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短編小説『恋の轍 後編』
「まこと兄ちゃん……誠」
明美は、誠といいたいのに慣れないうちは、たまに、まこと兄ちゃんと呼んでしまい、あわてていい直すことがあった。
「なんだ、明美」
「あれが東京タワーなの?」
立ち並ぶビル群から、青い空に向かってすっくとそびえ立つ、赤と白のツートンカラーの電波塔を目の当たりにした明美は、その巨大さに目を白黒させている。
「そうだよ、でかいだろ。あの東京タワーは俺が生まれた年にできたんだそうだ」
「そうなんだ。すごいね、あんなに大きいんだ」
「登ってみるか?」
「うん、登ってみたい」
展望台から一望できる東京の街並みに、明美は驚きと感動を隠せない。
明美が生まれ育った田舎とはあまりに違いすぎる圧倒的なその景観を前に、明美はいまにも足もとが崩れ落ちそうな気がした。
そして、明美は誠の手を強く握りしめたまま、しばらくそこに立ちすくんでいた。
*
「すごくきれい。東京の桜って、河岸を桜の花びらで覆い尽くすように咲くんだね」
目黒川の両岸、桜並木に咲き誇る満開のソメイヨシノを眺めながら、明美と誠はふたりとも故郷の山桜を思い出していた。
明美たちが通った小中学校の帰り道。
すこし分け入った山のなかにひっそりと咲く白い花びらをつけた山桜を、その季節になるとふたりでよく観に行った。
ソメイヨシノとは違い、群れずにただそこにある凛とした佇まいは、まるで観るものを拒むかような厳かな美しさをその身に纏っていた。
*
「これでよかったかな、誠」
昼食がすむと、明美はそういって、キッチンのテーブルの上に数冊の本を並べて見せた。
「ああ、ありがとう、明美」
昨日、誠が仕事に出かけた後、明美は誠に頼まれていた本を公立図書館で借りてきたのだ。
「太宰治の本はなかったのか?」
誠は山東京伝の黄表紙一冊、井原西鶴の浮世草子の代表作の一冊を前に、一番読みたかった太宰の本がなかったことに、がっかりして肩を落としている。
「うん、全部貸し出し中だったよ。本の予約はできるそうだけど、次に行ったときにでもそうしておこうか?」
「いや、いいよ。明美は何か借りたのか?」
「あたしはこれを借りたよ」
明美がそういって、誠に見せたのは、樋口一葉の短編集と一葉の関連書籍。
「明美は、樋口一葉がほんとに好きなんだな。一葉の作品は誰も救われない重たい話ばかりだから、俺はあまり好きじゃないけどな」
「……まこと兄ちゃんは、その本の主人公たちみたいに、世の中を面白おかしく生きていければいいって思っているのよね!」
自分の大好きな樋口一葉をバカにされた、と感じた明美は、そういって口を尖らせている。
明美は感情的になったときも、「まこと兄ちゃん」とつい今でもいってしまうことがあった。
誠は小説家に関して、これといって特にこだわりはなかった。好きで何度も読み返した本はあったが、かといってその作者の本が全部好きなわけではなかった。
誠が井原西鶴と山東京伝という江戸時代の戯作者の作品を読みたいと思い立ったのは、実は、誠が小中学生のころにお世話になった国語教師から「大人になったとき、もし機会があれば一度は読んでおくといい」といわれたことがあったのを、ふと思い出したからだった。
誠の読書好きは、この国語教師との出会いによるところが大きかった。
それで、明美に頼むのに、作者の名前も作品名もうろ覚えだった誠は、国語教師から話してもらったその本のあらすじを明美に伝え、図書館司書に探してもらったのだ。
樋口一葉がこの井原西鶴の戯作から多くのことを学んだといわれていることなどは、明美も誠も知らなかった。
*
こうやって、誠とふたりきりで暮らす毎日は、明美にとっては夢のようだった。
誠の仕事が休みの日曜日には、誠が起きてから、ふたりで必ずどこかへ出かけた。
ところ狭しと立ち並ぶビルや様々な店舗、きれいに舗装された何車線もある広い道路、そこをひっきりなし通り過ぎる車、気をつけて歩かないとぶつかってしまうくらい早足に行き交う人びと。
デパート、映画館、レストラン、洋服屋、ボーリング場、図書館、美術館、博物館、そして、いたるところに存在する寺社仏閣。
