コンサートを始め、この街の公共施設の壁一面に描かれた有名アーティストたちの手による作品群のお披露目、キャンプ場で行われるバーベキュー講習と無料試食会、釣り大会、そして、一日の締めくくりに打ち上げられる一万発を超える花火、それらを楽しみに、まさみとピーチはここまでやってきたのです。
このイベントは猫と飼い主がひと組のパートナーでないと参加できないスペシャルイベントなのです。
フェリーの中でも、船を降りてからも、辺りはものすごい熱気で包まれています。
まさみたちが前回ここを訪れたときにも会った、フェリー乗り場の優しそうな中年のおばさんと、看板猫のももちゃんも参加者たちをお出迎えしています。
ごった返すフェリー乗り場では、テレビのレポーターが、船から降りてくる乗客たちを相手にインタビューに大忙しです。
「顔だけ超美形のレポートポンコツ女」とピーチからテレビの画面越しに罵られた、あの『月に一度の話題のにゃんこ猫島スペシャル』のレポーター、岡島紗季が相変わらずのポンコツぶりを発揮しています。
ことばを噛んで間違えるたびに、お得意のテヘペロを繰り返しています。
「まずは、お腹を満たさないと」
まさみは、バーベキュー目当てで、さっそくキャンプ場を目指します。
「まさみったら、食い気ばっかりじゃん」
「うるさいな放っておいてよ、ピーチ。それが私の人生における最大の楽しみなんだから」
今ではもう、まさみは幸せな結婚生活なんて夢にも考えていません。まさみは、ピーチという人間のことばを話せる猫がそばにいてくれる、それだけで幸せでした。しかも、ピーチは、一度生まれ変わって今もまさみと一緒に暮らしています。
まさみのなかでは、あと二度くらいは生まれ変わって自分のそばにいてくれる、とそんな確信めいたものがありました。
「あんまり食べすぎて、これ以上、太んないようにね」
「大きなお世話だよ。別に太ったって、そんなからだ、見せて困る相手なんて今は誰もいないんだから」
まさみは一番痩せていたときに比べると、今は十キロ近く体重が増えています。
「まさみ、けどちょっと太りすぎなんじゃない?」
「もう、うるさいなあ。それって、ご飯をおいしく食べられているってことでしょ。つまり、健康ってことじゃん」
「……そうだね。せっかく来たんだし、お腹いっぱい食べてイベントを楽しもうか、まさみ」
「もちのロンだよ」
「まさみ、最近、本当にオヤジ化してるよ。それ自分で気づいてる?」
「ピーチ、あんた、レディのこの私に向かって失礼だよ。どこからどう見たらこのナイスバディがオヤジなの」
「そういえば最近ビール飲みすぎたオヤジみたいに下っ腹、ちょっとすごくない?」
「どこが? ……ほんとだ。キャハハハハッ!」
自分のお腹をじーっと見つめて、まさみはそういうと、大口を開けて大笑いです。最近では食べたいものを食べ、ピーチとふたりで面白おかしく幸せな日々を過ごしていました。
*
その頃、遥か何百光年先から地球にやってきた隕石のかけらが、まさみたちが訪れていた猫島に近づいていました。
燦々と輝く太陽を背景に、黒い煙の跡を青空のキャンバスに描きながら、その大きさ八十センチほどの隕石は、猫島のキャンプ場近くに落ていきます。
ぶつかった瞬間、島中に衝突音が鳴り響きました。
「スッゲーの撮れた。今年一番のベストショットだ!」
偶然その落下の瞬間を動画に収めた人々は、我先にSNSに投稿しようとしています。
落ちた隕石に人々が近づくより先に、一匹の猫が、その隕石に恐る恐る歩み寄りました。
その猫は割れた隕石の中から出てきた小さなミミズみたいな虫が気になって仕方がありません。
猫がその虫に手を伸ばした次の瞬間、虫は素早く猫にとりつくと、モゾモゾと猫の首を伝い耳から猫のからだの中に入っていきました。
その猫はしばらくの間、「ミャーッ! ギャーッ!」とものすごい大声を上げて鳴き叫び、のたうちまわっていましたが、突然パタっと地面に倒れると、死んだように動きを止めました。
そしてしばらくしてから、ゆっくりと四歩足で立ち上がると、辺りを見回し始めます。
ちょうどそこへ、その猫の飼い主の女性がやってきました。自分のペットに着せている、特徴的な赤と白のストライプ柄の洋服が彼女の目に飛び込んできました。
