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短編小説『たんたんと』後編

「湊人、お帰り。学校はどうだった?」

「別に......」

「なんだ、湊人。母親に向かってその言いぐさは!」

湊人は祖父の言葉に振り返りもせず、二階の自分の部屋に上がっていきます。

「湊人っ!待てっ!」

「お父さん、ごめんなさい。今はそっとしておいてあげて」

「あれは本当に湊人なのか?信じられん」

小さい頃は、じいちゃん、じいちゃんと、かまってちゃんだった、湊人のあまりの変貌ぶりに、艶子の父、雄三は自分の目が信じられませんでした。

あの日の事故以来、湊人がこうなってしまったことを、この家に戻って暮らし始めるまで、雄三に伝えられていなかった艶子なのでした。

「海音......」

ベッドの上に横になって、湊人は海音のことを考えていました。



学校の昼休み。海音、葵、和美の三人は、仲良く机を並べてお弁当を広げています。

「海音のお弁当、いつも美味しそうだよね」

そういいながら和美は、通学途中にコンビニで買った菓子パンをパクついています。

「だって街でも評判の洋食レストランの看板娘だもの。美味しいもの食べ放題だもんね」

「やめてよ、葵。その看板娘って」

「明るい、可愛い、優しい。三拍子揃ったいい娘だって評判だよ」

「いったい誰がそんなことをいってるの?」

「私の兄貴」

葵には年が7つ離れた兄がいます。

「どう?私の兄貴、海音のこと好きみたいだけど」

「......」

どう答えればいいのか分からず、海音は俯いています。

「ごめん、海音。冗談よ。馬鹿兄貴のことなんか気にしないで。
あいついい大人なのに、海音をそんな目で見るなんて変だから」

そういうと、海音の卵焼きに箸を伸ばしました。

「あーっ!わたしのーっ!」

「海音んちの卵焼き大好きっ!これあげるって。海音、好きでしょう?タコさんウィンナー。トレード、トレード」

葵は海音の弁当箱に自分のオカズをポンっと置きました。

そんなやり取りを、近くの席でひとりきり、母親に持たせてもらったお弁当を食べていた湊人は、優しいまなざしで見つめていました。

海音がその視線を感じ、ふと見やると、湊人と視線が重なりました。

湊人はバツが悪そうに顔を背けます。

それに気づいた和美が、海音をにらみました。

「海音!わかっているよね。わたしが先に唾をつけたんだから」

和美はいったいいつの人なのでしょう。唾をつけただなんて、バッチイ!

