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『サザンクロス ラプソディー』 vol 7
夜11時過ぎにイブはブッシュウォーキングから帰ってきた。
「あーっ、楽しかった」
悪びれる様子もなく、いつもの穏やかな笑顔だ。
「ヤマは、この二日間なにやってたの?」
「俺?えーっと、ランチを花時計で食べて、漫画読んで時間潰して、それから家に帰って昼寝して、夕方に起きて、チャイナタウンの中華料理店で食事して、映画を観に行って、帰ってきて、ビール飲んでたらいつの間にか眠っていた」
会話をぶつ切りにしながら子供かっ!内心、苦笑しながらそう答えた。
「昨日も、今日も?」
「ビール以外は全く同じ......」
イブは憐れむような目で俺を見た。『ハイ、ハイっ!大したことはしていません。すみませんねっ!』心のなかでそう叫んでいた。
「楽しかった?」
「楽しかったよ!」
イブとその男友だちのことが頭の片隅から離れずに、気になって気になって全然楽しくなかったが、心と反対の言葉がつい口をついて出ていた。
「イブはどうだったの?」
「すご~く楽しかったよ。ありがとうね、ヤマ。行かせてくれて」
行かせてくれてって、勝手に行ったんだろうがっ!そう思ったが、
「いや、大したことじゃないさ」
度量が大きいところを見せた。
「一緒に行った男友だちが、ヤマに謝っておいてくれって」
「えっ!どういうこと?」
「私、彼にヤマと一緒に暮らしていること伝えてなくて。知っていたら、誘わなかったのにって言われたの」
「そうなんだ......」
俺はイブらしいなと何だか可笑しくなった。イブの友だちが常識人だったことを知って何だかホッとした。
普通は彼氏がいる女の子をそんな一泊のブッシュウォーキングなんかに誘わないって。
これを聞いてこの件についてもうこれ以上何も言えなくなってしまった。
一人で腹を立てて悶々としていた二日間が馬鹿らしく思えた。
イブがそんな関係ではないと言う男と二人きりだということに、必要以上にやきもちを妬いた自分の器の小ささが恥ずかしくなった。
そもそも嘘をつこうと思えば、男女複数人で行くとか、嘘がつけたはずだった。
イブの話によれば ブッシュウォーキングは本当に楽しかったという。
その友だちの彼は、キャンプの達人だそうで、金属の容器の中に、あらかじめ用意しておいたパン種にその場でビールを加え、焚き火の下の地中に埋めてパンを作ってくれたり、美味しい食事も満喫したそうだ。
山の中で大きなトカゲに遭遇し、追いかけられるというハプニングもあったという。
かなり怖かったらしく、今でもそのときの恐怖を思い出す、と震えながら話していた。何でもイブをめがけてダッシュしてきたそうだ。
一通り話し終わると、疲れがたまっていたのか、イブはそのまま深い眠りについた。
*
翌日昼過ぎに目を覚ますと、海に行こうよ!とイブが言い出し、二人でボンダイビーチへ行くことにした。
本当にイブはアクティブだ。
エネルギーの塊みたいな人間なのだ。
この日イブは珍しく、俺を気遣ってくれたのか、いつものプールには行かず、ビーチで二人で過ごしたいと言い出した。
ボンダイビーチで大波が来るときは要注意だ。さっきまで腰くらいまであった海水がサーッと突然なくなる。その後に大波がやって来るのだ。
その波に巻き込まれると、洗濯機でまわされているみたいな状態になり、2分間ほどは次から次に来る波に圧されて顔を上げることができない。
息が出来ず、死にそうになる。
海から上がると、イブは濡れた髪をタオルで拭きながら、めずらしく甘えた声をつくった。
「あのさー、なんか買って食べようよ」
「いいけど、ほとんどベジタリアンのイブが食べられるものってある?」
「心配しないで、いっぱいあるから」
ビーチ近くの店で、ミートパイ、フィッシュアンドチップス、それと飲み物にジンジャービア、ミネラルウォーターを1本ずつ買う。
ビーチを見渡せる芝生の上に腰を下ろし、買ってきたものを広げる。
どこまでも抜けるような青い空、コバルトブルーの海、白い砂浜、やわらかい芝生の緑。
これでもか、と容赦なく照りつける真夏の太陽。
俺たちの頭上では食べ物を狙っているのか、白い翼の海鳥が飛びまわっている。
パイの中身はギンギンに熱い。
一口食べてジンジャービアで流し込む。うまいっ!
