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『サザンクロス ラプソディー』vol.40
ミヅキと初めて過ごしたあの冬の夜から数か月が経ち、いつの間にか、季節は春を過ぎ、夏へと移り変わっていた。
「今日は仕事が終わったら、カラオケクラブに行くよ!」
あと何十分かしたらディナーの営業時間も終了するというタイミングで、厨房に入ってきた加茂下さんは、俺と村岡さんに目配せしながら、そういって大声を上げた。
加茂下さんは相変わらず、カラオケクラブのジェシカにご執心だ。彼女だけが目当てで、今も変わらず足しげくあの店に通っている。
前回あのクラブへ行ったあと、こうやって、何度も加茂下さんに誘われたけれど、俺はあれ以来一度も行かなかった。
というのも、加茂下さんがマスターから「代金が足りないんですけど」といわれたあの夜の翌々日のことだった。
加茂下さんは、「五十ドルずつね」と、俺と村岡さんにそのときの飲み代を請求したからだ。
加茂下さんの奢りだといったのにも関わらずにだ。
「すみません、俺はパスで……」
あんたを楽しませるためだけに金を使いたくなんてないよ、というのが俺の本音だ。以前、キングスクロスのカラオケクラブでボーイをやっていたこともあり、俺はホステスとの会話なんてまったく楽しめなかった。
客がいないところで、彼女たちがどれだけ客のことをぼろくそにいっているのか、知ったらトラウマになるレベルだからだ。
「えーっ、またかよ」
加茂下さんは、ほんとにがっかりしたように吐き捨てた。
奢ってくれるんなら付き合ってあげてもいいけどな、とは思う。
「村岡さんは来るだろ?」
「いや、今日は俺もちょっと無理かな……」
村岡さんも付き合えないと聞いた加茂下さんの顔には、明らかに落胆の色が浮かんでいる。
「なんだよ、最近みんな付き合い悪いな」
加茂下さんが俺と村岡さんを執拗に誘うのには理由があった。
加茂下さんがひとりでクラブへ行っても、人気者のジェシカは、十五分ほど加茂下さんのとなりに座ったら、別の三、四人のグループの席へ移ってしまうからだった。
あのカラオケクラブのジェシカは、唯一の金髪オーストラリアンで、店の一番人気だった。
他に数名いる日本人の女の子たちは、彼女ほど可愛くなかったし、愛嬌もなかった。
ところが、ジェシカは彼女たちとはまったく違っていた。
大学で日本語を専攻していて、日本に興味があり、将来は日本に住みたいとさえ思っているような女性だ。
だから、お客さま一人ひとりに向き合う姿勢が根本的に違っていた。
店側からしたら商売だ。
金をより多く落としてくれる客を優遇するのは当たり前のことだった。
だから、クラブで一番人気のジェシカはそんなお客さんたちのいる席に優先的につくことになる。
「そんなこといわずにさ、この通りだ。今夜だけでいいからさ」
俺と村岡さんは加茂下さんのこのことばに顔を見合わせる。
どうしようか考えていたところにミヅキが横から口を挟んだ。
「ヤマさん、加茂下さんがこうまでいってるんだから、一緒に行ってあげれば? あたしも付き合うからさ」
「ありがとう、ミヅキ」
助け舟を出してくれたミヅキに頭を下げながら、加茂下さんはうれしそうだ。
「今日は奢りなんだよね?」
村岡さんはそこが気になるらしい。
俺もそうだ。
車通勤の俺は、飲んだらそのあとはもちろん運転できない。必然的にタクシーを使うことになり、その料金はもちろん俺の自腹になる。
おまけに次に出勤するときは、電車で来なければならない。
車通勤に慣れていると、これは非常に面倒くさいのだ。
「もちろん、割り勘で」
そんな俺の思いをまったく意に介さず、加茂下さんは思いっきりの笑顔でそういい切った。
俺と村岡さんは、ミヅキにいわれたこともあって、加茂下さんに付き合うことにした。
そのときの俺は、クラブのあとに、もしかしたらまたミヅキと……という思いも少しあった。
*
「また来ちゃった」
