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短編小説『恋の轍 前編』

明美は小さなガラステーブルの上に置かれた骨壷の蓋を開けた。真っ白な骨に混じって少しピンク色をしたものもある。小さな骨片を親指と人差し指でそっと摘み上げた明美は、ゆっくりと口のなかへ入れた。

「苦い……」

舌の上で転がしながらその味を確かめる。
そして、恐る恐る奥歯で噛み砕く。骨はガリっと音を立てて口のなかで飛び散った。明美はむせそうになって、あわてて飲み込んだ。

「なに気取ってんの? まこと……」

遺影のなかの誠は、カメラに向かって斜めにポーズをとっている。明美が持っている誠の写真はこんなものばかりだった。
まっすぐ前を向いているものは一枚もない。

明美の目からとめどなく零れ落ちる涙は、頬をつたい、顎から滴り落ちて、スカートを濡らしていく。

「死んじゃったんだね。もう逢えないんだね、まこと……」



誠は明美にとってほかの誰よりも特別な存在だった。それは、単に誠が明美の初恋の相手だったからという理由だけではない。

明美が物心ついたころには、誠は当たり前のようにいつも明美のとなりにいた。
明美は誠をまこと兄ちゃんと呼び、誠は明美をあけみと呼んだ。
まるで、ほんとうの兄妹のように育った。

ふたりが生まれ育った故郷は、田舎といういい方が実にしっくりくる小さな村だった。
近所に住んでいた誠よりひとつ年下の明美は、必然的に誠と同じ小学校に行くことになった。
バスも通らない田舎道を、子どもふたりで手をつないで歩いて通った。

「まこと兄ちゃん、待ってよ! あたし、そんなに早く歩けない」

引きずられるようにつながれた手をぱっと離すと、明美はその場に立ち止まり、泣きべそをかくこともあった。

「あっ……ごめん、明美」

誠は本を読むのが大好きで、小学校の図書室からよく借りていた。普段、誠は明美の歩く速度に合わせて比較的ゆっくりと歩く。しかし、早く家に帰って本を読みたい誠は、本を借りた日だけは早足になった。

「まこと兄ちゃん、あたしもう歩けない」

誠よりからだの小さな明美は、誠についていくのが精一杯で、そういって畦道に座り込んでしばらく動けないこともあった。
そんなとき誠は、早く家に帰るのをあきらめると、明美のとなりに座って、自分が読んだ本のことを飽きることなく明美に話して聞かせた。

たぶん明美はこのときから、誠なしでは生きていけない運命を選んでいたのだろう。



「まこと兄ちゃんは、中学を卒業したあとの将来のことって、なにか考えてる?」

「将来のこと? そうだな、まだわかんないよ。母さんは、高校だけは出ておきなさいっていうけど、この村から通うのは大変だろ? 街に知り合いもいないし。じいちゃんは中学を卒業したら畑を手伝えっていってるし。けど俺はできれば街へ出て働きたいんだよ」

「もし、まこと兄ちゃんが街へ出るのなら、あたしはうれしいな。叔母さんのところに住まわせてもらって、高校に通うことになってるから」

「そうなんだ。そうなればいいな」

「うん、まこと兄ちゃん」

ふたりが通っていた小学校は、小中併置校だったため、一学年上の誠は、中学生になると、小学六年生の明美を自転車の後ろに乗せて同じ学校に通うようになっていた。

中学一年生になった明美は、両親から、「自転車で通学するか?」と訊ねられたとき、「まこと兄ちゃんが後ろに乗せてくれるからいい」といって、自分の自転車を欲しがろうとはしなかった。 

「誠くんが中学卒業したら、嫌でもひとりで自転車通学することになるのよ。そのとき明美はどうするの?」と母からしつこくいわれたが、明美は、「そのときになって考えるから、今は大丈夫だから」と頑なに断った。

小さいころから三輪車などに乗ったことがまったくなかった明美は、自分ひとりで自転車に乗るのが怖かった。
それに、誠の自転車の後ろの荷台は、明美だけの特等席でもあったからだ。
それで、そのまま誠の後ろに乗せてもらい通学していた。