「マロン、こんなところにいたんだね。探したよー!」
そういって、彼女が猫に手を伸ばしたその瞬間、愛猫が変貌した世にも恐ろしい姿に、彼女は息をのみました。
耳まで大きく裂けた口からは、鋭く尖った何十本もの歯が剥き出し、団扇みたいに丸く広がった耳は、ウツボカズラのような円筒形の袋がお尻まで垂れ下がっています。そして、両前足の鉤爪は、それぞれが鎌のように鋭く大きくカーブを描いて、九つに分かれた尻尾には、薔薇の棘のようなものがびっしりと生えています。
彼女は思わず後退ります。
「シャーーーッ!」
「キャーッ! やめてっ! マロン。やめてよーっ!」
飼い主の女性は顔、腕を猫の鉤爪でしたたか引っ掻かれ、さらにその牙で噛みつかれ、もういたるところが傷だらけ、血だらけです。
恐怖と痛みで、息も絶え絶えになりながらも、必死に逃げ惑う飼い主。
なおも執拗にその後を追いかける猫のマロン。
彼女の足がもつれて地面に倒れ込んだところに、マロンは背後から襲いかかります。
「キャーッ! なんだあれは?」
「逃げろーっ! みんな逃げろーっ!」
「猫の化け物だーっ!」
その光景を見ていたキャンプ場の人々は、大声を上げながらその場から逃げ出し始めます。
気を失ったように動きが止まった飼い主に飽きたのか、マロンは血だらけの口を大きく開けて、次の獲物を探しながら、ものすごい速さで駆け回っています。
人々も、猫たちもみんな大パニックに陥っていました。
飼い主の逃げる方向とは別の方向に逃げようとして、必死にもがき続ける猫。
飼い主の手から離れたリードを引きずりながら、すごい速さで駆け抜けていく猫。
マロンのこの世のものとは思えない鬼のような形相に、恐怖のあまり身動きできず、その場にへたり込んで小便を漏らす飼い主と猫もいます。
そんな猫たちにもマロンは襲いかかります。マロンの牙にかかった猫たちは、一度パタリと死んだようにその場に倒れます。しかし、わずか二、三分もすると、今度はゆっくりと立ち上がり、マロンとまったく同じような恐ろしい姿でみんなに次々と襲いかかります。
それはまるでゾンビのようです。
猫ゾンビたちの牙にかかった人々は、しばらくすると気を失ったかのようにピクリとも動かなくなりました。
こうして猫ゾンビたちは、ものすごい勢いでさらに増え続けていきました。
鼠算式に増えていきます。
*
「すごーい人出だね、ピーチ。みんなノリノリじゃん」
まさみたちは有名ミュージシャンがパフォーマンスを繰り広げるコンサート会場に来ていました。
この先にキャンプ場があります。
ステージ上では、女性アーティストが、彼女の愛猫のキジトラのキジ雄のお腹や肉球に鼻をくっつけて、愛おしそうに猫吸いを繰り返しています。
「あー、いい匂い。これをやると一日中幸せな気分でいられるんだよね」
猫吸いされているキジ雄は、大勢の人に囲まれていても、まるで自分の部屋の中で安心しきっているかのように、飼い主の歌手にその身を委ねています。
「そういえば、私、ピーチに猫吸いってしたことなかったよね」
「あんな風に吸われたことはないけど、メンチカツのソースをいっぱいつけた口で、ついこの前もキスされたばかりだよね。そういえば、まさみって、ぼくによくチュッチュッするよね。あれってなんで?」
「……別に特別な理由なんてないわよ。スキンシップ、スキンシップよ。なんなら、今やってあげようか?」
ステージ上のアーティストに見習って、大勢の人々が自分たちの愛猫に猫吸いを始めています。
「却下! 遠慮させていただきます」
「なんでよーっ! いいじゃん、ちょっとくらい」
「だって、まさみって口臭いよ。自分で気づいてないの? まさみの口臭がぼくのからだに移るって。だから、絶対やめてよね」
「えっ! 魚が主原料のカリカリ臭い口をした猫のあんたにいわれるくらい、私って口が臭いの?」
「うん、かなりね。歯周病じゃない」
「そういえば、最近、歯を磨くたびに血が出てたっけ。今度、歯医者に行かなきゃ」
「うん、行ったほうがいいと思う。もし、万が一、彼氏ができてキスすることになったら、きっと後悔することになるよ」
「そうだね。歯周病で顎の骨が溶けるなんてことになったら、食べたいものも食べられなくなるもんね」