お気に入りのジェシカをとなりに座らせて、加茂下さんは上機嫌だ。
今日はジェシカもいつもよりすこしは長く加茂下さんに付き合ってくれることだろう、と俺はそう思っていた。
「ヤマさん、飲んでる?」
そういって、ミヅキは俺と村岡さんのグラスを気にかけてくれた。
しかし、よほど作り慣れていないのか、できあがった水割りはかなり濃い目のものだった。
せっかく作ってもらったんだ、ひとくち飲んでは水を足し、またひとくち飲んでは水を足す。
そうこうしているうちに、俺は酔いがかなり回ってきた。どんだけ水割りを作るのが下手なんだよ。内心あきれる。
しかし、まだ酒の味も知らない高校生だ。それは仕方がない。
「どういうことだよ。今日はもうちょっととなりに居てくれてもいいだろ!」
突然、加茂下さんの大声が店内に響き渡った。
他のお客さんたちも、なにごとか? とこちらを振り返っている。
テーブルを移るようにジェシカに耳打ちしたマスターにうながされて、俺たちに向かって挨拶しようと席を立ったジェシカに、加茂下さんが大声で怒鳴ったのだ。
ジェシカはもちろん日本語がわかる。
突然、大声を出されたものだから、怯えた様子で加茂下さんを見下ろしている。
からだの前で揃えられたジェシカの指先は、恐怖で小刻みに震えているようだ。
ジェシカと代わるために後ろに控えていた日本人のホステスは、あきれた顔でそっぽを向いている。
「あんたさ、いいかげんに気づけよ。ジェシカはあんたのことを嫌ってるんだってことをさ。しつこいんだよ、あんた」
そのとき、となりのテーブルに座っていた、二十代くらいのゴツいからだの強面の男が、加茂下さんを睨みながら声を荒らげた。
男と同じ席の他のふたりの男たちも、うすら笑いを浮かべながら、加茂下さんを睨んでいる。
普通なら、ジェシカにあまりよく思われていないことなど、加茂下さんはとっくの昔に気づいていてもおかしくはないのに、このひとはその点が鈍感だった。
カラオケを執拗にすすめられていることだけでも、あんたと話していても面白くないんだよ、というサインだということを読み取ることもできない。
「えっ!」
思いもかけず見知らぬ男から怒鳴られた加茂下さんは、あっけに取られた顔でジェシカを見上げている。
それからすぐに、ジェシカはマスターに連れられて、従業員控え室のほうへ消えて行った。
それからが大変だった。
その場に居た堪れなくなったのか、加茂下さんは、「俺、もう帰るからな」と力なくいうと、引き止めようとする俺の手を乱暴に払いのけた。
そして、クラブの階段を、まるで夢遊病者のように、ふらりふらりとひとりで降りて帰って行った。
呆然と加茂下さんを見送って、となりを見れば、村岡さんはいつものように酔い潰れている。
このひとは何があっても、酒さえ飲ませておけば、幸せそうだ。
そんな村岡さんを羨ましいとさえ思う。
すぐに加茂下さんを追いかけようとしたが、今夜は俺も酔いがまわっていて立ち上がれなかった。
一時間も経たない間にかなりの量の酒を飲んでいたらしい。
ミヅキに作ってもらった濃い目の水割りが相当からだにこたえていた。
「あの、すみません。お勘定をお願いできますか?」
店のマスターはそういって、キャッシュトレイに会計票を乗せて俺の目の前に差し出した。
請求金額は二百ドル。
勘弁してくれよ、加茂下さん。俺がすべて払わないといけないのか? 割り勘でも不満だったのに、あとから請求するにしても、これはあんまりだ。
そう考え込んでいると、「ヤマさん、払っとけば」と急かすようなミヅキの言葉が俺に浴びせられた。
ミヅキはそう簡単にいうが、なんで俺だけが、という思いもある。となりの村岡さんは完全に夢のなかだ。
「早くってば!」
しょうがなく尻ポケットから財布を取り出すと、二百ドルをマスターに手渡す。
酔いを覚ますために、グラスにピッチャーの水を注ぎ、立て続けに二杯飲み干した。
「ミヅキ、すまないけど、今日はひとりで帰ってくれよな」
