『サザンクロス ラプソディー』vol.39
「……わかったよ」
俺の家へミヅキを連れて行くことにした。
タクシーの運転手に、行き先を告げる。二十分ほどして家に帰り着いた。
音がしないように気をつけながら、玄関のドアを静かに開ける。家のなかは真っ暗だ。もう深夜二時近くだ。そりゃ誰も起きているわけがない。
一階の冷蔵庫の中からミネラルウォーターのボトルを二本取り出すと、一本をミヅキに手渡す。
「ありがとう。のどが渇いていたから」
そういって、ミヅキはキャップを開けると、ゴクリゴクリと音を立てながら、ボトルの半分ほどを一気にのどに流し込んだ。
「さっきの店でなにも飲まなかったの?」
「だって、わたしが飲めそうなものって、コーラかウーロン茶しかなかったでしょ。なにも頼まないわけにもいかなかったし、まさか、水割り用の水を飲むわけにもいかないじゃない。どっちも好きじゃなかったから、しょうがなく頼んだウーロン茶には口もつけなかったの」
「それじゃのども渇くよね」
三時間近くなにも飲んでいなけりゃ、そりゃさすがにそうなるわな。
ミヅキを二階の俺の部屋へうながす。
音を立てないように静かに階段を上がる。
部屋に入るとミヅキはすこし不思議そうな顔をして、くるりとなかを見回した。
椅子に座るようにすすめたが、ミヅキは黙ったまま、ベッドの縁に腰かけた。
椅子をベッド側に向けて、そこに腰を下ろす。
「加茂下さん、奥さんがいるのに、あのジェシカっていうホステスさんのこと本気で好きみたいだね」
「ああ、そうみたいだな」
よほどそのことが聞きたかったんだろう、部屋に入るなり、ミヅキは開口一発そういった。
たしかに、奥さんがいるのにあれはよくない。たぶん、俺だってあんなことはしないと思う。加茂下さんの奥さんのひとがよさそうな顔が頭に浮かぶ。
「男のひとってみんなそうなのかな?」
「というと?」
「奥さんとか恋人とかがいるのに、他のひとに目移りするものなのかな?」
ただ単に、可愛い女の子に出逢ったらまったく興味が湧かないか、というとそれは嘘になる。積極的にアプローチをかけないにしてもだ。
加茂下さんの場合は、ジェシカに心の半分以上は、すでに持っていかれているような気もするが。
「うーん、なんともいえないな、それは……」
ここで奥さんのいる加茂下さんを悪者扱いもできないし、男がみんなそうだと思われるのも、なんか違う。
「やっぱりそうなんだね」
ミヅキは寂しそうに呟くと、顔を曇らせた。
「いや、そうとも限らないよ。ひとによるよ。例えば、村岡さんは奥さん一筋だから、今夜だって、あの店のマスターがしつこく何度も村岡さんのとなりにホステスを座らせようとしたのを、村岡さんはすべて断ってたじゃない」
男はみんなそうなんだ、と決めつけられるようにいわれてすこしムッとした俺は、今夜の村岡さんを例に挙げて、みんながそうではないんだよ、といい添えた。
「あ、そうだったよね」
俺のそのことばに、ミヅキは思い出したように相槌を打った。
「だろ? だから、ひとそれぞれなんだよ」
「……それで、ヤマさんはどうなの?」
ミヅキはそういって探るように俺の瞳を覗き込んだ。
「俺? 俺は、好きな女の子一筋に真心を尽くすタイプかな」
嘘偽りなく、俺は二股をされたことはあっても、したことなんて一度もない。
そんな器用な性格じゃないことは、俺が一番よくわかっている。
もっとも、別れたあとの切り替えは、異常なくらい早いタイプであることは、はっきりと自覚している。
「なにそれ、なにかのキャッチフレーズ?」
俺のいい方がおかしかったのか、ミヅキはベッドの縁に腰かけたまま、両手をついてベッドを揺らしながら笑っている。