そんなふたりを、「付き合ってるんだろ?」と冷やかす同級生たちもいた。

男の子も女の子も、お互いを強く意識し始めて、つい心にもないことをいってしまったりする思春期の真っ只中にいたふたりだった。

とはいうものの、誠にとって明美は妹のようなもの、そんなことを考えたことは一度もなかった。

しかし、明美は、そんな心ないことばにも内心悪い気はしなかった。



その日の夕方は、まだ日が高く、うるさいほどの蝉の鳴き声が、明美たちの村を覆い尽くしていた。

誠たちが中学校から帰ってくると、家の前で白衣姿の村の医師に頭を下げていた誠の母は、誠の姿を見つけ、大きく手招きした。

「どうしたの、母さん?」

「お義父さんが亡くなったのよ、誠……」

この日、誠の祖父の清は、畑仕事の最中に突然意識を失い、そのまま帰らぬ人となった。

急性心不全だった。

そのとき振り返った誠の顔は、明美をひどく驚かせた。

誠は笑っていた。

それは、明美がよく知っている無邪気な誠の笑顔ではなく、どことなく近寄りがたい陰湿なものを含んだ、今までに明美が一度も見たことがないものだった。



「この度は、ご愁傷様でございます」

その翌日、誠の祖父、清の通夜が行われた。代々続く農家が多いこの村のほとんどのひとびとは通夜が行われる清の家を、そういって次々と訪れた。

その日の弔問客は、明らかに通夜振る舞いを期待して来ていた。清が昔から馴染みの村人に、「俺のときは、精進料理みたいな辛気臭いものじゃなく、刺身やら寿司やら、上等の酒やビールなど、こんな田舎では滅多に口にできないものを振る舞うから、大いに食って呑んで、賑やかに俺を見送ってくれ」と折につけてそういっていたからだ。

そのことをよく知っていた誠の母の文子は、亡くなった義父の清が嘘つき呼ばわりされて恥ずかしい思いをしないようにと、知り合いに頼み込んで、清がみんなに約束していた通りに、料理やら酒やらを手配した。

「清さんは、若いころはハンサムで、この村の女の子たちはみんな清さんのことを好きじゃったもんな」

「男気があって、あんな性格のいいひとはなかなかおらんよ」

そういうこともあってか、気心の知れた村人同士だ。普段滅多に口にすることのない 食べ物、飲み物を肴に、故人の思い出話はいつまでも尽きることはなかった。

誠の母からしてみればたまったものではなかった。もう何時間かしたら、和尚に読経を上げてもらい、告別式、出棺、そして、車で一時間以上も村から離れた火葬場まで行かなければならない。そんな遅い時間まで弔問客の世話をしなければならなかったからだ。

「すみません、文子さん。あたしらはこの辺で失礼します」

遅くまで残っているのは男たちばかりで、女たちはみんな、少しばかり通夜振る舞いの料理に口をつけると早々と家へ帰って行った。

「あっ、酒がもうなくなったね。文子さん、すまんけどお願いできるかな」

「文子さん、こっちもいいかな」

「はい、今すぐお持ちします」

喪主の文子を気にかけ、手伝ってくれる者は誰もいなかった。気ぜわしく弔問客の世話を続ける、そんな母の手伝いを少しでもしようと、誠は眠い目をこすりながら、酒臭い男たちの間を行ったり来たりした。

「弔問に来てくれたみなさんには、くれぐれも失礼のないようにお願いしますよ、文子さん」

誠の母は、この村で唯一の親族である義父の妹の千代子には普段からよく思われていなかった。それは、千代子が清と文子の関係に気づいていたこともあった。それで千代子は、通夜の寝ずの番を手伝うこともなく、一緒に来ていた自分の息子夫婦たちにもあえて手伝わせず、早々に帰って行った。



