短編小説 『waving 響子』後編
翌朝、響子が目を覚ますと、猫のラックは響子のからだに身を寄せてまだスヤスヤ眠っていました。
その姿を見ると思わず笑みが溢れます。
「可愛い......」
その視線に気づいたのか、ラックはゆっくりと目を開けると、響子の顔を見上げ、声にならない声で短く「ミャー」と、一声鳴きました。
響子が朝風呂に入ろうと大浴場に向かうと、ラックも後をついて来ます。
響子が浴衣を脱いでいる間に、もう先陣をきって、湯船のなかで気持ち良さそうに、クルクルと猫かきを披露しています。
『本当にお風呂好きなんだな...』
濡れないようにお湯からしっかりと上げたラックの顔は、本当にニコニコ笑っているようです。その猫かきも見事で、愛嬌があります。
響子はそっと湯船に入ると、自分のまわりをクルクルと泳ぎ続けるラックを、優しい笑みを浮かべて見つめていました。
響子が朝食を終えて、昭人が迎えに来るすこし前に会計を済ませようと、フロントの仲居に尋ねると、奥から公平が出てきました。
「おはよう、響子ちゃん。すこしは眠れたのかな?」
「ええ、ぐっすりと眠れました。お風呂も猫ちゃんと一緒で楽しかったし、猫ちゃん、ラック?ですよね。ラックと朝まで一緒に寝ていて、すごく幸せな気分でした」
「ああ、昨夜、ラック帰って来ないなあ、と思っていたけど、響子ちゃんの所に行ってたんだね」
「可愛い猫ちゃんですね」
「うん、俺より頭いいしね」
公平は、そうそう、と話を元に戻し、
「会計はもうすんでいるよ。お代は昭人が払ってくれた」と、告げました。
「えっ?お兄ちゃん......」
そこへ、昭人がやって来ました。
「おはよう、響子」
「お兄ちゃん、おはよう!」
「今、聞いたんだけど、お宿の代金払ってくれたって」
「気にしなくて良い。俺の小遣いからだしたから」
実は、昭人は毎年、夏休みの間中近くの工場でアルバイトをしていました。その仕事は、平原と言うそこで働いている青年から紹介されたものです。
中学に上がってすぐからでしたから、今年で六年目になります。
今回は、東京へ行ったので、八月五日から働くことになっていました。
無駄づかいをあまりしない昭人は、今ではかなりの貯えがありました。その中から出していたのです。
旅館から十五分ほど歩くと、山の中に公園があり、そこから二百段ほどの階段をふくむ遊歩道を使って頂上に上がると、この街を一望できる展望台に着きます。
昭人と響子は、二人でその公園へ行くことにしていました。公平も一緒に行きたそうでしたが、夏休みの間、実家の旅館のアルバイトをしています。勝手に抜け出すことはできませんでした。
そこへ向かう道すがら、響子は辺りの景色に眼をやりながら、
「本当に山の中なんだね。田舎だね」と、何もないことに驚いていました。
「そう、東京みたいに都会じゃない」
昭人はつい一週間前まで訪れていた、東京の景色を思い浮かべていました。
ほんの少し前のことなのに、遠い昔のことのように、昭人には感じられました。
「お兄ちゃん、手をつなごうよ」
響子が右手で昭人の手を握ります。実は、響子はさっきからずーっと、手をつなぐタイミングを見計らっていたのでした。
昭人も握り返します。 遊歩道ですれ違う人が遠くに見えると、昭人はあわてて手を離そうとしますが、響子はギュッとつないでいる手をしっかりと握りしめ、それを許しません。
すれ違う人たちは、つながれたその手に視線を向けると、皆一様に、微笑みを湛え会釈をしてくれます。
響子は元気よく「おはようございます」と挨拶を返します。その横で昭人は照れくさそうに、会釈を返していました。
やがて展望台に着きました 。響子は、すがすがしい大自然の中の空気を、頭上に燦々と輝くお日さまの匂いと一緒に胸いっぱいに吸い込みます。
「あぁ、気持ちいい......」そう一言言うと、天を仰ぎました。
本当に嬉しそうです。
昭人は、そんな妹の姿を見て、自然と笑みが溢れました。