タクシーを二台呼んでもらい、先に来た一台にミヅキを乗せる。こんなに酔っ払った俺がミヅキを家まで送り届けることなんてできやしない。
ほんとはこの前みたいに、カラオケクラブのあとに、ミヅキとふたりで俺の家で楽しもう、と密かにそんな期待もしていた。
しかし、こんなに酔っ払った状態では、さすがにそんな気にもなれなかった。
俺は村岡さんを家まで送り届けるために、あとから来たもう一台のタクシーに一緒に乗り込んだ。
*
この数か月間というもの、俺がミヅキと会うときは、ミヅキの運転練習に付き合うときだけだった。
思い起こしてみれば、ミヅキとは、運転練習の合間にカフェで簡単に食事をすませることはあっても、映画館に行ったり、コンサートに行ったりとか、そういったデートらしいことは何一つしていなかった。
エッチのほうも、あの初めての夜以来、一度もしていない。
明らかに経験豊富なミヅキに、俺はエッチが下手すぎるとジャッジされてしまったんだろうか? などといった余計なことも考えた。
「ヤマさん、おかげさまで運転免許がやっと取れました。ありがとうございました」
ミヅキはめでたく免許を取得した。
彼女は何度も俺に頭を下げて、こういって感謝してくれた。
しかし、それ以降は、ふたりで出かけることもなくなっていた。
店で顔を合わせるくらいだった。
今日は久しぶりにふたりでお出かけしていた。といっても、ランチが終わって、ディナーが始まるまでの、店の休み時間の間だけだ。
やってきたのは、ノース・シドニーにあるオリンピック・プールだ。
ハーバーブリッジのすぐ真下にあるこのプールは、地元のひとたちでいつも賑わっている。
すぐ真上のハーバーブリッジを渡るガタンゴトンという電車の車輪の音が耳に心地よく響いてくる。
夏真っ盛り、ランチタイムのキッチンのなかで灼熱地獄にさらされ続けて、火照り切った俺のからだを、心地よくまとまりつくプールの水が、優しくからだの芯まで冷やしていくようだ。
すんごく、気持ちいい!っ!
「ヤマさん、こっち向いて!」
その声に振り返ると、ミヅキはまるで子どもみたいにはしゃぎながら、俺にプールの水をパシャパシャとかけてきた。
「やったなー、ミヅキ。こうしてやるっ!」
俺も負けじとばかり、腕を振り回しながら、彼女にバシャバシャと水をかけて反撃する。
「待って、ヤマさん。降参、降参だってば!」
ミヅキはそういって俺に抱きついてきた。
「ミヅキってほんとにスタイルいいよな」
お姫様抱っこをした俺の腕のなかのミヅキのビキニ姿が目に入った。
水着からこぼれ落ちそうなくらいに豊満な胸、白く長く伸びた手足が、キラキラと光を反射するプールの水のなかで、ゆらゆらとその色と形を変えている。
「キスして、ヤマさん」
俺の耳もとで囁くようにいうと、ミヅキはそっと瞳を閉じた。
ミヅキからこんなふうにキスを求められたのは初めてのことだった。
*
「もうすこしたら、日本の実家にあたしだけ帰るつもりなんだ。そして、そこで、あたしは彼と一緒に暮らし始めるつもりなの。両親は、彼とは前に何度も会ったことがあって、みんなでお出かけしたりもしていて、彼をすごく気に入ってくれているの。今は誰も住んでいないその家に、『ミヅキひとりで暮らすというのは心配だから、そうしなさい』って、両親がいってくれているのよ」
高校の卒業を控え、先週末で〈garasya〉を辞めたミヅキのリクエストでここに食事にきていた。
ダーリング・ハーバーにあるちょっとした高級なレストランだ。周りには日本人の観光客もかなりいる。
「知らなかったよ、ミヅキに彼がいたなんてこと」
「えっ! いわなかったけ、あたし」
ミヅキは悪びれる様子もなく、明るくそう答えた。
「うん、聞いてない」
おい、寝耳に水だよ。すっかりミヅキのカレシだとばかり思い込んでいた俺の気持ちはいったいどうなるのかな。
いつかミヅキがいっていた、「男のひとってみんなこうなのかな?」って、あれっていったいなんだったんだよ?