火葬には文子と誠だけが参列した。

火葬場の煙突からゆらゆらと立ち上る白い煙を眺めながら、誠はこれからのことを考えていた。

やがて、中学を卒業する。

それからあとは、祖父が遺してくれた田畑を母と共に守り育てていくのか、それとも……。

誠の考えは定まらなかった。


「遅かったわね。何をしてたの、待ち侘びたわよ」

村から離れた火葬場で荼毘に伏された清の遺骨が家に帰ってくると、それを待ちかねていたように、千代子が息子夫婦、そしてまだ小さな孫ふたりを伴ってやってきた。

文子と誠、そして、集まった親族たちが仏壇に向かってお焼香をすませると、清の遺骨の入った骨蓋は居間のテーブルの真ん中に置かれた。

みんな順番にそのなかから小さな骨片をひとつだけつまみ出して、静かに口に含み、厳かに咀嚼した。

しかし、誠はそれを最後まで口にしなかった。

大叔母の千代子から、「食べなさい」と強くいわれても、頑として口にすることはなかった。

「ねぇ、お父さん、これなに?」

初めて目にする奇妙なものに、千代子の孫たちは手に取って、興味深そうに眺めたり、手のひらの上でコロコロ転がしたりして遊んでいたが、父親から「遊ぶんじゃない」と叱られて、半分泣きべそをかきながら小さな欠片を口に入れ軽く咀嚼したあと、あわててお茶で流し込んだ。

誠たちの村には遺骨を食べる習慣があった。それは、故人に対する愛情の証だとか、死者の魂を自分のなかに取り入れて、いつまでも故人を忘れないように一体化するためだ、などといわれていた。



誠の祖父の清が亡くなってからすぐに、誠の家は経済的に困窮を極めた。
清は、年齢のこともあり、数年前に始まったばかりの農業者年金に加入していなかったため、孫の誠に遺族年金が支払われることはなかった。

清のひとり息子で長男だった誠の父は、清と大喧嘩の末、家業の農家を継ぐこともなく、中学を卒業するとすぐに街へ出て工場で働き出した。

そして、数年後、そこで出逢った文子と結ばれ、その半年後には誠が生まれた。
誠が生まれて二年ほど経ったある日、車の自損事故が原因で、誠の父は、誠が物心つく前に亡くなっていた。
会社の車両ではあったが、自賠責保険しか加入していなかったため、誠たちに保険金が支払われることはなかった。
戦災孤児で身寄りが誰一人いなかった誠の母は、亡き夫の父親の清に頼るしかなかったのだ。


「これで、なんとか暮らしを立てなさい」

「ありがとうございます、千代子さん」

清が亡くなった後も農業を続けていた誠の母親だったが、今まで祖父とふたりでやっていた仕事をひとりでやるというのは大変な苦労だった。同じ農業を生業とする明美の両親がなにかと文子を気にかけて手伝ってはいたが、自分たちの田畑のこともあり、そこまでの手伝いはできなかった。

結局、文子は、今まで暮らしていた家を千代子に明け渡すことになり、その代わりにいくらかの金を握りしめて、街へ出ることになった。

誠が中学二年生、もう一週間もすれば新年を迎えるという、暮れの押し迫った、この地方には珍しい粉雪の舞い散るある寒い朝のことであった。



母と街へ来てからは、誠はその街の中学校に通い始めた。

明美が誠と再会したのは、明美が母の妹、叔母の家にやっかいになり、その街の高校に通い始めたころだった。
叔母夫婦には子どもがおらず、明美のことを我が子のように可愛がってくれた。

