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『サザンクロス ラプソディー』vol.38

誰かに見られている気がして、振り返ると、ウェイトレスのミヅキと目が合った。
しかし、彼女はすぐに視線を逸らした。

ミヅキは俺が〈garasya〉を辞めて、イギリスへ旅立ったあと、すぐにこの店で働き始めたアルバイトの高校生だ。
話しかけられることもなく、こんなに何度も見られているとなんだか落ち着かない。

「それで、ユウカとは向こうで会えたのか?」

村岡さんはこれが一番訊きたかった話みたいだ。

「いいえ。結局、彼女はイギリスには来ませんでした。それに、ロンドンから電話をかけて一度話したっきり、そのまま連絡も取れなくなったんで、いってみれば自然消滅ってやつですよ」

この話をするたびに俺は憂鬱な気分になる。自分では過ぎたことだと割り切っているつもりでも、心の奥底ではまだ引きずっているんだろう。

「そりゃ、残念だったな……」

村岡さんはうれしそうに顔を綻ばせた。俺がユウカとそういう関係だったと初めて知ったときの村岡さんの羨ましそうな顔を思い出す。

復帰初日で、久しぶりに立つ〈garasya〉の厨房は、俺を自分の居場所に帰ってきたような、なんかほっとした気持ちにさせた。

「今日は久しぶりに飲みにいくよ。もちろん、俺の奢りだ。みんな来るだろ?」

加茂下さんが音頭を取って、こうやってみんなを誘うのは初めてのことだった。名目は、俺の復帰祝いということだったが、実際は、加茂下さんが最近ご執心の、カラオケクラブのホステスに会いにいくためだった。
奢りというのも、太っ腹なところを見せたい、という加茂下さんのそのホステスへのアピールに違いない。
村岡さんがこっそりそのことを教えてくれた。
なぜかというと、俺が加茂下さんの邪魔をしないようにと、前もって教えてくれたのだ。

村岡さんもツグミと同じように、俺が女性に手が早いと思っているようだ。
自分ではそうは思わないけど。

村岡さんの話によると、俺がいなくなってからすぐに、店の近くにカラオケクラブができた。

そこは以前俺が働いていたフレンチジャパニーズレストランだったところだ。
なかなか、買い手が見つからなかったため、オーナーのユキさんが、今は知り合いの日本人のアツシさんに貸している。

もともと、カラオケの機材も、麻雀卓もそこにはあったから、日本人をターゲットにしたカラオケクラブをそのアツシさんが始めたのだという。

そこのホステスのジェシカというオーストラリア人に加茂下さんはいまご執心なのだという。

奥さんがいるのに。

遊ぶのはいいが、本気はダメでしょ、それは! と思うのだが、まあ、大きなお世話だろう。 
というわけで、俺はそのジェシカとはあまり接触しないように細心の注意を払うことにした。

酒の席だから、アルバイトで高校生のミヅキは来ないものだとばかり思っていたら、いつの間にか俺のとなりに座っていた。
他のウェイター、ウェイトレスのふたりは用事があるらしく先に帰ってしまった。

「大丈夫なの? 君ってたしかまだ高校生だよね。未成年の飲酒はダメなんじゃないの?」

「そうなんだ、知らないんだね。日本と違って、オーストラリアでは、十八歳からお酒は飲んでいいんだよ。わたしって親の都合でいろんな国に行ったものだから、実は一年ダブってるのよ。だから、今度の誕生日で十九歳なの」

「でも、君って高校生だよね。お酒の席にいるだけでもまずいんじゃない?」

「それは大丈夫だよ。だって、飲まないから。それに、お酒はあんまり好きじゃないし」

好きじゃないってことは、飲んだことはあるんだよな、きっと。
けど、もし彼女が国籍的に日本人なら、海外にいたとしても、法律的には飲酒はダメだよな……なんてことを考えていたら、ミズキに二の腕をつねられた。