『気にするのは、キスじゃなくて、やっぱり食べ物のことなんだね、まさみ……』
ピーチは呆れています。
「それはいいんだけど、まさみ、リュックの中、ちょっと暑くなっちゃった。外に出してもらっていいかな? 猫ちゃんたちもみんな外に出ているし」
「そうだね。私も、ピーチが自分で歩いてくれると身軽になるし、助かるわ」
「あーっ、よかった。もう暑くてたまんなかったから」
まさみが背中のキャリケースに手をかけて、肩から下に降そうとしたそのときでした。
突然、辺りが悲鳴に包まれました。
さっきまで音楽を楽しんでいた人々と猫たちが、まるでなにかに追われるようにまさみたちの方へ猛然と走ってきます。
まさみはなにが起こっているのか、まったく状況がつかめません。
まさみの背中のリュックの中から顔を覗かせたピーチの瞳には、何十匹もの猫たちに襲いかかられ、次々とその場に倒れ込んでいく、血だらけの人々や猫たちの姿が映り込んでいました。
まさみは、恐怖のあまりその場に立ちすくみ、呆然とその光景を見つめています。
「まさみっ! まさみっ、走って!」
ピーチの声に我に返ったまさみも、逃げる群衆に引きずられるように踵を返して、走り出します。
「まさみ、走って! もっと速く」
「ハアハア……ピーチ、いったいなにが起こってるのよ?……」
最近太りすぎのまさみは、思うように速く走れません。
「まさみ、大変だ。化け物の猫たちにみんなが襲われてる。とにかく速く走り続けて!」
「ハアハア……私、もう無理かも。ピーチ、あんた私の代わりに走ってよ」
たった百メートルほど走ったところで、まさみはもう根を上げました。
最近、食べてばっかりで運動不足のまさみはもうこれ以上走れません。
立ち止まって肩で息をしています。
「そうできれば、そうするけど……」
ピーチが迫り来る猫ゾンビたちに視線を向けると、そのなかに見知った顔がありました。
サビ猫のマーダラのおじさんでした。猫ゾンビたちの先頭を走っています。
大きく姿形は変わっているものの、片耳は途中で欠け、尻尾はブーメランのように折れ曲がった、その特徴を色濃く残す姿は、間違いなくマーダラでした。
もともと迫力のある強面の顔が、なお一層、凶暴さを増しています。
それを見たピーチが思わず失禁してしまうほどでした。
「マーダラのおじさん……いったいどうしちゃったの?」
「フギャフニャミャミャミャーッ!」
マーダラの低く響くダミ声が、聞いているピーチのからだをすくませます。
猫ゾンビたちはもうそこまで迫っています。
「まさみ、ダメだよ、止まっちゃ! さあ、あきらめずに走り続けて!」
「ごめん、ピーチ。私、もうダメ、動けない」
まさみとピーチは、猫ゾンビたちに呑み込まれていきました。
*
「セッティング完了!」
「親方、なんか向こう岸の花火会場の方が騒がしいんですけど」
今夜の一大イベントの花火のセッティングを終えたばかりの花火師たちは、対岸で猫ゾンビたちに襲われる人々の悲鳴を耳にしました。
「なんだ、あれは?」
人々に襲いかかる猫たちが、その牙を剥き出しにしています。逃げ惑う人々の絶叫が、まだ日が高い海岸線に木霊します。
「親方、あれって、なんですかね?」
「俺にもわからん。なんなんだ、あれは?……」
「親方、あれは?」
弟子の研二が指さす方からは、世にも恐ろしい形相をした猫たちがすごい勢いでこちらに駆けてきます。「ウニャナャナャナャーッ!」と唸り声とも、雄叫びともつかない鳴き声を上げながら、花火のセッティングを終えたばかりの花火師たちに襲いかかります。
混乱のなか、偶発的に花火打ち上げのスイッチが入ります。
音を立てて勢いよく打ち上がる花火。
海岸線に次々と大きな音を響かせて、真昼の空に、色の映えない花火が打ち上がります。
ちょうど筒の上で人々を威嚇していた一匹の猫ゾンビが筒から発射された三尺玉にそのからだごと空高くに向かって打ち上げられました。
やがて、爆発する花火。
その猫の飼い主が叫びました。
「たまーっ!」「ニャーっ!」
飼い主の声に答えたのか、爆発の恐怖で叫んだのか、続けて聞くと、あのかけ声にも聞こえます。
「研二、海に飛び込め、猫は水を嫌うはずだ!」
「ですね、親方っ!」
バシャーンッ! ドッボーンッ!