なにしろ、明美が目にするもの、耳にすること、それらのすべてが目新しく、そのたびに明美は驚いたものだ。
*
「誠、起きて。時間だよ」
「あ、うん……」
誠は寝起きが悪く、仕事から帰ってきて寝るのは午前五時近くということもあって、もう正午を過ぎたというのに、いつもこの調子で明美を手こずらせる。
「ダメだって、もう起きてご飯を食べて支度をしないと仕事に遅れちゃうよ」
午後二時出勤の誠は、早く出る分、仕事は午前二時の早上がりになっている。
「あと、五分だけ……」
誠がそういって、布団から出てくるまで、いつも二十分くらいはかかる。
「誠は寝つきはいいのに、目覚めは悪いんだから。まるで子どもみたいだよね。さあ、顔を洗ってね」
「ああ……」
誠はボサボサ頭をかきながら、ヨタヨタとまだおぼつかない足取りで、壁にぶつかりながら洗面所まで歩いていく。
「おはよう、明美」
やがて、顔を洗ってやっと目を覚ました誠は、台所のテーブルにつくと、いま明美に気づいたように微笑んだ。
「おはよう。誠って朝だけはほんとにだらしないよね。どうにかならないの、その寝起きの悪さ」
「そんなこというなよ、しょうがないじゃないか。俺の寝起きが悪いのは昔からなんだから」
「ほんとに誠ったら……」
明美はそういいながらも、ご飯をよそったり、お茶を淹れたり、なんやかんやと誠の世話に余念がない。
すっかり女房気取りだ。
「ほんとに明美は料理が上手だな。あんな田舎の出身だとはとても思えないよ。よくこのハンバーグなんてハイカラなものを作れるよな」
「これは叔母さんのおかげなんだ。叔母さんが旦那さんのためにいつもおいしいご飯を作っていたから、あたしもたまにお手伝いしているうちに、いつのまにか覚えたんだよ」
料理は、明美が街の高校に通うために叔母の家に三年間お世話になっていたときに、花嫁修業のひとつとして叔母から教わったものだった。
子どもがいない叔母夫婦は、姪の明美を我が子のように可愛がった。
そして、明美が将来どこに嫁いでも恥ずかしくないようにと、叔母は明美に女性としてのたしなみをひと通り教えていた。
「これなんて、この前ふたりで食べたレストランのやつよりうまいよ」
「誠、それ大げさだって、そこまでおいしいわけないでしょ」
「いや、ほんとだって、こうやって押さえてないと頬っぺたが落ちそうになるくらいだって」
誠はそういいながら両手で頬を持ち上げている。
「なに、それ」
誠のその仕草に、明美は顔をくしゃくしゃにして笑っている。
*
「待って、誠。このままじゃダメなの?」
明美の腰に手をまわして後ろを向かせようとする誠に、明美は仰向けのままでいようと手足を突っ張って抵抗する。
「明美、ごめん。後ろからいいかな?」
「なんで、いつもこうするのよ?」
誠とも毎日のようにからだを重ね合い、初心だった明美も、いつしか自らも誠を求めるようになっていた。
しかし、誠は自分が終えるときには必ず明美に後ろを向かせた。そういうことが何度も続いたある日、明美は誠にそのことについて思い切って訊いてみた。
しばらくの沈黙の後、誠はやっと重い口を開いた。
それは、祖父の清と母の文子との関係についてだった。
「じいちゃんは、母さんを自分の女のように扱っていた。三十以上も歳の離れた自分の息子の嫁を、俺の目を盗んで抱いていやがったんだ」
誠が祖父の死を知らされたとき、明美に見せたあの笑顔も、大叔母の千代子から祖父の遺骨を食べなさいといわれたときに、誠が頑として口にしなかったのも、このことがあったからだった。
それを聞いた明美の脳裏には、いつも優しくしてくれた笑顔の文子の姿と、いつ会っても口うるさく厳しい顔をした清の姿が交互に浮かんだ。
「じいちゃんの部屋を盗み見たときの母さんのあの顔は忘れられない。じいちゃんの腰が動くたびに母さんの口から漏れだす喘ぎ声と、切なそうに寄せられた眉根、そして、じいちゃんの腰に絡みついた母さんの白い脚。そのどれもがめまいを覚えるほど嫌な思い出だ」
誠は吐き捨てるようにそういって、唇を強く噛みしめた。
すこし噛みちぎった唇からは血が滲み出ていた。
その日、インフルエンザの流行による突然の学校閉鎖で、誠はいつもより早く家に帰ることになった。