二股かけていたお前がいっていいセリフじゃないだろ? とは思ったものの、俺のなかには、そんな予感めいたものがかなり前からあった。
ミヅキは俺が訊いてもいないのに、彼との馴れ初めから、将来的にどうしたいのかまで、うれしそうにこと細かに話してくれた。
ときどき思う……女性ってほんとに残酷だ。
けれど、真夏のあの肌を焼くようなあつさも、冬の寒い日に届けてくれるあの優しいあたたかさも、すべてが愛おしい、太陽みたいな存在だとも思う。
俺にとってはなくてはならないものだ。
ミヅキの話によると、その彼はワーキングホリデービザでシドニーに来て、ミヅキと出逢い、付き合い始めたという。
ミヅキは彼のことが本当に大好きで、彼のビザが切れて日本に帰らなければならなくなったときには、一緒についていこうとまでしたそうだ。
しかし、「高校を卒業するまではシドニーにいなさい」という両親の声に従って、泣く泣くここに残っていた、ということだった。
俺がミヅキと出会ったのは、彼女が彼と離れ離れになってひと月も経たない頃だったという。
あの職場復帰の初日、ミヅキが俺を何度もたしかめるように見ていたのは、俺の顔立ちと雰囲気が、日本に帰ってしまったその彼によく似ていたからだった。
それで、懐かしさを抑え切れず、思わずあんな行動を取ってしまったんだという。
そういえば、あの夜のミヅキは恐ろしいほど乱れた。
この娘ってほんとに十八歳かよ、と驚いたくらいだ。
今にして思えば、あれ以降、ミヅキは俺と一度もエッチをしなかった。
たぶん、ヤッてしまったことへの後悔、彼への後ろめたさ、そして、彼への想いをつなぎ止めるためだったんだと思う。
ミヅキから突然こう切り出されて、訊きたいことや、いいたいことは、たくさんあった。
しかし、ミヅキが話してくれたことは、隠そうと思えば隠し通せたはずだ。
俺の人となりを信じて、ほんとのことを話してくれたことに対するミヅキへの感謝の気持ちも芽生えていた。
だから俺はそのすべてを何もいわずに呑み込んだ。
「ヤマさん、いろいろごめんなさい。それにほんとによくしてくれて、ありがとう……」
ミヅキは、申し訳なさそうに、深く頭を下げている。
「ああ、こちらこそありがとう」
俺も微笑みながらそういって頭を下げる。
俺は基本ええかっこしいだ。未練たらたら恨み節を炸裂させるなんてみっともないことなんて元来できやしない。
「じゃあ、今日でお別れなんだな」
すべてを聞いた以上、もう会うことも話すこともないだろう。
「そうだね……」
ミヅキはそういって目を伏せた。
いくら自由奔放の彼女でも、さすがにほんとに申し訳なかったという気持ちになっていたんだろう。
実際、運転免許を取るためだけに俺と会っていたわけだから。
「じゃあ、元気でね、ミヅキ!」
明るく、元気に、爽やかに別れを告げる。
「ヤマさんも、お元気で!」
そういって、ミヅキも思いっきりの笑顔を見せてくれた。
レストランを出ると、ミヅキは右へ、そして俺は左へと歩み出す。
冷房の効いたショッピングモールから外へ出ると、太陽の日差しに焼かれ、俺の肌は一瞬にして汗ばんだ。
カラッと乾いたオーストラリアの海風が、そんな俺の背中をやさしく撫でていった。
〈続く〉
*
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語は続きますが、不定期更新なので、次はいつになるのか今のところ未定です。ご了承下さい。
尚、全く内容の違った作品も間に投稿する予定です。これについても、予めご了承下さい。
今回のこの作品は、1991年頃の物語という設定ですが、実在する人物、店舗、団体、地名などとは一切関係ありません。
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