眼下に広がる景色は、街並みが途切れたいたる所に、のどかな田園風景が広がり、視界の奥の方には、青い海が広がっていて、そのまた遥か向こうの彼方には、山々が連なっています。
本当に美しい風景です。
母はここで生まれ育ったんだ。
響子はそう考えると、胸が熱くなりました。
頂上から下へ降りて行く間中、昭人は、幼少期の頃からのこの土地での暮らしぶりを、響子に尋ねられるままに話して聞かせます。
響子はそれを聞いて、自分とは違い片親で、しかも、置き去りにされたことも知らず、頑張って生きてきた兄の気持ちを思うと、涙せずにいられませんでした。
響子が涙をグイッと拭ったのに気づいた昭人は、
「何?どうかした。響子?」
と、心配そうです。
「ううん、目にゴミが入っただけ」響子はうまく誤魔化しました。
旅館に戻り、公平に一晩世話になったお礼をあらためて伝え、二人は一夜の宿を後にしました。
昭人の家まで歩いて約一時間かかります。
しかし、「タクシーを呼ぼうか」と、言う公平の問いかけに、
響子は、「母さんの生まれ育ったふるさとをもっと良く観たいから」と断り、二人は結局歩くことにしたのです。
温泉街から川沿いに昭人の家まで歩いて行きます。昔、昭人が公平らとよく遊んだ小さな川。
そこは以前はホタルの宝庫でした。
今では、河川工事のせいでみる影もありません。
そして、右手には中学校があります。この学校の校庭では、もうしばらくしたら、お月見が行われます。
お隣さん同士、食べ物やら、飲み物やらを持ち寄って、みんな一緒に校庭のなかで『ござ』を敷いてお月見を楽しむのです。
そして、繁根木川から左に折れて、商店街に入ると、すぐ入り口にこの街にひとつしかない映画館がありました。
ここは、昭人が学校の授業の一貫で、幾度となく訪れた場所です。
そこを左手に見ながら百メートルほどまっすぐに行くと、右側に公平の叔母さんがやっているお好み焼き屋が、通りの角にありました。 名前は『金閣寺』と言います。
響子は、あの作家のファンなんだろうか?それとも......などと考えながら、その店の表に飾ってあるメニュー表に目を通しました。その中の一つに『バター焼き』がありました。
「お兄ちゃん、このバター焼きってなに?」
「それはね、普通のお好み焼きに最後の仕上げにバターをたっぷりかけるんだ。なかなか、美味しいよ」
「変わってる。食べてみたいような、見たくないような」
響子はどうやらその味を想像しているようです。
小さな町の目抜き通り商店街を通り抜けて行きます。そうして、もう後十分ほどで家に着くと言うところまで来たところで、響子は突然、言い出しました。
「お兄ちゃん、響子...あそこに行ってみたい。お兄ちゃんがお母さんと初めて会ったあの河原。
響子は昭人が帰った後、喜和子から、あの河原での事を聞いていたのです。もちろん、あの神様トンボのことも。
やがてふたりが河原に着くと、響子はポツリと言いました。
「うん、河原だね。きれい、だけど......」
たいしてこの場所に思い入れのない響子にとっては、ただの、のどかな河原の風景としか見えません。
「...で、お兄ちゃんはどこにいたの?」
「ここかな」
「...で、お母さんはどこからお兄ちゃんに声をかけたの?」
「あそこかな」
「どんな風に?」
「大きく手をふりながら何か叫んでいたっけ。あとから分かったんだけど、僕の名前だったんだって」
すると、響子はスタスタと遠くの鉄橋の近くまで歩いて行きます。
そして、手を降ろうとふりかぶったとき、列車が鉄橋を渡り始めました。
「お兄ちゃん......」
響子は、手を大きくふりながら何かを叫びましたが、その声は列車の音にかき消されてしまいました。
緑地にドット柄のワンピース姿の響子は、あの日の喜和子の姿と重なるようでした。
近くまで来た響子に昭人が、「何て言った?」と聞くと、
悪戯っぽい顔をして、
「えへへっ、内緒。教えないっ!」と、教えません。なんだか、照れくさそうです。