「痛っ!」
「ヤマさんって呼んでいい?」

ミヅキは自分でやっておきながら、まるで『痛いの痛いの飛んでいけー』みたいにつねったところを優しくさすって息を吹きかけている。

「みんなからもそう呼ばれているから、もちろんいいけど」
「あたしのことはミヅキって呼んで、ヤマさん」

店で何度も目が合ったときに、すぐに視線を逸らした彼女のあの態度はいったいなんだったんだろう? 俺にはまるで興味がなさそうだったのに、この距離の詰め方はあまりにも早すぎる。

「ああ、わかったよ」
「ヤマさん、なんか歌ってよ」
「いや、今日はよしとく」

そういって、ジェシカを相手に思いっきり鼻の下を伸ばして上機嫌の加茂下さんに目をやった。

仕事をしているときの生真面目な顔とはまったく雰囲気の違う加茂下さんは、彼女の気を引こうといろいろな話を振っている。しかし、ジェシカは適当に相槌を打つばかりで、隙を見てはからだを寄せにくる加茂下さんからは、ある種の壁を作っているようだった。

「今日の主役は俺じゃなくて、加茂下さんだから……」

俺のその言葉にミヅキは気づいたらしく、加茂下さんに視線を向けると軽くうなずいた。

「ヤマさんってこの前までロンドンにいたんでしょ?」
「うん、そうだよ」

そのことはミヅキに直接話したことがないのに、なぜか彼女は知っていた。

「あたしは親の仕事の都合でいろんなところへ行ったけど、ロンドンにはまだ行ったことがないな」
「そうなんだ。たとえばどんなところに行ったの?」
「うん、バンクーバーでしよ、それからハワイでしょ、そしてここ、シドニー」

ミヅキはその場所を思い浮かべるかのように、ゆっくりと指折り数えた。

「それで、ミズキはどこが一番住みやすかったの?」
「みんな住みやすかったけど、やっぱり一番はハワイかな」

ハワイか……俺も一度くらいは行ってみたいものだ。ビーチで戯れるビキニ姿の八頭身の金髪美女たちが頭に浮かんだ。

「そうなんだ、ハワイのどんなところが、よかったの?」

「シドニーもそうだけど、ビーチがきれいだし、日本人のスタッフがいるお店が多いから、言葉に苦労することもなかったし、なんといっても温暖な気候かな。あたし、寒いの大の苦手だし。それに、ハワイって世界的に有名な観光地でしょ。街中がリラックスムードでのんびりしている感じだったから、あたしには合ってたみたい」

ミヅキはよく笑い、よく話す女の子だった。屈託のない可愛い笑顔は、さすがはティーンエージャー。見るものを幸せな気分にさせる。

「それより、ヤマさんのことをもっと教えてよ!」

ミヅキは声を弾ませて、身を乗り出してきた。

「俺のことって?」
「えーっと、付き合ってる彼女とかいるの?」

それを訊くのか? ユウカと別れたばっかりのこの俺に。まったく、どいつもこいつも……。

「……いないよ」
「嘘だね。ロンドンに一緒に行ったひとは彼女じゃないの?」

なんでミヅキがユウカのことを知ってるんだろう? さては、村岡さんか、加茂下さんからそのことを聞いたんだな。

「さっき仕事中に、村岡さんには話したんだけど、彼女はロンドンに来なかったんだよ。それで、自然消滅ってやつさ。もう連絡も取れないんだ」
「そうなんだ」

ミヅキはうれしそうに微笑んだ。

まったく、村岡さんといい、このミヅキといい、ひとの不幸がそんなにうれしいものなのかよ!

加茂下さんは、ジェシカにベッタリで、今夜は他に客がいないこともあって、いいところを見せようと、得意な歌をもう七曲も立て続けに熱唱している。
もちろん日本語でだ。

とりあえず手拍子で盛り上げようとしているジェシカの顔をみると、『もういいかげんにやめてよね!』という心の声が聞こえてきそうだ。

『えっ!』

そんなことを考えていると、ミヅキの右手が俺の左手に重ねられていた。
加茂下さん、村岡さんからは見えないように、俺の脚で上手く隠れるようにして、キュッと握ってくる。

ミヅキを見やると、ふふっと悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、俺の瞳を覗き込むようにして、一層強く握ってきた。