ふたりは猫ゾンビの餌食になる寸前で海へと逃れました。
そのふたりを見た人々は、同じように次々と海に飛び込みます。
「親方、あれっていったいなんですか?」
「わしにもわからん。猫だとは思うが、普通の猫じゃないということだけは確かだ」
海の中の人々を威嚇するように唸り声を上げて、波打ち際でウロウロしていた猫ゾンビたちは、遠くから聞こえた悲鳴に呼応するかのように、一斉にその声のする方へ走り去っていきました。
「親方、あの猫たち行っちゃいましたけど。どうします?」
「そうだな、ここでこうしていても埒が明かないからな。とりあえず、車のところまで行こう。車でここを抜け出して誰かに助けを呼ばなければどうしようもないだろ」
「ケータイが繋がればよかったんですけど。さっきから圏外になってて……」
「私たちもご一緒させてもらっていいですか?」
一緒に海に飛び込んだ数名がふたりに近づいてきました。
「おお、わかった。人が多いほうが安心だしな。じゃあ、みんな、あの車のところまで走るんだ。いいな!」
「親方、別に走らなくてもいいんじゃないですか? もうあの猫たちの姿は見えませんけど」
「バカッ! またいつ戻ってくるかわからんだろ、研二」
「そうですね、親方」
なんとか車までたどり着いた親方たちは、車に乗り込もうとします。
「早くドアを開けろって、研二っ!」
「おかしいな、ポケットに入れておいたはずの車の鍵がないんです」
「おい、研二。いい加減にしろ。この前、おまえ鍵を失くしてみんなに責められただろ。だから、今日は失くしたらいけないからって、柿沼に預けただろ! 忘れちまったのか?」
「そうでした」
「柿沼はどうした?」
「親方、あそこに倒れています。血だらけでピクリともしないんで、たぶん死んじゃってるんじゃないですか?」
五十メートルほど向こうに、その柿沼の姿が見えます。研二はまるで人ごとのようです。
「研二、おまえ行って取ってこい!」
「いやですよ、親方。さっきの猫たちがやってきたら怖いじゃないですか?」
「何いってやがる。そうこうしてるうちに、またあの猫たちが戻ってきたらどうするんだよ」
親方は助手席側のボンネットをバンバンと何度か叩いて、研二を急かします。
「やめてくださいよ。わかりましたよ、行けばいいんでしょ!」
歩き出そうとした研二は、足下に目を落とすと、その場に固まってしまいました。
「おい、研二! どうした? 早く行かんか!」
「お、親方……」
研二はガタガタと震えています。
「キャーッ!」
研二の足下を見た女性は、悲鳴を上げて後退りします。世にも恐ろしい形相をした猫ゾンビが、研二のふくらはぎに噛みついていました。
「いてーよっ! 離せよ、このバカ猫っ!」
研二のこの声を聞いて、猫ゾンビたちがすごい勢いで戻ってきます。
研二以外の四人は、その猫ゾンビたちの姿を見て、一斉に海へ向かって駆け出しました。
「親方っ! ま、待ってくださいよ。俺を置いていくんですかっ!」
「すまん、研二。あとから助けにくるからなっ」
「あとからって……」
間一髪で猫ゾンビたちの襲撃を免れた親方たちは海に飛び込みました。
*
釣り会場では、早朝から始まった釣り大会の終了まであと三十分と迫って、いまだに熱戦が繰り広げられていました。今日は釣った魚の総量で勝敗が決します。そのため、みんな時間ギリギリまで釣り糸を垂らしています。釣り上げられたすべての魚は、計量後、キャンプ場で配られるバーベキュー試食用の食材として提供されることになっています。
そこへ猫ゾンビたちが雪崩れ込んできました。
釣り糸を垂らしている飼い主のとなりで、できれば釣れた魚をかすめ取ろうと、ウロウロしていた猫たちも、その異変に気づくと一斉に逃げ出します。
絡まった猫のリードに足を取られ、海に投げ出された釣り人は幸運です。
猫ゾンビたちに襲われた人々は、あっという間に血だらけになって、次々とその場に倒れ込んでいきます。
何人かは、海に飛び込みました。
「いったい、な、なんなんだよ? こいつらは?」
「ここから見てると、どうやらゾンビっぽいな。噛まれた猫が、死んだかと思うと、立ち上がった次の瞬間には表情が一変している。そして、人や猫を襲っているだろ?」
「冗談だろ? そんな映画みたいなことがありえるのか?」
そういっていた、男の唇に釣り針が刺さりました。
「いてっ! ふががっ!」
猫ゾンビが口にくわえて振り回した竿の先の釣り糸が、偶然にも男にヒットしたのでした。
男が苦し紛れに糸を引くと、猫ゾンビは海に投げ出されました。