イブにはフィッシュ・アンド・チップスを買っておいた。
ビネガーと塩をかけて食べる。
「イブ。旨い?」
「うん、すごく美味しい!」
フィッシュは、周りの衣がサックサクで美味しい。衣を作るときの水分はビールだけを使用する。
イブはブッシュウォーキングの件をかなり気にしていたみたいだった。
いつもは、俺がこうだって言うと、理屈っぽく言い返してくるイブだったが、
「うんうん、そうだね。うん、そうだね」と、今日はなぜか相槌ばかりを打っていた。
気を遣わせて申し訳ない気持ちだった。
ただ逆に、そういう気遣いも嬉しかった。
自分の感情を曲げてまで、やきもちを妬いていた俺を気にしてくれたのかと思うとありがたかった。
改めていい女だと思う。
すると突然イブが言い出した。
「もう少ししたら帰らなきゃ」
「何かあるのか?」
「ごめん、ヤマには伝えていなかったけど、今日、ニュージーランドの友達のキャシーが来ることになってるんだ」
まるで、今思い出したみたいにそう答えた。
「何時頃?」
「え~っと、夕方には来ることになってるんだ。彼女はわたしのフラットには来たことあるから全然迷わないと思う」
時計を見るとあと二時間ほどしかなかった。
「わかった、じゃあ帰ろうか?」
*
家に帰りつき、シャワーを浴びてくつろいでいると、インターホンが鳴った。
キャシーだった。
「こんにちは。初めまして、ヤマです」
「こんにちは。キャシーです」
イブの紹介を待たずにお互いに挨拶を交わす。
キャシーは、少し赤みがかった金髪ロングで、それも地毛だという。
イブと同じ19歳。
身長は俺よりもすこし高く、スレンダーだ。
背が高いのを気にしているせいなのか、極端な猫背だった。
しかし、いつも思うのだが、なぜイブはスケジュールをこんなにも詰めこみたがるんだろうか?
分刻みとまでは言わないが、時間単位で行動している節がある。
イブは、レイラが来たときもそうだったが、友だちとの話に夢中になると、俺がいることをすっかり忘れてしまう。
俺は俺で、ふたりの会話には上手く入れない。英語が下手なのもあるが、友だち同士のローカルな話をされても俺にはさっぱり分からない。
じゃあ、俺は花時計に行ってくるから、と部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
「ちょっと待って」
そう言って、キャシーは、俺とイブを交互に見て、
「イブ。わたしお腹空いた。三人で外に食べに行かない?」と言葉を続けた。
「そうだね。そうしようか?」
もちろん、俺もイブも大賛成だった。
キャシーの気づかいは本当に嬉しかった。
俺たちは、キングスクロスの路地裏にある、イブの知り合いの女性シェフがいるコジャレたレストランに行くことにした。
その彼女に勧められて、俺たちはスープにガスパチョ、メインにマグロのグリエのジンジャーソースと三人同じものを頼んだ。
そのシェフは、俺が日本人ということもあってか、マグロのグリエはどうだったか?と焼き加減、ソースとの相性などを事細かに訊いてきた。
日本人がマグロを好んで食べるということはよく知られていた。
カプチーノと共に、デザートには、ピーカンナッツのタルト、レモンメランジェ、チーズケーキをそれぞれ頼んだ。
どれもこれも大満足の味だった。
前回レイラと一緒の時に聞けなかった、ニュージーランドでのイブのことを聞くことができた。
現在イブの国籍はニュージーランドだが、実はハンガリー人で、父、母、妹と一緒に移り住んだという。
イブはその時11歳。
学校で英語があまり上手くないイブを気遣って、同じクラスのキャシーが友達付き合いをしてくれ、色々と助けてくれたという。
キャシーには頭が上がらない。とイブは彼女に頭を下げて見せた。
ニュージーランドから来たとは聞いてはいたが、それっぽくないなといつも思っていた。
雪のように真っ白な肌のきめの細かさが、オーストラリア、ニュージーランド人のそれとはかなり違うのだ。
イブがサンスクリーンをしっかり塗るなど、スキンケアに気をつけていたからだと思っていたのだが、そういうことだったのだ。
イブは、英語にはかなり苦労したという。
ハンガリーでは、英語は得意だったのかと訊くと、ほとんど勉強したことはなかったそうだ。
それなのに、ここまでネイティブと変わらないように話せるようになったとは......やはり頑張れば話せるようになるんだ。
後から分かったことだが、ハンガリー語と日本語は文法的にかなり近いものがあり、全く同じこと、ものを指す単語も存在する。