誠も同じ高校だった。

明美が手紙に書かれていた誠の住所を訪ねていくと、誠の母が笑顔で迎えてくれた。

「明美ちゃん久しぶりね。元気だった?」

明美から見た誠の母、文子は、田舎にいたころよりも、若々しく、綺麗だった。
文子は明美との久しぶりの再会を心からよろこんでくれた。

「久しぶりだな、明美」

約二年ぶりに見る明美の姿は、誠には少し大人びて見えた。

「まこと兄ちゃん、元気? 会いたかったよ」

ほんとうに久しぶりに逢えた誠の姿は、明美には別人のようにすごく大人に思えた。



「一緒に帰ろうよ、まこと兄ちゃん」

ふたり揃って、久しぶりに顔を出した文芸部の部室を出たあと、明美は誠に追いつくと、こういって声をかけた。

誠と明美は、文芸部の幽霊部員みたいなものだった。

明美は誠が暮らすアパートに学校帰りにしばしば立ち寄るようになっていた。
といっても、遅くなると叔母夫婦が心配するので、夕食前には必ず帰るようにしていた。

金曜日の今日は、叔母夫婦が、結婚記念日でとなり町のフレンチレストランへ出かけていた。

「明美も一緒に」と誘われたが、明美は、「ふたりきりで楽しんできてください」と頑なにそこは固辞した。

というわけで、明美はいつもより遅くまで、誠の家でふたりきりで過ごしていた。

「今日もおばさんはお仕事なの?」
「金曜日の今日は忙しいだろうから、帰ってくるのは、いつもよりかなり遅くなると思う」
「おばさん、大変だね」

文子は、昼は掃除の仕事、夜はスナックで働いていた。誠も朝は新聞配達、夏休みの間は、工場でアルバイトをして家計を助けていた。

「明美、この肘の傷は?」

セーラー服の夏服からのぞく、明美の肘の大きな傷跡を目にした誠は、驚いたように訊ねた。

「ああ、これ? これは、自転車に乗る練習をしていたときにできた傷だよ。派手に転んじゃって……」

「ああ、そうか。俺が突然いなくなったからな。なんか、ごめんな」

「ほんとだよ、なかなか乗れるようになれなくて、大変だったんだから。けど、冬休み明けまでには、なんとか間に合ったから全然大丈夫だったけど」

そういいながら、明美の脳裏には、自転車の後ろに乗って、誠と一緒に中学校に通ったあの懐かしい日々がよみがえった。

夏の夕暮れ、汗ばんだ誠のシャツから感じた、明美の心をくすぐる男の匂い。

「明美……」

「まこと兄ちゃん……」

ぎこちなく唇を合わせたふたりはごく自然にお互いを求め合った。
誠の右手が明美のスカートのなかへと滑り込む。
たどたどしくたどり着いた誠の指先は、若草で隠された明美の少し湿り気を帯びた窪みを探し当てた。

紺青の夜空に輝く満月が、明美たちを窓越しに優しい灯りで照らしている。

明美が高校一年生の夏休みのことだった。



「まこと兄ちゃん、元気でね」

「明美も元気でな。仕事が決まったら連絡するから」

誠は高校を卒業すると、都会へ働きに出た。誠の母の文子は息子を大学に行かせたいと願っていたが、自分のために働きずくめの母の負担を少しでも早く軽くしたかった誠は、無理をしてまで進学しなかった。

また、このころ文子には付き合い始めたばかりの男性、大村がいた。

「誠、これを持って行きなさい」

「母さん、これは?」

「誠のためにと思って貯めておいたの。そんなに多くはないけれど、少しは生活の足しにはなるでしょう」

誠名義の預金通帳だった。

「いや、これは受け取れないよ、母さん。母さんが使ってよ」

「大丈夫よ、誠。私のことはもう心配しないで、私には大村さんがついているから」

誠がアルバイトで稼いで、渡していた金銭に、文子は一円も手をつけていなかった。

住まいを決めた誠は、新聞に掲載されていたコック見習いの面接を受けた。
しかし、もらえる給料のあまりの少なさと、「ほんとに大丈夫か?」と説明され、何度も念押しされた調理場の重労働に、誠は、「すみません、僕には勤まりそうにありません」とその場で断った。

高校の普通科へ通った誠は、これといった技術を身につけていなかった。
見知らぬ土地の大都会へ出た誠が、手っ取り早く職を得られるのは、肉体労働か、水商売くらいのものだった。
誠は家の農業の手伝いもやってはいたが、どちらかというと体を使う仕事は苦手だった。