「ニャニャニャニャニャーッ!」
猫ゾンビはもがき苦しんでいましたが、しばらくすると、ぶくぶくと白い煙を上げて、海中へと沈んでいきました。
そして、再び浮き上がってきたかと思うと、目の前の女性にしがみつきます。
「あっ! キナコ、キナコだ」
この女性の愛猫、キナコでした。
さっきまでの恐ろしい形相とは一変、可愛らしい茶色の毛並みが海水に濡れて、ぺったんこになっています。
「ミャーミャー」
キナコはブルブルと震えながら、飼い主にしがみついて鳴き続けています。
「どうやらこいつら海水で元の姿に戻るみたいだぞ」
「それはわかったけど。どうやって奴らに海水をかけるのよ?」
「いや、それはわかんないけど……」
*
野外コンサート会場を取り囲むように立ち並ぶ何十もの屋台にも、猫ゾンビたちは襲いかかっていました。
「なんだ、この野郎! こうしてやるっ!」
焼きそばの鉄板に飛び乗った猫ゾンビは、店の親父から、コテでパンパンパンとリズムよく叩かれています。
フルーツ飴用のドロドロに溶けた飴が入った鍋に勢いよく飛び込んだ猫ゾンビは、しばらくすると全身固まって動けなくなりました。
猫飴の出来上がりです。
チョコバナナ用のとろとろに溶けたチョコレートをひっくり返し、全身に浴びた猫ゾンビは、チョコの匂いをばら撒きながら、人々に襲いかかります。
*
その頃、白猫のミルクは、島の高台にある展望台からその様子を見つめていました。
『大変なことが起こっている。しかし、とにかく、あいつ等をなんとかしないとな』
高台から坂道を下ったミルクは、妻の茶トラ猫のアンズと子供たちに別れを告げにいきます。
もしかしたら、生きて帰れないかもしれません。しかし、愛する妻と、子供たちを守るためです。
ミルクは行かなければなりません。
「あら、あなた。どうしたの? こんな時間に顔を出すなんて、珍しい」
「ああ、ちょっと行かなければならないところがあってな」
「いったい、どこへ?」
「もしかしたら、奴らがここにも来るかもしれない。もし、恐ろしい姿をした猫たちがやってきたら、とにかく見つからないように身動き一つせずに、じっと隠れていろ。わかったな」
「なんなの、いったい?」
「いいから、俺のいうとおりにしろ! いいな」
「あなた、待っ……」
アンズがいい終わらないうちに、ミルクはその場をあとにしました。
*
「あーっ、危なかったね、まさみ」
通り過ぎていった猫ゾンビたちの後ろ姿を見送りながら、ピーチとまさみは安堵のため息を漏らしています。
まさみたちは、間一髪、猫ゾンビたちの牙から逃れていました。
迫り来る猫ゾンビたちのこの世のものとは思えない凄まじい形相に、気を失ったまさみ。そして、まさみの背中のリュックの中で、蓋をして、息を潜めたピーチ。まったく動かないそんなふたりに、猫ゾンビたちは興味を示しませんでした。
どうやら、動くもの、逃げようとする生き物にしか猫ゾンビたちは反応しないみたいです。
「けど、いつまでもここにこうしていられないし、これからどうしたらいいんだろ? まさみ、どうしよう?」
「うーん……」
ふたりが思案しているところへ、真っ白なふわっふわっの毛並み、その瞳はどこまでも深い青を湛えた、一匹の猫がふたりに向かって走ってきました。
ミルクです。
「おっ! ピーチじゃないか」
「あっ! ミルクさん。えっ! ミルクさんって、今あっちから来ましたよね!」
「ああ、そうだが」
「恐ろしい猫たちに会いませんでしたか?」
「ああ、会ったよ。俺の横をすり抜けていったよ」
「ミルクさんは奴らに襲われなかったんですか?」
「ああ、俺は大丈夫だったよ。ピーチ、この島の高台を覚えているか? 俺はあそこからここの様子を眺めていたんだ、どうやら、奴らは動かないものには反応しないみたいだ。だから、奴らの姿が見えたとき、俺は奴らから見えないところに身を潜めて、じっとしてやり過ごしたんだ」
「そうなんですね。だから、気を失ったまさみと、じっとしていたぼくは襲われなかったんですね」
ピーチが姿の見えないまさみを探していると、まさみは立ち並ぶ屋台のコーナーで焼きそばを食べ終えて、となりの屋台のフランクフルトに手を伸ばしたところでした。
「まさみ、何やってんの?」
猫ゾンビに襲われて倒れている辺りの人々は、死んだかのように微動だにしません。そんな人たちを気にする様子もなく、まさみは食べ続けています。
「だって、全力疾走したからお腹が空いたんだもん。いいじゃない、ちょっとくらい食べたって、こんな状況だし、誰にも怒られないでしょ」