そんな話をしている途中で俺は思いついたことがあった。
「あのさぁ、イブ。日本人に英語を教えてみれば?」
イブの小遣い稼ぎにもなる、と思って俺がそう提案すると、
「じゃあ、ヤマ、生徒探してくれる?」
彼女は身を乗り出してきた。
「イブも知っているあのお店、〈花時計〉に生徒募集の案内を貼り出せばすぐだよ」
俺も早速やる気になっていた。
キャシーは、大学が休みの間、ニ週間ほど一緒にいるという。
あの狭い部屋でか?そう思った俺が「俺、その間どっか別のところに行ってようか?」と提案した。
「いいや悪いから、いいよ。一緒にここにいて」
別に問題なし、みたいに軽く言うイブと同じようにそんなことを気にもしていないキャシーを見て、こういうところは日本人とは感覚がちがう、そう感じた。
一緒に......そうか、ということは エッチをする時は外に行かないといけないんだ。と考えていた俺は甘かった。
キャシーが帰るまでの約ニ週間、そういう機会は一度もなかった。
その日から、イブとキャシーは布団に寝て、俺は、カーペットに直に毛布を1枚敷いて寝ることになった。
毎朝、起きたら身体がバキバキになっていた。
キャシーがニュージーランドへ帰るまで、イブはクラブの仕事を完全に休んだ。
イブがママに連絡すると、すんなりとオッケーを貰えたという。
頭数に入れていないのか、大切にされているのか、どちらなんだろう?
イブは朝昼夜、四六時中キャシーと行動を共にするようになった。
友だちを大切にすることは本当に素敵なことだと思う。
ふたりが帰って来るのは、いつも俺が仕事から戻って眠りにつこうとする頃だった。
*
クリスマスホリデーが明けた 1月7日、クラブにタカのあとを引き継ぐ日本人がやって来た。
マスターとママに紹介されたその新人のニックネームはまたもや、タカだった。
ニ度あることは三度あるというからなあ、なんてことをぼんやりと考えていた。
タカは、20歳。気さくないい男だった。
ふと、あのタカはどうしているだろう?ゴールドコースに行くといっていたが。
もしかしたら、旅行中に俺とニアミスしたんだろうか?なんてことを考えていた。
仕事はマスターが一日つきっきりでタカに教えた。
ママは「中の仕事は簡単なんだから一日で充分でしょ!」なんてことを言っていた。
俺が何度も「中の仕事に変えてください」とお願いしていたのに、結局俺のお願いは聞き届けられなかった。
まあ外も楽しいからいいや。
「ホリデーは楽しかったか?」
「すんごい楽しかったです」
マスターの問いかけに、行った場所とか何をやったのかを手短に話す。
「楽しんだみたいだな。まあ彼女がいればどこにいても、何をやっていても楽しいもんだ」
ゴルフ三昧の日々で日に焼けた顔に、ニヤリと意味ありげな微笑みを浮かべた。
マスターは、俺がイブと付き合っていることも、一緒に住んでいることも全部知っていた。
まあ、いつかはバレると思っていた。
「こういう商売はな、ホステスがいてくれるからこそやっていけるんだ。そんな大切な彼女たちに手を出してはいけないんだよ。
それが暗黙のルールっていうもんだ」
マスターは眉間に皺を寄せて真剣な表情で続ける。
「ほとんどの人は、単純にこの場所に楽しみに来ている人ばかりだ。だから、ヤマとイブがそういう関係でも別に気にもしないさ。
店のなかでふたりがそういう素振りを見せなければな。
けれど、女の子と親しくなって、そういう仲になれればいいなあと考えている客もいるんだよ。
そういうひとにやっかまれたら面倒なことになるからな。気をつけてくれな」
「はいわかりました。充分に気をつけます」
そう答えて、仕事に入る。
久しぶりの仕事は楽しかった。
気さくに声をかけてくれる常連のお客さんたち、ホリデー明けで笑顔がいっぱいのホステスたち、そんな店のなかで忙しく働き、一日が終わる。
そういう仕事を楽しんでいるときの自分が一番スキだ。
〈続く〉
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
話は続きますが、不定期更新なので次はいつになるのか全くわかりません。ご了承ください。
尚、全く違った作品も間に投稿する予定です。これについても、あらかじめご了承ください。
この作品は1986年から1987年の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体名、地名などとは一切関係ありません。
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