当時まだ小学六年生だった誠は、偶然にも母と祖父のそんな姿を目撃してしまったのだった。
「明美、ごめんな。今まで黙っていたけど、俺な、女が喘いでいる顔を見ると、あのとき見た母さんのあの顔を思い出すんだよ……」
「……」
祖父と母親の関係を知ってしまった後、誠がどんな思いでふたりと暮らし続けていたのかを考えると、明美は身につまされる思いだった。
*
「そうね、明後日から来てくれる。着るものはなんでもいいんだけど……服のサイズもそんなに変わらないみたいだし、とりあえず洋服は私のを何着か貸してあげるから、それは心配しなくていいよ。だけど、髪だけは明日にでも美容室で整えてきてくれる?」
明美がどんな服装をしたらいいのかと訊ねると、店のママはこういってくれた。
髪もどんな髪型にしたらいいのかわからなかった明美は、それもアドバイス通りに、ママの行きつけの美容室で生まれて始めてのパーマをかけた。
鏡のなかに映る自分は、どこのどちら様ですか? と思わず声をかけたくなるくらい、明美には見知らぬ顔に思われた。
明美が誠と暮らし始めて三か月ほどが経っていた。
明美は誠との時間をすこしでも多く作るために、昼の仕事ではなく、夜の仕事を始めた。
どちらかというと人見知りな明美は、従業員が多くいるクラブなどではなく、顔が広い誠の師匠のマルの口利きで、こじんまりとしたスナックで仕事を見つけた。
目に見えて明るい性格の明美ではなかったが、おとなしい妹キャラの明美を気にいってくれる常連客も多くいて、明美がその店に馴染むのにそう時間はかからなかった。
この店のママは、同伴出勤もアフターも、明美が未成年ということもあって、無理強いすることも、許すこともなかった。
すこしでも多くのときを誠と一緒に過ごしたい明美にとっては、ここでの仕事は願ってもないものだった。
*
「こんにちは、初めまして。僕は田中といいます。明美さんのお兄さんですよね? 明美さんはいらっしゃいますか?」
「今は買い物に行ってるけど……」
アパートの呼び鈴を鳴らす音にドアを開けた誠は、そういって、恥ずかしそうに微笑む、目の前の男を訝しがりながらこう答えた。
「今日は明美さんのお誕生日だと伺ったものですから……これを明美さんに手渡していただけますか? 今夜、明美さんはお仕事がお休みだそうで、どうしても今日お渡ししたかったものですから」
きれいにラッピングされた真っ赤な薔薇の花束と、リボンがかけられた小箱に入ったプレゼントが誠の前に差し出されていた。
今日は日曜日で、誠も明美も仕事は休みだった。
「……わかりました」
誠は突然のことで一瞬わけがわからなかったが、どうやら明美の店の客に違いないということだけは理解できた。
そこで、こう答えて明美へのプレゼントを受け取った。
「それじゃ、失礼します。お兄さん……」
田中と名乗るその若者は、満足したように頭を下げると、もうひとりの連れの若者を急かせるようにアパートの階段を下りていった。
「誕生日おめでとう、明美」
それからしばらくして買い物から戻ってきた明美に、誠は、ほんとうは夜に手渡すはずだったプレゼントの小箱を差し出した。
明美がテレビのコマーシャルを見て、欲しがっていた発売されたばかりの新商品の香水だ。
「ありがとう、誠」
明美はにっこりと笑って受け取ると、そういって声を弾ませた。
明美が誠からもらう初めての誕生日プレゼントだった。
今夜は誠が予約しておいた洋食レストランへ、ふたりきりで食事に行くことになっている。
明美たちが生まれ育った村では、誕生日やクリスマスを祝う習慣がなかった。
明美が高校へ通うために叔母の家に住むようになってから、誕生日とクリスマスはケーキにローソクを立てて祝うもの、ということを明美は初めて知った。
「それから、この花束は、田中さんという男性からだ」
「えっ! 田中さん、ここに来たの?」
それを聞いた明美の顔色は、突然のことで青ざめている。
「ああ、男ふたりでやって来たよ」
「その連れのひとは、たぶん、鈴木さんじゃないかしら……」
「もうひとりの彼の名前は訊かなかったから、鈴木さんかどうかはわからないけど。明美、俺はいつからおまえのお兄ちゃんになったんだ?」
「……だって、まこと兄ちゃんじゃない」