「本当にまさみってば……」
食い意地が張っているのか、肝がすわっているのか、そんなまさみにピーチは唖然としています。
「あっちへ行った猫どもは、しばらくはこっちには来んだろう。まあ、戻ってきたとしても、動かずにじっとしていれば、襲われることもないさ」
「でも、あの迫力だからちょっとくらいは動いてしまうかも」
ピーチは動かずにいられる自信がありません。
「食っべ放題っ、食っべ放題っ!」
まさみは、鼻歌混じりに超ご機嫌な様子で、無人になった屋台の食べ物を次から次へと口に入れています。
「まさみっ、いい加減にしなよ。こんな状況でよくそんなに食べられるね?」
「だって、こんな風に屋台で好きなものを好きなだけ食べられることなんて、金輪際ないと思うから」
「わかったよ、好きにしていいから。でもこれだけは覚えておいてね。あの猫たちは動くものに反応するんだ。だから、もし、奴らの姿を見たら動かずにじっとしていること、いいね?」
「んぐっ……おけまる」
まさみは口いっぱいにチョコバナナを頬張ったまま、首を縦に二度振っています。
古っ! 生きるか死ぬかの瀬戸際の状況なのに、とピーチは開いた口がふさがりません。いったん爆食モードに突入したまさみには何をいっても通じません。本人が満足するまで放っておくしかないのです。
「しかし、ピーチがここにいるとは思いもしなかったよ。実はあいつらをやっつける方法を見つけたんだよ。しかし、それをどうやって協力してくれる人間に伝えようかと考えていたところだったんだ」
「えっ! 本当ですか?」
「ああ、あいつらはどうも、海水をかけると元の姿に戻るみたいなんだ」
「そうなんですか?」
「俺が高台から見ていたとき、海に逃げた人たちは奴らには襲われなかったし、誤って海に落ちた一匹の猫が、白い噴煙を上げて海に沈んでいって、再び浮かび上がってきたら普通の猫に戻ったのを俺は確認している」
「けど、ミルクさんってすごく目がいいんですね。そんなに遠くまではっきり見えるなんて」
「まあな、これだけは自慢できるかもな」
「それはわかりましたけど、それでいったいどうやってあの猫たちを元の姿に戻すんですか? ぼくら猫が奴らに水をかけることなんて、不可能ですし」
「そこの姉ちゃんがいるじゃないか。まさみっていったっけ? 彼女に協力してもらうんだよ」
「まさみに?」
「ああ、今日のイベントには、万が一のために、消防車と救急車が配備されているんだ。キャンプ場の近くと花火会場にな。どちらもあらかじめ、ポンプのホースを海の中にセッティングしてあるから、あとはポンプのスイッチを入れて放水するだけになっているはずだ」
「ミルクさん、よくそんなことまで知ってますね」
「まあ、このイベントは今までに何回も行われているからな。この日には、島に可愛い猫ちゃんたちがいっぱい来るだろ。だから、いっつも島中をパトロールして回っているんだよ」
「そんなことアンズさんに知られたら大変じゃないですか?」
「いや、あいつは何にもいわないよ。俺を一番理解しているからな」
それは理解しているのではなく、アンズはそんなしょうもないミルクだとあきらめているだけなのです。
「ミルクさんって幸せ者ですね」
ミルクは満更でもなさげに頷いています。
「はあー、お腹いっぱい。もう、食べらんない」
どうやらまさみの爆食タイムは終了したようです。
「まさみ、いまミルクさんと話したんだけど、あの猫ちゃんたちを元に戻す方法がわかったんだ。それでそれをまさみに手伝って欲しいんだけど」
「ダメ、ピーチ。私、もうお腹いっぱいで、やばたにえんの無理茶漬け」
なんでそこで普段使わないギャル語? と、ピーチは苦笑しています。
まさみも猫ゾンビたちに囲まれたこの状況下で、やはり心のなかでは激しく動揺しているのでしょう。
「とにかく、行くよ。まさみっ!」
ピーチたちは、ミルクに先導されて、ここから最も近い、消防車のある花火会場へと向かいます。
花火会場の砂浜には、数匹の猫ゾンビたちがウロウロしていました。浅瀬にいる数人の人々を狙っています。
「これじゃあ近づけませんよ、ミルクさん」
「大丈夫だ。あれを見ろ、ピーチ」
「バケツですか……」
ミルクが顎で指し示す方を見ると、そこには二丁の水鉄砲が入ったバケツが転がっていました。
「まさみにそれを持ってもらって、すぐそこから海に入る。そして、あの人たちのいるところまで行って、これこれこうで、と事情を説明して手伝ってもらうんだよ」