その帰り道。

繁華街を歩いていた誠は、ビルの入り口の壁に貼られていた一枚の紙にふと目を留めた。
見ると、バーテンダー見習い募集と書いてある。

「あの、表のバーテンダー見習い募集の張り紙を見たんですけど……こちらで合っていますか?」

誠は雑居ビルの地下一階にあるバーの扉を引き開けると、バーカウンターのなかで洗い物をしていた中年の男性に、恐る恐る声をかけた。

「君、何歳?」

自分の前のカウンター席に座るように、誠を手でうながしながら、男は優しく訊ねた。

このオーセンティックバーの経営者でマスターのマルは、誠の顔を一目みて、これはモノになる、と踏んだ。

「今年、高校を卒業したばかりです」

「……ということは、十八歳か?」

「はい、そうです」

ハキハキした返事もいい、見るからに真面目そうだ。
バーテンダーという職業は、仕事に対して真摯で、誠実であることが一番大事である。

「次の日曜日、午後四時頃にまたここに来てくれるか? そのときに、店で着る服と、そのほかに必要なものを一緒に買いに行こう。支払いは俺がするから、金の心配はするな」

履歴書にさっと目を通したマルは、誠になにも訊ねることなく、こともなげにそういった。

「えっ! 雇ってもらえるんですか?」

誠はまさかすぐに返事がもらえるとは思っていなかった。

「ああ、君に決めたよ。その代わり、やっぱり働けませんは、絶対になしだからな」

「はい、もちろんです。ありがとうございます」

「そうとなれば……」

マルは誠を先へうながしながら階段を一緒に上がると、ビルの入り口の張り紙を剥がした。

「じゃあな、日曜日に」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

誠は満面の笑みで何度も頭を下げた。

母の文子がスナックで働いてたこともあり、夜の仕事に対しての誠の印象は悪くはなかった。

誠は運がよかった。

マルはこの界隈では知らないものが誰もいないほど名の通ったバーテンダーだった。

店をオープンして二年目を迎え、最近とくに忙しくなってきたこともあり、見習いをひとり雇うことにしたばかりだった。

どうせなら、酒のいろはもまったく知らない、知り合いとかのしがらみのない若者を一から育ててみたい、と張り紙をして一時間も経たないうちにやって来たのが誠だった。

バーの開店前の準備は、いろいろと神経を使うことが多い。

店内の拭き掃除や掃除機がけはもちろんのこと、おしぼりを煮沸消毒して、冷蔵庫と、ホットボックスでそれぞれ別々に準備したり、花を活けたり、店のロゴが入った布製のコースターが十分に乾いているか、グラスは汚れていないか、在庫の酒の再確認をしたりなど、確認事項はかなり多い。

マルの店では、お客へのお釣りは、新札を渡すことにしていた。そのためには、三時までに銀行に行かなくてはならない。
銀行からの帰り道に、乾き物などの買い出しや、酒屋へも立ち寄る。

夜六時の開店に間に合わせるには、昼の二時には起きて、それらの準備にかからなければならなかった。

ここのところ睡眠不足がずっと続いていたマルは、誠をひとり雇うことで時間的にかなり余裕を持てることになる。
これで万全の状態でお客さまと向き合える。
マルはほっと胸を撫で下ろした。

「明美、どうしてここに残ってくれないの? 誠くんと一緒に住むなんて、どうしてそんな馬鹿なことをするのよ? 高校を卒業したら、こっちに戻ってくるって約束したじゃない。お父さんも黙ってないで何かいってください!」

「明美、おまえが誠くんのことを慕っているのは十分知っている。けどな、そんなことをすれば、おまえだけじゃなく、俺たちまで不幸になるんだ。それがわからないのか?」

「馬鹿なことなんかじゃないよ、お父さん、お母さん。あたしは不幸になんかならないし、どうして、お父さんとお母さんが不幸になるのよ? あたしはまこと兄ちゃんと一緒にいたいの!」


誠がバーテンダー見習いとして働き始めてから一年が経ったころ、高校を卒業した明美は、両親の反対を押し切って誠を追うように、ボストンバッグひとつを携えて都会へ出た。

「まこと兄ちゃん、今日からよろしくね」

明美はそういって、誠の住むアパートの八畳一間の畳の上に三つ指をついて深々と頭を下げている。

「明美、もういい加減にそのまこと兄ちゃんはやめてくれ。今日からは誠と呼んでくれないか」

「えっ、だめなの? 小さいころからずっとこう呼んできたのに、いまさら?……」

「その……なんだ、ほんとうの兄妹でもないし、もう恋人なんだし、さ……」

「恋人……」

明美はそのことばを聞いて、初めて自分が誠の恋人だということを認識し、驚いた。幼いころから誠は明美にとって一番身近な存在であり、明美の初めてを捧げた相手でもあったが、誠が自分のことをそんなふうに大切に思ってくれているなどとは、明美はまったく考えてもいなかったからだ。

明美のなかでは、誠と一緒にいることは、ほかの誰かと一緒にいることよりもごく自然なことだった。

〈続く〉



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鯱寿典
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