「じゃあ、無理には聞かないけれど......」昭人はすこし気になるようです。
「じゃあ行こうか?」昭人は先に歩き出します。
響子は、しきりに兄と手をつなごうとしますが、昭人はその度に手を引っ込めます。
「ちぇっ、お兄ちゃんの意地悪っ!」
響子が拗ねて視線を逸らしたその先に、何か黒く光り輝くものがスーッと横切りました。
響子が目を向けたその先の草の葉に黒いトンボがとまっていました。
「お兄ちゃん、あれ何?」
響子が不思議そうに尋ねます。
昭人は言葉を失いました。
『神様トンボだ。響子と一緒の今、この瞬間に......』
「響子...あれが神様トンボだよ」
「へーっ、あれが......」
「本当に綺麗、真っ黒なんだね」
響子は本当に美しいものを見た、と瞳を輝かせています。
家に着くと、昭人は喜和子の家に電話をしましたが、誰も出ません。
「買い物にでも行ってるのかな」
と、昭人が思っていると、玄関先で声がしました。
「昭人、いる?源三さんいらっしゃいますか?」喜和子でした。
母の姿を見ると、 響子は、「お母さん......」と絶句して、怒られると思い、素早く兄の後ろに隠れました。
「怒らないから出ていらっしゃい」と、喜和子は優しく言います。
響子が「エヘヘヘっ」と、意味不明な照れ笑いを浮かべながら出てきたところを、喜和子は響子の首根っこを捕まえて、げんこつを一発食らわせました。
「お母さん...ごめん......」と、響子は今にも泣き出しそうです。
喜和子は、瞳にうっすらと涙を浮かべて、
「本当に心配したんだからね。この子は......」
響子のからだをギュッと抱きしめます。
その夜、源三は気を利かせて、喜和子へのあいさつもそこそこに、友達の温泉旅館へ泊まりに行きました。
夕食は、喜和子の提案で、地元では有名なラーメンの出前をとりました。
昭人や喜和子にとっては馴染み深い豚骨ラーメンでしたが、
生まれてからずっと東京育ちの響子にとっては初めての体験でした。
「響子、美味しい?」母の問いかけに、
「う...ん、なんか...動物臭い。すごいなんか...どろっとしてる。響子は東京の醤油ラーメンの方が好きかな」
昭人と喜和子は顔を見合わせて、『そうだろうな』という表情を浮かべています。
そう言いながらも、響子は全部平らげました。
「まあまあいけるね」そう言うと、ふくれたお腹をポンポンッと二度叩きました。
昭人と喜和子の二人は、その響子の仕草に、また顔を見合わせると、声を上げて笑い始めます。
昭人は、「気に入ってくれて良かったよ」と、ポツリとつぶやきました。
*
翌日に寝台特急はやぶさで帰ることになっていた二人は、響子が、
「どうしても、お兄ちゃんが鉄橋の下で手を振っているところを見たい」
と、言い出したものですから、結局、昭人は、五年前に母が訪ねてきたときと同様に、また、鉄橋の魚釣り場のところで手を振ることになってしまいました。
「ガタン......ゴトン、ガタン....ゴトン、ガタン..ゴトン、ガタンゴトン」
喜和子と響子をのせた寝台特急列車が川鉄橋を渡って行きます。
列車の大きな窓の中に二人の姿を見つけた昭人は大きく大きく手をふります。
喜和子と響子も列車の中から大きく大きく手をふりかえします。
喜和子は「来年を楽しみに待っているからね。昭人、待っているから」 と、その思いを伝えます。
響子は、「お兄ちゃん、来年待ってるからね。それまで、元気でね」そして、ポツリと、あの時母の真似をして昭人には聞こえなかった、という言葉をつぶやきました。「お兄ちゃん、大好きだよ」
喜和子は、その言葉を聞いて、響子の妹としての可愛らしい想いに、思わず笑みが溢れます。
鉄橋の下では昭人が大きく大きく手を振りながら、二人に向かって叫んでいました。
「 来年、必ず行くから、それまで元気でね!」
やがて二人の姿は東京へと遠ざかって行きました。
*
最後までお読みいただき、ありがとうございます。