「なるほど、さすがミルクさんです」
ピーチがミルクからいわれたことをまさみに伝えます。
「わかりみっ!」
まさみは、真面目な面持ちで声を落として短くいいました。
さっきからなんで、度々ギャル語なのかな? 最近、またテレビかなんかでギャルが流行っているのかな? とピーチは首を傾げています。
「じゃあ、行きましょうか、ミルクさん」
「おう! ピーチ」
そういって、ピーチは海に一歩を踏み出したまさみの左肩に飛び乗ります。
ミルクはまさみが抱えたバケツの中に入っています。
「おお、あんたらどこから来たんだ」
花火職人の親方が、まさみの肩に乗ったピーチとバケツの中のミルクを見て、一瞬、後退りましたが、普通の猫だと気づくと、ほっと安堵の色を浮かべました。
「そうなんだな。海水をかけるとあの猫たちは元の姿に戻るんだな?」
まさみの説明を聞いた親方は、確かめるように声を荒らげます。
「ええ、そうなんです。さっき、私、誤って海に落ちた猫ちゃんが元の姿に戻ったのを見たんです」
「ところで、さっきあんたは向こうからゆっくりと歩いてきたが、何か理由があるのか? そういえば、海に入ると奴らが襲ってこないことも知っていたみたいだし」
まさみはそのことについても説明します。
「そうなんだな? 地獄で仏とはこのことだ。あんた、すごいな!」
「いいえ、すごくなんてありませんよ。手伝っていただけますか?」
すべてはピーチを介してミルクから聞いたことです。
「手伝うもなにも、手伝うしかないだろう。ここでこうやっていても、海水でどんどんからだも冷えていくし、何時間もこんなとこにはいられないだろう。なあ、みんな?」
「手伝いますよ、もちろん」
「すみません、私はちょっと怖くて」
手伝うという人もいれば、怖くて何もできないという人もいます。
「わかった、一緒に来てくれる奴だけでいい。無理はしないでくれ」
親方は力強くいって、みんなの顔を見回します。
「ありがとうございます」
まさみは深く頭を下げました。まさみの肩に乗ったピーチとバケツの中のミルクも頭を下げています。
すると、ミルクが親方の左肩にポンッと飛び乗りました。
まさみは親方にバケツを手渡します。一緒に来るふたりにもそれぞれ水鉄砲を渡しました。砂浜でウロウロしていた猫ゾンビたちは、浅瀬で動くまさみたちに狙いを定めています。
親方は、近づいてきた猫ゾンビたちに、バケツで汲んだ海水を勢いよく浴びせかけました。
「フミャフミャーンッ!」
凄まじい声を上げて、猫ゾンビたちは元の姿に戻っていきます。
「おう、研二、待たせたな。大丈夫か?」
車のところまでたどり着いた親方が、車の影で倒れていた研二の頬を、二度三度ペシペシと叩きました。
「うーん……。あっ、親方っ! 戻ってきてくれたんですね」
「あたりめえだろ、俺の大切な弟子だ。 見捨てるわけねえだろ」
『でも、さっきは見捨てましたよね』
研二はそのことばを飲み込みました。
「おいあんた。どうするよ、あれを見てみろ」
親方の視線は、遠くからすごい勢いでまさみたちに向かって駆け寄ってくる猫ゾンビたちを捉えています。
ピーチとミルクはひと足先に消防車のところまでたどり着いていました。元の姿に戻った猫ちゃんたちも、ピーチたちの後を追いかけていきます。
バケツ一杯の水ではあの数を対処しきれません。
消防車のところまではあと約百メートル。バケツを抱えた親方と、まさみの足ではとても間に合いそうにありません。
研二と他のふたりは、もう少しで消防車のところまでたどり着きそうです。
「ここは、じっとしてやり過ごしましょう」
「あんた、本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫です。もともと猫は動くものに反射的に反応しますから」
そうこうしてるうちに猫ゾンビたちがまさみたちのところまでやってきました。
ピーチたちは、みんな動かずにじっとしています。猫ちゃんたちもピーチにいわれたのか、おとなしくじっとしています。
そのとき、浅瀬に残っていたふたりの女性たちが大声を上げました。猫ゾンビたちをそちらの方へ引きつけようという作戦です。
猫ゾンビたちは女性たちの方へ駆け寄っていきます。
しかし、まさみたちからは、ほんの少ししか離れていません。
まさみたちは猫ゾンビたちに細心の注意を払いながら、少しづつ消防車に近づいていきます。
一匹の猫ゾンビが、まさみたちを振り返りました。まさみたちは、立ち止まります。ピクリとも動きません。
