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短編小説 『waving 再会 』前編

ふるさとでの、あの夏の日の母との別れから、五年の月日が流れていました。

昭人は、高校三年生の夏休みを利用して、母の喜和子と再会するために、ひとりで寝台特急はやぶさに乗り、東京上野駅に到着しました。時刻は、朝九時三十分過ぎです。

人の波にもまれながら改札口へと向かいます。外に出ると、右手を軽く上げて微笑みを浮かべ、
「昭人!」と呼びかける、懐かしい母、喜和子の姿がありました。

今日の母の姿は着物でした。
あの水色のワンピース、白い靴、麦わら帽子の装いの都会的な美しい人ではありません。

それでも、その人目を引く容姿は大勢の人々の中、昭人が喜和子を見つけるのには十分過ぎるほど十分だったのです。

久しぶりに見る我が息子、昭人の姿を見つけると、瞳に涙をいっぱい湛えて、あいさつもそこそこに、喜和子は思いっきり昭人の体を抱きしめます。

昭人は、五年前とは比べものにならないくらい、背丈も伸び、真っ黒に日焼けしたその体が、たくましさを際立たせていました。

「大きくなって......疲れたでしょう?すこしは眠れた?」

 母に連れられて、人混みの中、東京上野駅を後にします。

昭人にとっては見るもの全てがもの珍しく、これが都会というものなのか、と圧倒されっぱなしでした。

駅を出てバスに乗り換え、二十分ほど揺られると、喜和子の住む町に着きました。

今日は日曜日。お昼前に喜和子の家に着きました。
実の父、深谷哲男の勤めていた田舎の工場の元同僚で、喜和子の幼なじみ、今は夫の寺島俊也が玄関先で待っていてくれました。