「じゃあ、ミヅキはどうなの? 好きなひとに一途なの? 浮気はしないの?」
年齢からして、恋愛経験がそんなに多くはないであろう高校生の女の子相手に、こんな質問はどうか、とは思ったが、ふと、訊いてみたくなった。
「あたしは、そうだね……内緒……」
そういって彼女はベッドに仰向けに倒れ、頭の上で両手を組むと、背伸びをしながら、「なんか、疲れちゃった」と、話をはぐらかすかのように投げやりにいった。
「そりゃ、そうだろうよ。夕方からとはいえ、五時間以上働いて、そのあとカラオケクラブで、長い時間なにも飲まずに付き合ったんだから、疲れもするさ。一日お疲れさまでした」
軽く頭を下げながら、ミヅキの今日の労を優しいことばで労った。
「ヤマさん、もう寝る?」
背中をベッドにつけたまま、頭だけをすこし持ち上げて、ミヅキは俺を見上げている。
「そうだな……ベッドはひとつしかないけど、いっしょに寝てもいいかな?」
ここまで来たら、ヤることはひとつだけだ。
ミヅキはだいぶ前からOKサインを出していた。ここまで来て俺の勘違いなんてことはありえないだろう。
「いいよ。全然、大丈夫」
ミヅキのそのことばを合図に、俺は彼女を抱き寄せると、一瞬見つめ合って、唇をそっと重ねた。
*
びっくりした、というのが正直な感想だった。
ミヅキはユウカに負けないくらい、男を喜ばせる術を心得ていた。
まだ、十八歳だというのに、いったい何人の男たちと関係を持ったんだろう? ふと、そんな考えが脳裏を掠める。
「気持ちよかった?」
そういって、うれしそうに問いかける目の前の少女が、俺よりもずっと年上の女性に思えた。
さすが海外暮らしが長いとこうも違うもんなんだな、と感心する。
ほとんど自分一人で体位を変え続けた激しい動きでのどが渇いたのか、ミヅキはすっくと立ち上がると、テーブルの上のペットボトルを手に取った。
真っ裸のまま、俺に背を向け、腰に手を当てて、ゴクリゴクリと水をのどに流し込むその仕草は、なにかしらのスポーツをやったあとのように健康的だ。
カーテン越しに差し込む薄い月明かりが、はち切れんばかりに若々しく丸みを帯びたミヅキの白い尻に、幾条かの光の束を届けていた。
「ヤマさんも、のど渇いたでしょ?」
ミヅキのあまりの激しさに、仰向けになって息を整えていた俺に、そういって彼女はおもむろに覆い被さってきた。
俺の顔を両手で軽く挟みながら唇を重ねてくる。ミヅキが口に含んだミネラルウォーターがすこしずつ俺の口に流し込まれた。
ミヅキの甘い匂いがかすかに移った液体は、のどを通り、俺のからだのなかへと染み込んでいく。
そして、そのまま舌と舌とがまたねっとりと絡み合った。
ふと、下腹がなにかに濡れているのを感じた。
そっとミヅキの柔らかい窪みに指を滑らせると、そこは驚くほど濡れていた。
ミヅキの吸いつくような白い肌は、カーテン越しに窓から差し込む、さながらピンスポットのような幾条もの光の下で、妖しく何度もその色を変えた。
結局、俺たちは、朝の五時過ぎまでお互いのからだを激しく求め合った。
「おはよう、ヤマさん」
その声に目覚めると、ミヅキは枕に頭を横たえたまま、俺の瞳を覗き込むように微笑んでいる。
可愛い。
「ああ、おはよう」
ミヅキに顔を近づけ、チュッと、軽く朝の挨拶のキスをする。
ふいに、ツグミからいわれたことのある、「ヤマさんは、女性には、ね」というセリフがよみがえった。
初めてまともに会話を交わした十八歳の女の子と、その日のうちにヤってしまうような、とんでもなく手の早い男ですよ、俺は!