「......わかってるって。そんなんじゃないの。ただ......」

「ただ、何?」

「......ううん、何でもない」

「えーっ、海音。気になるじゃん。教えてよ」

「ハイハイ、和美。もうやめときなよ。海音、困ってるでしょう」

「だって。わたしの......」

「彼は、和美のものでも、誰のものでもありませんっ!たぶん、未来のわたしの......エヘヘヘっ、照れるなぁ」

「そっちこそ。ひとりで夢見てなさいよ!」

「なんだって!」

和美と葵が立ち上がろうとしたところで、海音が二人をとめました。

「ふたりとも。みんな見てるって」

まわりのみんなはいったい何事かと三人に注目しています。

それに気づいてヤバいと思ったのか、「だから、〈ナイトさま〉はみんなのものなのっ!」

和美は最近人気の乙女ゲームの主人公の名前をだしてごまかします。

「エヘヘヘッ、ごめんみんな。大声出しちゃって。つい熱くなっちゃって」

みんなは、な~んだと興味をなくして三人から視線を戻します。

「ふたりともいいかげんやめてよね」

「ごめん」
「海音、ごめん」

海音の語気の強さに青菜に塩、すっかりしょげた、葵と和美なのでした。



午後の体育の授業はバスケットボールです。

女子のコートのとなりでは男子がプレイしています。

湊人はいかにもやる気がなさそうにただ突っ立っています。
そこに健太がボールをまわします。

ボールは、受けとめようともしない湊人の胸にあたって、床に落ちました。

「おい、おまえ!やる気あんのかよ」
「放せよ。やってらんねえ、こんなの」

湊人は肩をつかんだ健太の手を払いのけると、

「コートに戻って」と怒鳴る体育教師を尻目にその場を去ろうとします。

「だから、待てって言ってるんだよ」
「ドカッ」

健太の拳が湊人の左の頬に入りました。

その衝撃で、あらわになる湊人の額の傷。

「きゃーっ!」という女子たちの悲鳴の後に、みんなその額の傷に息をのんだのか、あたりは静まり返っています。

葵と和美も顔を見合わせます。

「あの傷......」

海音の記憶のなかの、みなとの姿が鮮明によみがえり、目の前の湊人と重なりました。

「みなとくん、湊人くんだ」

床に座り込んだ湊人と健太の間に教師がわりこみ、健太をとめます。

「やめるんだ、ふたりとも」

健太は湊人のその傷を見て呆然と立ち尽くしています。

15時45分過ぎ、掃除が終わった海音は、帰ろうとする湊人を呼びとめます。

「八島くん。ちょっと話できる?」

「何?」

「八島くんって、あの、みなとくんだよね?」

「君は......瀬戸内さんだったっけ?」

「覚えていない?小さいころあの海で会ったよね」

「......」

「そうだよね。みなとくんだよね?」

「ああ、そうだよ。みおちゃん」

「あれから、すごく心配していたんだ。良かった」

「何が、良かったんだ!こんな傷が残って、いったい何が良かったって」

「......ごめん。その傷って、わたしが遊ぼうって誘ったせい?」

「......」

そんなことは、水上バイクを操縦していた奴以外の誰のせいでもないことは、湊人は充分過ぎるほどわかりきっていました。

「なんとかいってよ!」

「ああ、あのとき君が海に誘わなければ、こんな傷は負わずに済んだんだ」

そういい残すと、教室に残っていた他の生徒たちの視線のなか、逃げるように教室から去っていきました。

掃除が終わった頃かな、と海音を迎えに戻ってきた葵と和美が、床にへたり込み、泣きじゃくっている海音を見つけると駆け寄ります。

海音、葵、和美の三人は、たい焼き屋の一心に来ていました。

海音はまだ泣きじゃくっています。