俊也が声をかけます。
「よく来たね。初めまして、昭人くん」

そのとなりで、俊也のうしろに隠れるように、仏頂面で軽く頭を下げる、背中まで伸びた黒髪、目鼻立ちのはっきりした可憐な少女が、ふたりの一人娘、響子でした。

昭人と五歳違いの十三歳、中学一年生でした。

「初めまして、響子です」と、呟くようにあいさつをします。

喜和子の夫の俊也は、昭人の訪問を心の底から喜んでいました。

喜和子は本当に幸せな気持ちで満ち足りていました。

しかしその一方、二人の一人娘、響子は、心中穏やかではありませんでした。

突然現れた、見知らぬ義理の兄と名乗るこの男に、母を奪われそうな気がしていたのです。



お互いにあいさつを済ませると、

「おまたせ」喜和子がそう言って、テーブルの上に並べてくれたのは、オムライス、ポテトサラダ、とん汁でした。

黄色い玉子で楕円形に包まれたチキンライスの上に、赤いケチャップが色鮮やかです。

昭人は、その赤に瞳を奪われました。

食事中、俊也はいろいろと昭人に気を使い、進んで話しかけます。

そのどれもが、当たり障りのない、学校での事とか、来るときに見た東京の景色とか、寝台列車の中での事とかについてのものでした。

喜和子は、時折会話が途切れた時に、口を挟む程度でした。

響子は、一言も話さず黙々と食事を続けています。

昼食が終わると、母、喜和子は、昭人に、すこしの間体を休めるように言いました。

昭人は、別室に用意されていた布団にからだを横たえます。
若いとは言え、十七時間にもおよぶ長旅でした。

昭人はいつの間にか深い眠りに落ちていました。

「あきと、昭人」優しくささやく母の声で、昭人が目を覚ました時には、夕食の時間になっていました。

居間に行くと、俊也と響子は座って待っています。

「すみません、すっかり眠ってしまって」昭人が申し訳なさそうにそう言うと、

俊也は、「ぐっすり眠っていたみたいだね。さあ、座って」と、真向かいに、喜和子と一緒に座るように促しました。

「昭人くん、遠慮せずにいっぱい食べなさい」

今夜の夕食は、『すき焼き』でした。
俊也が、高級な牛肉を思いっきり奮発したのです。

熱心に勧めてくれる俊也の優しい口調に、今は亡き父との違いを感じながら、昭人は照れくさそうに小さく頷きました。

その光景を、うっすら涙を浮かべた瞳で見つめる喜和子は、十五年という長い年月、失われた日々を垣間見ていました。

そんなやり取りを横目で見ながら、うつむき加減に一人黙々とすき焼きを口に運ぶ響子は、なぜか苛ついていました。

明人の顔を盗み見た響子は、「綺麗な顔をしている」と、母の面影をその中に見つけてしまったのです。

喜和子が昭人にご飯のおかわりをうながします。受け取った茶碗によそいながら、

「源三さんはお元気?」と、会話をつなげます。

話はもう八十歳を超えた、源三の話題になりました。

響子はそんな会話には全く興味を示さず、ひとり黙々とすき焼きを口に運んでいます。

ここ二、三年ほど源三は、以前みたいな雷親父の典型みたいな物言いをしなくなり、体の方もすっかり弱り、毎日を騙し騙し生きながらえているようでした。

一緒に戦地から無事に帰ってきた友人で、同じ町で温泉旅館をやっている男友達と、一週間に一度その旅館の湯船につかり、その後、二人で将棋を打つことを楽しみに日々を暮らしていると言います。

源三は、自宅の裏庭にあるかなり大きめの畑で、自分たちの食べる野菜を育てています。

田舎なので、その野菜と魚や雑貨などを友人同士で物々交換し合っています。

性格も見違えるほど静かになり、昭人は怒られることはほとんどなくなっていました。
腰が悪いのは相変わらずでした。

昭人の今回の東京行きは、実は、源三の熱心な勧めに寄るところが大きかったのです。

源三もいい歳です。いつ死んでもおかしくはありません。ならば、その前に喜和子につなぎをつけておきたい、という思案がありました。

昭人が東京にいる間の一週間、源三の兄、吉次の娘、さつきが源三の世話をしてくれます。





夕食が終わると、昭人は風呂に入るようにすすめられました。

風呂場の引き戸の外側から、喜和子が声をかけます。

「昭人、熱くない?」

「母さんちょうどいいよ。ありがとう」

昭人は、「母さん」と呼ぶのが、未だに照れくさそうでした。

大黒柱の俊也を差し置いての一番風呂でした。



俊也は喜和子と二人で逃げるように、自らの故郷を捨て、東京にやって来ました。
最初の頃は、二人とも本当に苦労しましたが、今ではこの地に、借家ではありましたが、立派に居を構えていました。

俊也は、向島の機械工場で働き、喜和子は、家の近くの料理屋で、仲居の仕事を週の内何度かやりながら、家計を助けています。

「チリンチリン、チリンチリン」

軒下の風鈴が、庭の木々の葉を揺らしたやわらかい風に、その音を響かせています。

風呂上がりに出された麦茶を飲みながら、昭人は母と居間に二人きりになりました。

俊也は風呂に入っています。

響子は自分の部屋に戻っていました。

母と二人きりになった昭人は、あの五年前に別れた後の話をしていました。

源三が昭人に話したと言います。

俺もあんな風に喜和子のことを罵ったが、悪いのは自分の息子、哲男だったと。

哲男が喜和子を酔った勢いで、殴る蹴るをしているその現場を、源三は一度も見たことがありませんでした。

しかし、喜和子の泣きはらした顔や、腕からのぞく痣には気付いていたそうです。

源三は、何度もその事を喜和子に聞こうとしましたが、なにぶん源三も昔気質の人間、夫婦の問題に自分が口を出すことではないと思ったらしいのです。

源三が言うには、喜和子は自分についぞその事を言い出すことができず、聞いてもやれず、可哀想なことをした、と涙を溢したそうです。

もし、喜和子が義理の父である源三に相談した事が哲男にバレてしまえば、
もし、源三が哲男を直接いさめる様なことがあれば、
余計にひどい目に遭わされるかもしれない、と思っていたんだろう、と。