「いったい、いつのことをいってるんだよ? 誰なんだよ、あの田中って野郎は?」
「お店のお客さんなのよ。悪いひとじゃないんだけど、『好きです』だとか、『デートしようよ』だとか、最近、ちょっとしつこくて困ってるの。それにしても、どうしてこの場所がわかったのかしら……」
教えてもいない自分が住んでいるところを、田中が知っていたことを、明美はそういって訝しがった。
実は、田中は、誠と明美が一緒に歩いているところをたまたま見かけたことがあった。
そして、こっそりとふたりのあとをつけたのだった。
そのとき明美たちは、手をつないだり、腕を組んだりしていた。しかし、田中はよほど鈍感なのか、「お兄ちゃんと一緒に暮らしているの」と田中に話した明美のことばを鵜呑みにして、「ほんとに仲のいい兄妹なんだな」と思い違いをしていたのだった。
その夜の誠は、いつもより激しく明美を求めた。
明美は、そんな誠をからだの奥で感じながら、『田中さんのことで焼き餅を焼いてくれているのかな』と、すこしうれしくなった。
*
「明美、正月くらいは家に帰ってらっしゃい」
高校を卒業してから、それっきり誠の部屋に転がり込んで同棲生活を始めた明美に、母親はそういってきつく当たる。
「やだよ、そっちに帰ったらもう二度と家から出してもらえないじゃない」
明美を陰ながら応援している叔母の電話で、「田舎に帰ってきたら、監禁でもなんでもして二度と東京には行かせない」と明美の母親がひどく怒っていることを知らされていた明美は、頑として家に帰ろうとしなかった。
明美の樋口一葉の作品好きは、この叔母の影響だった。
明美が文芸部に入部したことを知った叔母は、私が一番好きな作家だといって、自分が持っていた本を明美に貸してくれた。
最初、明美は、雅文体とも呼ばれる文語体で書かれた一葉の作品に、よく意味もくみ取れずに流すように読んでいた。
しかし、叔母から「声に出して読むと意外に読みやすいから」とアドバイスされた。
そして、そうやって音読を繰り返すうちに、すっかり樋口一葉の世界観に魅了されて、明美の一番大好きな小説家になった。
「明美ちゃん。好きなひとと一緒に生きていけるっていうことは、それだけでほんとうに幸せなことなんだからね。誰が何といっても、叔母さんだけは応援しているからね」
そういって叔母は、自分の姉である明美の母親から怒られることを覚悟の上、明美を自分の家から誠のもとへ直接送り出してくれたのだ。
一葉好きの叔母のそのことばは、明美の心に深く染みた。
「そんなことはないから、心配しなくていいから。悪いようにはしないから。お願いだから、一度だけでも家に帰ってきて、明美」
「ごめん、お母さん。あたしまだ帰れない。誠さんとちゃんとしたら帰るから。それまで待っていてくれる? お願い、お母さん」
すがりつくような母のことばにも、明美はまったく耳を貸さなかった。
明美の両親、特に母親は、ひとり娘の明美が誠と暮らしていることを嫌がっていた。
明美の母は、誠のことはもちろん、誠の母の文子のこともよく知っていた。
明美と誠が小さいころから兄妹のように過ごしてきたこともよくわかっている。
しかし、田舎のご近所のうわさ話は、ときにひとを完膚なきまでに叩きのめすことがある。
高校へ通うために明美が村を離れ、街で叔母の家に住み始めたころのことだった。
誠の大叔母の千代子は、身内の恥であるのにも関わらず、「あの文子は兄をたらし込んで甘い汁を吸っていた」と、村のみんなにそういいふらし回っていたからである。
それで、誠の母親の文子が、義父の清と男女の仲だったことが周りに知られてしまったのだ。
そんな母親の息子の誠と、自分の娘の明美が結婚なんてことになったら、これからもこの田舎で暮らしていかなければならない自分たちは、相当に肩身の狭い思いをする。
明美の両親はそう考えた。
しかし、明美の両親は、「誠くんとは距離を置きなさい」などということは、盆暮れに叔母に連れられて帰ってくる明美には直接伝えられないでいた。
誠にはなんも非もなく、そんなことを明美にいおうものなら、明美がなにをしでかすかわからなかったからだ。
そうやっていえずにいたまま月日が流れ、とうとう明美は誠を追って都会へ出て行った。