その猫ゾンビが、また浅瀬の女性たちのほうに気を取られると、まさみたちは少しづつ消防車の方へ歩みを進めます。
また猫ゾンビがまさみたちを振り返りました。まさみたちは動きを止めます。まるで、だるまさんがころんだの逆バージョンです。
これを何度も繰り返して、まさみたちはやっと消防車までたどり着きました。
みんなは親方が来るまで待っていました。というのも、親方は、職業柄もあってか、若い頃には地元の消防団に入っていたこともあり、消防車の扱いには慣れていました。
みんなにそのことを伝えていたのです。
「ブーンっ!」
消防車のエンジンが鳴り響きます。
「よしっ! よこしなっ!」
エンジンをかけた親方は、研二からホースを受け取りました。そして、その音に反応して向かってきた猫ゾンビたちに海水をかけまくります。
その水圧に十メートルほど後ろに飛ばされた猫ゾンビたちはみんな元の姿に戻っていきました。
「やりましたね、親方!」
「いや、まだだ。研二、あれを見ろ!」
研二は親方が指し示す方に顔を向けました。かなりの数の猫ゾンビたちがものすごい唸り声を上げながらこちらへ向かって来ます。親方は次々に猫ゾンビたちにホースで海水をかけまくりました。
「やっと終わったかな。それでもまだ残っているかもしれない。俺と研二はふたりで島中を回ってくる」
そういって親方はもう一台の消防車のタンクに注入してあった真水を抜きます。そして、代わりに海水をタンクいっぱいに注入しました。親方と研二はこの消防車を使います。
「ここをしっかり持って、ここを引くと水は出るからな」
まさみたちは、親方から別の一台の消防車の放水の仕方を教わりました。残ったみんなは、親方たちが帰ってくるまでここでお留守番です。
「あーっ、お腹すいた。皆さんもお腹すいたでしょう? さあ、食べましょうよ」
いつの間にかまさみは、コンサート会場の近くにあった屋台から目ぼしいものを掻っ攫うように、背中のリュックに背負って持ってきていました。
「まさみって本当によく食べるよね」
ピーチは呆気に取られています。
花火会場では、目を覚ました、傷ついた人々が、からだを引きずるようにして、まさみたちの周りにひとりふたりと集まってきました。
猫たちも自分の飼い主のもとに寄り添っています。
人間も猫も、からだのあちらこちらに傷を負ってはいるものの、みんな軽傷です。
やがて親方たちが戻ってきました。
「途中で遭った猫どもには、海水をぶっかけてやったよ。みんな元の姿に戻っただろうよ」
「大変でしたね。ありがとうございました」
「本当にありがとうございました」
まさみたちは、親方と研二の労をねぎらいます。
「いいや、あんたたちのほうこそ、ご苦労さんだったな。ありがとよ」
日に焼けた真っ黒な顔に、白い歯が眩しすぎる親方の笑顔でした。
*
「まさみ、あれっていったいなんだったんだろうね?」
我が家に帰り着いたまさみとピーチはリビングでくつろいでいます。
「さあ、よくわかんないけど、怖かったよね」
まさみは、あの出来事を思い出しているのでしょう。両腕でからだを抱きしめるようにして、からだを震わせています。
「うん、本当に怖かったよね。あの恐ろしい形相のマーダラさんったら……思い出したら、またからだが震えてきちゃったよ」
ピーチも四つ足を踏ん張るようにして、小刻みに震えています。
「けど、不思議だよね、まさみ。あんなことがあったのに、ニュースでもこのことはまったく報道されていないし、SNSでもあの騒動については一切投稿されていないよね。怪我をした人たちがあんなに大勢いたっていうのにさ」
「だって、誰にもこのことは話すなって、なんとかという特殊機関の強面の担当官にみんな釘を刺されていたでしょ。それに、持っていたケータイもみんな一度取り上げられたし。あの特設テントの中で傷の手当てと検査を受けていた間にさ」
「そうだったの? ぼくたち猫は、なんか薬品臭いシャワーを浴びせられたあとは、まさみたち飼い主が迎えに来るまで、別々のケージの中に入れられていたけど」
「うん。戻ってきたケータイに保存されていた、あの島に関する写真や音声はすべて消されていたから」
「国家ぐるみの隠蔽ってこうやって行われるんだね」
「あの騒動も怖かったけど、こっちのほうがまだ恐ろしいよね」
「はんとだね、まさみ……」
ふたりは同時にブルっと震えました。
いつの世も真相は藪の中です。くらばらくわばら。
*
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