『サザンクロス ラプソディー』vol.31
「あぁ、お腹いっぱいだ。幸せすぎる」
朝食を堪能した俺は、思わずこんなことばを口にしていた。
バターとジャムを塗ったカリカリの薄めのトーストはパンプレートに、ベーコン、ソーセージ、選べる卵料理、それと豆好きの俺にはたまらないベイクドビーンズなどがラウンドプレートに見た目よく盛り付けられていた。
全体の量はかなり多い。
ミルクティーの温かさが、からだと心に染み渡る。
二日前、暴動が治ったばかりの、粉雪の舞い散る夜のロンドンに、ひとり降り立ったときの、あの心細さが嘘のようだ。
それにしても、四月初旬のロンドンのこの寒さよ。
俺の手荷物は宿に届くことがわかったものの、ロンドンでは、四月以降は夏に向かってまっしぐらだからと、俺はジャンパーやセーターなどの秋冬用の洋服を、そのなかには一枚も入れていなかった。
それで俺は散々迷った末に、昨日、フライトジャケットを一着と、薄手のセーターを一枚購入した。
*
ビクトリア駅の公衆電話で、ユウカに「じゃあ、また」といって電話を切ったあと、俺はロンドンの街を散策することにした。
すると、二日前の暴動の傷跡がくっきりと残されている大通りに出た。
歴史の重みを感じさせる、風格ある建物が立ち並ぶなか、通りのショーウィンドウがところどころ破壊されて、シートで覆われたり、木の板が嵌め込まれたりして、応急処置が施されていた。
我ながら、なにもこんなときにロンドンまで来なくていいのに......と苦笑いだ。
俺はその大通りからいつの間にか裏通りに入っていた。
小腹が空いたので、サンドイッチでも食べようと、目に入った〈Take Away〉の店に入る。
日本やアメリカでは、〈Take Out〉というが、オーストラリアやイギリスでは、こう呼ぶ。
注文をしていると、俺の対応をしてくれた、そこの女性店員のことばのアクセントが気になった。『この女性はフランス人に違いない』と思って、俺がそのことを訊くと、「そうだけど、私の発音でわかったの?」と彼女は恥ずかしそうに笑った。
なにしろ俺はオーストラリアで、ポールたちフランス人と二年以上いっしょに暮らしたのだ。
だから、なんとなくそのことがわかった。
彼女は英会話の勉強のためにこのロンドンに来ていて、この店で働き始めてまだ一週間くらいだという。
俺と彼女が話し込んでいたら、しかめっ面をした、ガタイがいい黒人の男がぬっと現れた。
彼女の態度と口ぶりから、この店のオーナーだと思われた。
俺は早々に店を立ち去った。
仕事の邪魔をしてはいけない。
俺はこの女性店員マルセイユ出身のマリアンヌとは、この後も何度か偶然街なかで出くわして友達になり、ロンドンにいる間ずいぶん仲よくさせてもらった。
*
朝からロンドンの街並みをぶらぶらと歩きながら眺めていたら、俺はここにしばらく住んでみたいという気持ちになっていた。
このままホテル住まいでイギリスに滞在するのもありかな、とも考えたが、いくら安宿とはいえ、朝食込みで、日本円で換算すると一泊五千円くらいはする。
ユースホステルに泊まるという手もあったが、ひとりだし、別に旅先での出会いを求めているわけでもなかった。
それに、あまりワチャワチャした宿泊所には泊まりたくなかった。
それで、二か月以上住むなら、迷うことなくルームシェアかハウスシェアにするべきだと考えた俺は、まず夕食を食べに日本食レストランに行ってみることにした。
別にそれほど日本食を食べたかったわけではなかったが、なにかしらの情報が収集できないか? と思ったのだ。
俺がシドニーで勤めていたレストランには日本語のフリーペーパーが置かれていた。
それで、もしかしたらここロンドンでもそうなのかも? と考えた。
通りをあてもなく歩いていて、最初に目に入った日本食レストランに入る。
何軒か探してみて、比べて選べば良さそうなものだが、俺はなんに関してもこんな調子だ。
注文をすませ、ウェイトレスの日本人の女の子に「日本語のフリーペーパーはありますか?」と訊くと、すぐに一部持ってきてくれた。
「オーストラリアからやってきました。あの暴動のあった日にロンドンに着いたんです。本当に参りましたよ」と伝えると、彼女は、「それは、大変でしたね」と気の毒そうな顔をつくった。
その店の食事代の高さには驚いた。ビールを一本とつまみのイカの生姜焼き、それとメインの天ぷらとご飯で、円で換算すると、4000円くらいした。
海外の日本食は高いのは当たり前だが、それにしても高すぎだ。
「イギリスはものがなんでも高い」
ポールがしかめっ面でそういっていたが、本当にその通りだった。
煙草なんかはオーストラリアの約二倍、一箱で五百円を超えていた。
*
昨夜、日本食レストランで手に入れたフリーペーパーのなかには、残念ながら、ルームメイトも、シェアメイトの募集も載っていなかった。
しかし、そこに一軒の仲介会社の名前が掲載されていた。もしかしたら、手頃なフラットがあるかもしれない。
そう思った俺は、宿で朝食をすませると、通りに出て、赤い電話ボックスからそこへ電話をかける。
初めは英語で話していたその女性は、俺がフリーペーパーを見て電話をしていること、俺が日本人だということを伝えると、すぐに日本語で話し始めた。
どうやら日本人らしかった。
「どれくらいの滞在をご希望ですか?」
「今のところは、はっきりしていませんけれど、できればとりあえず二か月くらいでお願いしたいのですが」
「二か月だと短かすぎてお部屋は紹介致しかねます。最低でも六か月ですね」