「あのさ……」
「なに? ヤマさん」

やばい、この娘ってかなり遊んでる。男の落とし方をよく知ってる。

となりに座る村岡さんは、もうすっかり酔っぱらっていて、ソファにうなだれてちょこんと座っている。大人しく眠っているタスマニアデビルみたいに、横からのぞく寝顔が、おじさんなのに可愛らしい。

「すみません、加茂下さん。もう、閉店の時間を過ぎていますので、申し訳ないのですがお会計のほうをお願いします」

マスターのアツシさんが頭を下げながら、加茂下さんにお会計伝票を手渡した。加茂下さんは、尻ポケットから二つ折りの財布を取り出すと、百ドル札を二枚、ポンっとキャッシュトレイの上に置いた。

「お釣りはいいから、取っておいて」

そういって加茂下さんは、ジェシカに「今日は楽しかった。また、来るからね」などと、帰りたくなさそうに、彼女の手の甲に自分の手のひらをべったりと重ねて、未練たらたらといった様子だ。

「すみません、加茂下さん」

マスターは、キャッシュトレイを加茂下さんの前に差し出して、その上に伝票を乗せて見せる。

困ったような複雑な表情だ。

「申し訳ないんですけど、お代が足りません」

その瞬間、ジェシカの顔に嘲笑を含んだ笑みが浮かぶのを俺は見逃さなかった。

「えっ! いくら足りないの?」
「あと九十ドルです」
「えっ! なんで、そんなにすんの?」

予想していた金額よりかなり高かったんだろう、加茂下さんは素っ頓狂な声を上げた。

「今日は、ボトルを二本も入れていただきましたので」

終始上機嫌だった加茂下さんは、ジェシカからすすめられて、新しいボトルを一本余計にキープしてしまったのだ。

それもひとえに、加茂下さんに付き合わされた村岡さんのせいだった。村岡さんは、音痴だからという理由で歌も歌わない。かといってジェシカに話しかけたら加茂下さんの機嫌を損ねてしまう。

それで、村岡さんは仕方なく、酒をガンガン煽るように飲みまくった。村岡さんは大の酒好きだからそれはそれで満足していたようだったけれど。

可愛らしい横顔のタスマニアデビル、いや、村岡さんは、今にもソファから転がり落ちそうに船を漕ぎ始めていた。

「しょうがないな……」

加茂下さんは不機嫌そうに、尻ポケットからまた財布を取り出すと、二十ドル札を数えながら五枚、キャッシュトレイの上に乱暴に置いた。
どうやら、加茂下さんの今日の予算は二百ドルだったようだ。

「じゃあな、俺は歩いて帰るから」

マスターが「タクシーを呼びますか」というのを断って、加茂下さんは先に帰っていった。

しばらくすると、俺たち三人のために呼んでもらったタクシーがやってきた。
村岡さんは足取りもおぼつかない。
なんとかタクシーに乗せて家まで送り届ける。インターホンを押す。出てきた村岡さんの奥さんに、久しぶりの挨拶もそこそこに、事情を説明する。

「それは大変だったのね」と奥さんは笑っていたが、目は笑っていなかった。

『目を覚ましたら大変だな』と恐妻家の村岡さんの心配をしながら、ミヅキをひとり残し、待たせてあったタクシーに急いで戻る。

「ごめん、お待たせ。それで、ミヅキちゃんの家はどこなの?」

こんな時間まで高校生のミズキを付き合わせる形になったのだ。彼女のご両親にはなんらかの説明はしないといけないだろう。とはいえ酒臭い男が一緒だとまずいかもな、とそんなことを考えていた。

「今日は友だちの家に泊まるっていってあるから」

まあ、手回しのいいことで。
最近の女の子はやることにそつがない。

「そうなんだ。それで、そのお友だちの家ってどこ?」

こんな遅くに友だちの家まで行くのか? 夜中の一時過ぎだぞ、などと不思議に思った。

「だから、ヤマさんの家に連れてってよ」
「えっ!」

ミヅキは俺の指に、彼女の細くしなやかな指をねっとりと絡ませている。

ミヅキの瞳は妖しげに揺らめいていた。

〈続く〉


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

物語は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。

尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。

今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。

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鯱寿典
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