いったいどうした?と驚きの色を隠せない鉄は、お持ち帰りの客の相手をしながらも、気が気でなりません。

「だから、何があったの?海音」

葵の言葉にうまく答えることができない海音なのです。

あの海での事故のとき、健太たち仲良し三人組はその場にいたのですが、葵と和美はそこにはいなかったのです。

「ひっく......湊人くん......ぐすん......海音の知り合いだったの.....」

「えっ!どういうこと?」

「5年くらい前の...海での水上バイクの事故、覚えてる?」

「え~っと、あっ!海音が一緒にいた男の子が巻き込まれた、あの事故?」

「そう......あのときの男の子が湊人くんだったの」

「えっ!ということは、あの傷はそのときの?」

「そう......」

鉄と何やら話し込んでいた、たい焼きのお持ち帰りの客が三人に話しかけました。

「こんにちは、お嬢さんたち」

「こんにちは」

「今、湊人のことを話されていましたよね。もしかしたら、湊人と同じクラスの方たち?私、八島といいます」

「湊人くんのお母さん?」

三人は艶子を見上げます。

「この娘たち、艶ちゃんの息子さんと同じクラスなんだ?」

鉄が会話に割って入りました。

「叔父さん、湊人くんのお母さんと知り合いなの」

和美が驚いた様子で訊ねます。

「ああ、俺と艶ちゃんは昔からの友だちだ」

和美は、艶子と鉄の顔を交互に見ると、鉄に訊ねました。

「もしかして、元カノ?」

「うん、そうだったら良かったんだが、違う。告白して、玉砕したクチだ」

「よして鉄ちゃん。そんな冗談」

そのことばに苦笑いすると、艶子は海音たちに真剣な眼差しで訊きました。

「湊人は、学校で何かしでかしたんですか?教えてください。湊人は自分のことを、何も話してくれないんです」

海音は、今日初めて湊人があの〈みなと〉だということを知ったこと。そして、心無いことばをいわれて泣いていたことなどを素直に話しました。

艶子は、目にいっぱい涙を浮かべて、何度も海音に謝りました。

「そうなのね。あなたがあのとき湊人を助けてくれた娘さんなのね。お礼もきちんとにいえずに申し訳ありませんでした。あのときは本当にありがとうございました」

そう言うと、深々と頭を下げました。

艶子は、湊人に謝らせる、と海音を家まで連れてきていました。

「みなと、湊人、いるの?出ていらっしゃい」

家に帰るなり、大声で自分を呼ぶ母親の声に、いつもと様子が違うことを感じとった湊人は、慌てて二階の自分の部屋から降りてきました。

そして、そこに海音の姿を見つけると一瞬、固まりました。

「湊人、母さんは今日ほど湊人に失望したことはありませんっ!」

湊人は階段の途中で未だに身動きできず、固まったままです。

「あなたを助けてくれた海音さんに何てことを言ったの?」

海音は黙って下を俯いています。

「海音さんが湊人にいったい何をしたというの?答えなさい」

湊人は、階段を下まで下りると、艶子の目を見て、

「そんなことはわかっているよ。あの事故は彼女のせいじゃないなんてこと......」

消え入るような声でいいました。

「だったら、何故、あんなことをいったの?」

「怖かったんだよ。彼女に声をかけられたときに泣き出しそうだったから......」

母親の剣幕に恐れをなして、湊人は本心を語りだします。

「彼女にまた会えたとき、本当は、あのときのお礼を言いたかったんだ。何度か声をかけようと思ったんだ。けれど、いまのこんな俺を見て彼女がどう思うんだろうか?
情けない奴、暗い奴。
額の傷を見てバケモノと思うんじゃないだろうか?
そう思うと声をかけられなくて......」