源三が腹を立てていたのは、
「何故、昭人も一緒に連れて行ってやらなかったのか?」
その一点だけだったらしいのです。

俊也と喜和子が二人の故郷を捨て、東京へと向かった時には、それこそ着の身着のままだったのです。

それゆえ、喜和子は昭人を連れて行くことができなかったのです。

東京に来て二年後、やっと生活の目処がついた頃から、喜和子は、哲夫に何度も何度も手紙を送り、昭人を引き取りたいと申し出ていました。

意外にも哲男は、喜和子が家を出て行ったあと、一か月ほどして送られてきた離婚届は、すぐに出したと言います。

なぜかと言うと、一重に世間体でした。何しろ狭い町です。女房に逃げられたなどと知られてしまえば、格好が悪過ぎたのです。

しかし、哲男のほとんどの友人たちには、その真実はほどなく全てバレてしまいましたが。

その喜和子から送られてきた何通もの手紙は、喜和子の意思は、全て、哲男が握りつぶしていました。




夜風が軒下の風鈴を揺らします。

「チリンチリン、チリンチリン」

風呂から上がってきた俊也、いつのまにか部屋から居間に戻ってきていた響子、喜和子、昭人の四人は並んで縁側に座りました。

俊哉と昭人、貴和子と響子の間にはお盆に盛られたスイカが置かれています。

群青色の夜空には、本当に絵に描いたような満月が光り輝いています。

誰も食べようとしないのを見かねて、俊也が最初にスイカにかぶりつくます。

「うん、甘い。美味しいなあ。さあ、昭人くん遠慮しないで」

そう言うと、俊也はスイカの種を「ペッ、ペッ」と、庭に吐き捨てました。

喜和子は、突然の、夫らしくないこの行動に、
「この人は気を使ってくれている」
心の底からその気づかいが嬉しかったのです。

「さあ、昭人くん。君もやって」

すると、喜和子のとなりの一番端に座って、ついさっきまでおとなしくしていた響子が勢いよく、

「ぺっぺっぺっ」と、スイカの種を飛ばしました。

昭人もそれに続きます。

それを追いかけるように喜和子も続きます。

俊也の家の隣家では、夕涼みをしていた老夫婦が、垣根越しに聞こえてくる耳慣れない物音に首を傾げていました。




夜も更けて、そろそろ就寝の時間になりました。

喜和子と昭人は、今夜はこの居間にふたりならんで布団を敷いて寝ます。

母、喜和子は、この十五年の間の自分が故郷を捨ててから過ごした時間、出来事を、昭人に話して聞かせます。

息子、昭人も、父のこと、源三のこと、学校のこと、そして、五年前に母と別れて、自分がいままでどのように過ごしてきたのか等、こと細かに話しました。

そして、あの河原での話になりました。

喜和子には、故郷にひとり置き去りにした、二歳の頃の面影しかなかった我が子を、あの河原で初めて見た瞬間、十年もの間、離れ離れになっていた昭人だと直感的に理解できたことに、あとから自分自身が本当に驚いていました。


昭人が、あの河原で初めて出会った、遠くから手を振って何かを叫んでいた女性。
間近で見た女性、その人は、ここら辺りでは見かけない都会の雰囲気を纏った美しい人でした。
そのひとが、昭人の母、喜和子でした。


二人の会話は五年前のあの黒いトンボ、
神様トンボの話になりました。

『本当に綺麗だった。あの黒いトンボ』

二人は同時に、あの時の光景を思い浮かべていました。

あの時、ふたりの心の中に、初めて親子の情愛が芽生えたのです。

続く

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鯱寿典
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