「そうなんですね」
まあ、それはそうだろう。本当は六か月といっても良かったんだが、なぜかそれはいえなかった。そんなに長く滞在するつもりはなかったからだ。
「わかりました。ありがとうございました」
これは後からわかったことだが、家賃はシドニーと比べるとかなり高めだった。とてもじゃないが、俺が想像していたよりも遥かに高かった。もし、仮に俺が六か月間、フラットを借りていたとしても、とてもじゃないがひとりで家賃を払っていけなかっただろう。
「ちょっと待っていただけますか? 二か月ですか? ......昨日、シェアメイトの募集が出たばかりのところがあります。ここは短期でも大丈夫なので、もし、そこでよろしければご紹介できますけれど」
「はい、お願いできますか?」
「でしたら、一度こちらに来ていただけますか?」
電話を切ろうとした俺に、彼女はそういって、「フリーペーパーに載っている住所に来てください」と、住所を復唱してくれた。
初めて訪れたこの地に不慣れな俺には、本当にありがたかった。
日本人の俺は、英語の綴りによっては、まったく見当違いの読み方をすることがあるからだ。
まあ、漢字よりはそういうトラブルはすくないのだろうが。
俺はさっそくそこへ向かった。
大通りからすこし入った裏通りにある小ぶりの建物の二階にその仲介会社の事務所はあった。
ドアを引き開けてなかに入る。
「こんにちは、先ほど電話したものですけれど」
「ああ、山神さんですね? お待ちしていました」
さっき電話で話したマユと名乗るその女性は、ソバージュの黒髪がよく似合う、二十歳くらいの可愛らしい日本人の女の子だった。彼女はどことなくマリコに似ていた。そして、そこには上司か経営者かわからないけれど、黒人のおばさんと、その息子か孫がわからないような五歳くらいの黒人の男の子がいた。
ふたりは俺に一瞥をくれると、まったく俺には興味がなさそうに、なにやら楽しそうに話し込んでいた。
「この家です。ここから一番近い駅から、地下鉄ノーザン・ラインで二十分くらいの場所にありまして、最寄駅はフィンチリー・セントラル駅です」
家賃がいくらか俺に伝えた後、彼女は、テーブルに広げた地図を指し示しながら、その家の場所と、その一帯がどのような環境なのかを教えてくれた。
「はい、そこで結構です。お願いします」
俺は直感でここでいい、と即決した。
「えっ! まだ、詳しくお話ししていないのに、そんなに早くお決めになって大丈夫ですか?」
彼女は俺があまりにも早くそこに決めたものだから、かなり驚いたようだった。
「ええ、大丈夫です」
俺はこれまでの人生のなかで、物事を深く考えて行動したことがほとんどなかった。
そんな俺のことばを聞いた人々は、例外なく、「そんなんで大丈夫なの?」と顔を曇らせて心配してくれた。
けれど、俺が思うには、なんにしても決めなければならないことを先延ばしにして考え過ぎると、その決断も遅くなりがちだし、結局なにもできなくなる
良い予感がしたら、その自分の直感に、俺はいつも従うようにしている。
「それでは、今日の午後三時に、この女性を訪ねて、この住所のこのお店に行って、彼女と話してください」
家主の女性と電話で連絡を取った彼女は、そういって俺にメモ紙を手渡した。そこには、その女性の名前と店の名前、そして、その場所までの地下鉄の最寄駅と道順が書いてあった。
*
俺は仲介会社のマユから指定された場所に行く。
そこは地下鉄の駅から歩いて五分くらいのパブだった。なんでも、家主夫婦の奥さんがここで働いているという。
なかに入って、「このひとを訪ねてください」といわれたキャロルという名前を、入り口にいた従業員の女性に告げる。
その彼女に呼ばれて、バーカウンターの奥から大柄の女性が笑顔も見せずに俺に近づいてくると、「ここに座って」と椅子を指差した。
「ええ、いいわよ。いつから住める?」
十分ほどキャロルと話したところで、こう訊かれた。どうやら面接は無事にパスしたみたいだった。
「明日からでも大丈夫ですけど、いいですか?」
「そうね......明後日からにしてくれる? それで、悪いんだけど、仲介会社のマユに、住むことに決まったからって伝えてもらえる? もちろん私の方からもそのことは伝えておくから」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
そういって俺が座ったまま軽く頭を下げると、キャロルは、「あなたは間違いなく日本人ね」と嬉しそうに微笑んだ。
キャロルの話によると、最近では、日本人たちだけとハウスシェアをしてきたそうだ。
その理由は明確で、家主である彼女たち夫婦がいっしょに暮らしてきた日本人は、過去に誰ひとりとして問題を引き起こしたことがなかったからだった。
それから二日後、俺はB&Bの安宿を出て、ボストンバッグひとつを携えて、その家のドアベルを押した。
〈続く〉
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
話は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。
尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。
今回のこの作品は、1990年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。