いつの間にか湊人の目には、涙が溢れそうなくらい浮かんでいます。

海音は真っ直ぐに湊人を見つめています。

「本当は、ありがとうって言いたかったのに......」

湊人の目から涙が溢れだし、頬を伝ってぽろぽろと床に落ちました。

艶子はそっとハンカチで湊人の涙を拭います。

「......海音ちゃん、ごめん。さっきはあんなこと言って。本当にごめん」

湊人は涙で顔をクシャクシャにして、海音に頭を下げています。

「海音さん、湊人を許してくれる?」

「はい。本心を聞けて安心しました。さっきまで本当にどうしたら良いのか何もわからなくて」

海音は、安心した表情でコクりと頷きました。

「良かった。ありがとうね。湊人のことを許してくれて」

艶子はそういうと、湊人の両肩に手を置き、強い口調でいいました。

「もう外は暗いから、湊人、海音さんをお家まで送り届けなさい」

「そんな、大丈夫です。私ひとりで帰れますから」

海音は恐縮して、かぶりを振っています。

「どこに変な人がいるか分からないから。こんな時間の女の子のひとり歩きは危ないから。さあ、湊人。いってらっしゃい」

海音のことばを制して、艶子は湊人に強くいい放ちます。

「ちょっと待っててくれる」

そういうと、湊人は急いで二階の自分の部屋に駆け上がると、すぐに下りてきました。

「ごめん、おまたせ。じゃあ、行こうか?」

湊人は靴をひっかけるように履くと、玄関を開けて海音に声をかけました。

「じゃあ、母さん。送ってくるから」

海音も、艶子に「失礼します」
ペコリと頭を下げると後に続きます。

通りの両側の桜は散り始めていました。

坂の上にある湊人の家から、海沿いの道にでる裏通りの曲がり角、薄暗がりの中に、ひとりの男が立っていました。

葵の兄です。

海音は会釈をします。

葵の兄は、海音に会釈を返すと、怪訝な目で一緒にいる湊人を睨むように見つめています。

「変な人いた......」

その視線に気づいた湊人はぼそっと呟きました。

「......ぷっ、やめてよ。葵のお兄さんだって」

海音に肩を軽く叩かれた湊人は、すこしよろけました。

「やめてよ、そんな大げさな」

海音の顔には笑顔が弾けています。
湊人も悪戯っぽく微笑んでいます。

この会話をきっかけにふたりの間に流れていた気まずい雰囲気はすっかりなくなりました。

「これ、俺の宝物」

湊人がそういって海音の前に差し出したものは、あの日、父親があの海で撮ってくれた一枚の写真でした。

写真の右側から、大きな口を開けて叫びながら、母、艶子と仲良くならんで満面の笑みを浮かべている湊人に突進してくる海音が写り込んでいました。

街灯の薄明かりの下でも、海音の顔がはっきりと見えます。

「これって......わたし?」

「そう、あのときはありがとう。助けてくれて」

「湊人くん、死んじゃうんじゃないかって、心配してたんだ」

「簡単には死なないさ。こんなバケモノにはなったけどね」

そういうと湊人は前髪を上げて海音を覗き込みます。
その声は明るく優しい口調でした。

「ちょっと見せて」

海音はそういって、湊人の額の傷をしばらく見つめたあと、湊人の額に軽くキスをしました。

「全然可笑しくないし、醜くなんてない。湊人くんみたいに超イケメンは、他の男子にこれくらいのハンデをあげてもお釣りがくるよ」

そういって笑う、海音の屈託のない笑顔をみた湊人の胸は、あの海で初めて海音に会ったときのように、また「トクン」と鳴りました。

湊人と海音は、いつの間にかあの海の前を歩いていました。

海音の家へはこの海岸通りを通ります。

満月のやわらかな月明かりの下で、その海は、あれほど湊人が忌み嫌い避けてきた、悲しい記憶を呼び起こす、あの冷たい海ではもうありませんでした。

湊人の心のなかには、あのボート事故の直前、海音と一緒に見た、どこまでも抜けるような青い空が広がっています。

よせては返す心地よい波の音が、海音の優しいことばたちと共に、湊人の心のなかに染みこんでゆきました。





翌日、朝イチの教室では、湊人にすまなかった、と何度も頭を下げる健太の姿がありました。

海音が艶子と去ったあと、ラジ娘のあだ名を持つ和美は、湊人があのとき事故に遭った少年だということを、健太やクラスの何人かに伝えていたのです。

こんなときにはすごく役に立つ和美です。普段はおしゃべりが過ぎますが。

湊人は、いままでは覆うように額の傷を隠していた前髪を、自然な感じに横へ流していました。

「湊人くん、おはよう」

海音が元気に声をかけます。

「おはよう!海音ちゃん」

湊人も笑顔で返します。

そんなふたりのやり取りを見た葵と和美は顔を見合わせています。

「こうなるような気はしてたけどね」

葵はすこし寂しそうです。

「もともと、海音とは勝負になんてなんないって」

和美がすかさずいい放ちます。

「なんてったって、明るい、可愛い、優しいの三拍子そろった看板娘だからっ!」

「だよね~っ!」

海音がその声にふり返りました。

「なになに?どうしたの?」

「末永くお幸せに、おふたりさん」

そういう和美はすこし悔しそうです。

葵と和美は湊人に視線を移すと、

「逃した魚は......」

そう声を合わせていうと、大笑いしています。

「残念っ!葵」

「そっちこそ!和美」

そんなふたりを気にも留めず、海音と湊人は、すーっと寄り添うように近づきます。

ふたりの顔には、眩しいほどの笑顔が光り輝いていました。




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