なんの反論もできやしない。
*
この車を運転するのもほんとうに久しぶりだった。
ロンドンへ旅立つ前、所有していたこの車を売ろうと、自動車販売店で査定をしてもらったら、タダなら引取るけど、といわれた。
それでポールにプレゼントすることにした。顔の広いポールならきっと誰かに安く譲ることができるだろう。そしてすこしはお金に変えて、家のローンの返済に充てられるだろう、と考えたからだ。
ところが結局この車は、ツグミが使うことになり、ポールの家のガレージにそのまま置かれていた。
俺が帰ってきたことで、ツグミがその車を俺に返してくれたのだ。
ロンドンにいたときに一度くらいは車を運転してみたいな、と思ったこともあったけど、事故ったときのこととか考えるとやっぱりできなかった。
パリのエトワール凱旋門の十二叉路を通り抜けたい、と考えたこともあった。
あの場所をみんなすいすいと運転していたけれど、慣れれば簡単なのだろうか? といまでも不思議に思う。
俺には到底、不可能なことのように思える。
そのことを思い出すたびに、ポールに訊いてみようとするのだけれど、いつもタイミングが悪くて訊くことができず、いつの間にか訊ねること自体を忘れている。
「ミヅキ、お待たせ。じゃあ行こうか」
待ち合わせの場所で、寒そうにからだを縮こめてたたずんでいるミヅキの姿を見つけた俺は、車を停めるとそう声をかけた。
異常な寒がりだというミヅキは、白のダウンジャケットに、もこもこの白いマフラーと上は着込んではいたものの、下はタイトな赤いレザーのミニスカートに、黒の花柄のストッキングといったかなり露出度が高い、攻めた装いだった。
彼女の年齢にしてはかなり大人っぽい。
「ヤマさん、お願いがあるんだけど」
ミヅキは助手席に乗り込むのかと思ったのに、なぜかドアを開けっぱなしにしている。
そして、腰を屈めて、俺の顔を覗き込みながら甘い声で囁いた。
「なに? ミヅキ」
「あたしに運転させてもらえないかな?」
ミヅキはそういいながら、両手を顔の前で合わせて、全力のお願いポーズをとっている。
「いいけど、免許は持ってるの?」
「まだ、だけど。いま練習中なの。お父さんは、『ぶつけられたら困るから、俺の車はダメだ』っていうばかりで、あたしには練習させてくれないのよ。お母さんは、『ミズキのとなりに乗るのは、怖くて絶対無理!』っていうし。ヤマさんは免許を取って何年くらい経つの?」
「日本の免許なら十年以上経つけど、ここではいま何年くらいだろう? 三年くらいかな」
「じゃあ、大丈夫だね」
俺が考え込んでいると、ミヅキはうれしそうに声を弾ませながら、さっさと運転席側に回った。そして、手で向こうに行ってのジェスチャーをすると、「お邪魔しまーす」といって、俺を助手席側へ追いやった。
問答無用だ。
なんと強引な女の子だろう。やはり、海外暮らしが長いせいなのだろうか、この行動力よ。
「ほんとに俺で大丈夫なのかな?」
もし、警察に捕まったりしたら、嫌だしな。
「大丈夫だって、ヤマさんって意外と心配性なんだね」
ミヅキは顔と名前は間違いなく純日本人だが、中身はどちらかというと俺のイメージのなかでのアメリカ人そのものだった。
年齢の割にエッチが上手すぎるところもそうだし、遠慮というもののかけらもないところもそうだった。
こういったら、アメリカ人に思いっ切り失礼かもしれないけれど。
「しゅっぱーつ!」
ミヅキは軽く片手を上げて、元気よく、声高らかにそう宣言した。
「ミヅキ、お手柔らかにな」
俺は苦笑しながらもこういうしかなかった。
待ち合わせ場所の駅前から、ノースブリッジを抜けて、ハーバーブリッジを渡る。
ミヅキの運転には今のところまったく問題がない。
それどころか、もう何年も運転しているみたいに、発車も停車も驚くほどスムーズにこなしている。
見事なもんだ。
「上手だね、ミヅキ」
「ありがと、ヤマさん」
助手席に座ってのんびりと景色を眺めながらこの橋の上を渡るのは初めてだ。
なんか、すごくいい。
朝日に輝くオペラハウスを見ていると、ああ、ほんとうにシドニーに帰ってきたんだな、と感慨深い。
ダウンジャケットを脱いで運転しているミヅキの、白のセーターがこれでもかと膨らんだ、ピンっと尖ったロケット乳が目に入った。
ミヅキは運転に夢中で、そんな俺の熱視線も気にならないみたいだ。
ミヅキとの初めての夜を思い出した。
あの瑞々しく弾けるような白い肌。
しなやかに絡みついてきた長い手足が脳裏によみがえる。
何か月も女性の肌に触れていなかったせいもあったのだろうが、あの夜のミヅキはすごすぎた。
思い出すとまたそんな思いがむくむくと起き上がってくる。
「ヤマさん、そんなに見つめられたら恥ずかしいってば」
ハンドルを握ったまま、前に集中していたミヅキは、そういって唇を尖らせた。
「……ごめん、ごめん。あんまりミヅキの運転が上手いもんだから。見惚れてたんだよ」
こんなにジロジロ見続けられたら、誰だってさすがにわかるよな。
俺は女子高生をいったいどんな目で見ていたんだ……自分で自分が恥ずかしい。
穴があったら入ってそのまま出たくない。
「ヤマさん、どこへ行こうか?」
マーティンプレイスを通り過ぎて、タウンホールに近づいたとき、信号待ちをしていると、ミヅキはそういってやっと俺のほうへ顔を向けた。
「ミヅキの行きたいところでいいよ」
「うーん……どこへ行こうか」
信号が青になった。こちらふうにいうと、緑になった、というべきだろうか。
「だったら、ボンダイビーチに行こうか、ミヅキ」
「わかった。えーっと、こっちだね」
ミヅキはシドニーの街をよく知っていた。
「道をよく知ってるね。運転したことはないんだろ、ミヅキ」
「いつも助手席に乗ってお出かけしているからね。知ってるよ、それくらい」
お父さんか、お母さんにでも連れて行ってもらってるんだろう。
久しぶりにボンダイビーチを訪れた。
冬にここに来るのは、俺がホームステイをしながらボンダイジャンクションの英語学校に通っていたとき以来だ。
ホストマザーのミセス•テイラーは元気だろうか?
ビーチの駐車場に車を停めて、海に面したカフェに入った。
「あたし、クロワッサンが食べたい。たっぷりの苺ジャムとホイップクリームをつけて。頼んでくれる?」
「ああ、わかったよ」
俺よりも英語が流暢に話せるミヅキは、なぜか俺に頼ませたがった。
まあ、俺が男ということもあるのだろう。
俺もクロワッサンを頼んだ。
ハムとチーズのクロワッサンだ。なかに入っているベシャメルソースが堪らない。
飲み物はなにがいい? と訊ねると、ミヅキはさんざん迷ってオレンジジュースにした。
コーヒーはあまり好きじゃないという。
こんなところはまだお子ちゃまだ。
俺はカプチーノを頼む。
「ヤマさんって、シドニーにもうどれくらいいるの?」
「えーっと、いま四年くらいかな」
シドニーに降り立った、あの日を思い出した。あれからもうそんなに経ったんだな。
「そうなんだ。英語の発音が滅茶苦茶オーストラリアンだよね」
「そりゃそうだろ。だって、俺はここで英語を覚えたんだから」
自慢じゃないが、高校時代の英語の成績は惨憺たるものだった。
必要じゃない、と努力を怠ったものが、ある日突然、必要になることはよくあることだ。
「あたしのはどちらかというと、アメリカンイングリッシュなのよ。だから学校では地元の女の子たちから、話し方がクールだねってよくいわれるの」
彼女の発音は、オーストラリア人からは、カッコいいと思われているようだ。
「それはやっぱりここに来る前にハワイに住んでたからなのかな?」
「うーん、どうだろう。それもあるとは思うけど、ハワイは微妙に訛りもあるし。たぶん、アメリカの大学を出ているお父さんの影響が大きいと思う」
ミヅキはそういって、ジャムとクリームで濡れた唇を舌先でペロリと舐めとると、ナプキンを口に当てた。
このミヅキの仕草を、そんな目で見るとかなりエロい。
あの夜のミヅキを思い出した。
「じゃあ、次はどこへ行く? ヤマさん」
今日は一日中デートのつもりだったが、いつのまにかミヅキの運転練習の一日になりそうだ。
*
「今日はありがとね、ヤマさん。また、お店で」
「家まで送るよ」というと、ミヅキは、「朝に待ち合わせをした駅前で降ろしてくれる?」とそれを断った。
「俺も楽しかったよ、ミヅキ。また、練習するときはいつでも声をかけてくれ」
俺の邪な考えを見透かされたのだろう。ミヅキは、「家に来ないか?」という、俺からの再三にわたってのお誘いには耳も貸さなかった。
それから何度も、店が休みの日曜日には、日がな一日ミヅキの運転練習に付き合うことになった。
〈続く〉
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。
尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。
今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。