おまけに、誠はバーテンダー、愛娘の明美はスナックのホステスとして働いている。
田舎で生まれ育ち、今もそこで暮らしている明美の両親には、そのどちらもが真っ当な仕事とは思えなかった。
ことあるごとに、「家に帰ってきてちょうだい」とそういって、明美の母は受話器の向こうで泣き叫んだ。
明美はその度に、「ごめんね、お母さん……」とことばを詰まらせた。
*
「明美ちゃん、このまえあんたの彼氏、あの焼肉屋で女とふたりで楽しそうにしてたよ。大丈夫? あんた浮気されてんじゃない」
同じ水商売だ。誠のことについては、聞きたくなくても嫌でも明美の耳に入ってくる。
給料をもらったら、誠は明美を連れて必ずその焼肉屋で大好物の牛タンを食べる。
ここは、誠が店で着る服などを買い揃えた後、マルに初めてご馳走になった、誠の思い出の場所だった。
比較的安価なその店も、誠にとってはかなりの出費だった。
しかし、明美が誠のところに転がり込んで以来、誠は一度もこれを欠かしたことはなかった。
そこには、なにかしらの誠だけのこだわりがあった。
その焼肉屋は、明美にとっても、誠とふたりきりで訪れる大切な場所になっていた。
「誠、また女の客とあの焼肉屋に行ったでしょ? いい加減にしてよね。何度もいってるじゃない。あそこだけにはあたしが知らない女と一緒に行かないでって」
「また、お節介な誰かがおまえに告げ口しやがったのか……」
いくら都会で数多くの飲食店があるとはいえ、朝方までやっているその店は、水商売の連中がよく利用するところだった。
そういうわけで、「あんたの彼氏がまた女と一緒だったよ」と明美に要らぬお世話の耳打ちをする者には事欠かなかった。
「誠があたしの知らない女とどこかへ行くのはいいよ。ただ、あたしが大切にしているあの場所を、他の女に土足で踏み荒らされるようなことだけは許せない」
そんなことを耳にするたびに、普段おとなしい明美にしては、珍しくこういって声を荒らげた。
「ただ、一緒に飯を食っただけだろ。そんなに怒ることはないじゃないか」
誠はバーテンダーの仕事を始めてもう二年が経っていたとはいえ、二十歳になって、やっとこれから酒の味を覚えることができるようになったばかりだ。
師匠のマルからは「まだまだ修業しないとな、覚えることはいくらでもあるからな」といわれていた。
酒に関してもそうだし、客との会話にしてもそうだし、何にしても、社会に出たばかりの誠には、まだまだ知らないことだらけだった。
「いろんな人と話をし、付き合うのもおまえのためになるだろう」と仕事が終わってから誠が誰とどこへ行こうが、店のマスターで誠の師匠でもあるマルが、いちいち口を挟むことはなかった。
とはいっても、マルにとって誠は大切な愛弟子だ。
こいつはすこし危ないな、とマルが感じた客に誠が誘われたときは、「悪いんだが、今日は店が終わってからすこし話ができないか?」などといって、誠にうまく断らせるように仕向けた。
誠は、午後二時に出勤し、明け方まで仕事をするマルより先に、午前二時には仕事を終えていた。
勤め始めた当初から、「閉店までいますから」という誠のことばには耳を貸さず、「早く出るんだから、早く上がるのは当然のことだ」と、マルはその姿勢を変えなかった。
誠はマルから、「他の女とからだの関係になるのはよく考えてからにしろよ。おまえにはちゃんとした彼女もいるんだからな」と、明美とふたり暮らし始めてからは、そうも釘を刺されていた。
「誠くん、私が奢るから、どこかへ行こうよ。おいしいものでも食べに行かない?」
「食事だけだったら……」
まだまだ修業中の身だ。もらえる給料もそんなに多くはない。
誠は母譲りのその端正な顔と、おとなしそうな見た目のせいか、お姉さまキャラの年上の女性客に誘われることがよくあった。
ただ単純に焼肉が大好きな誠は、「食事だけなら」と喜んでそれに付き合った。
もちろん彼女たちの奢りでだ。
からだの関係は一切なかった。
明美という恋人がいるのに、誠はこんなところがまだ半分大人で半分子どもだった。
*
突然、誠に訪れた死だった。
誠はその日やってきた常連の女性客に誘われて、いつもの焼肉屋へ向かっている途中だった。
「おい、ちょっと待てよ! 誰だよ? こいつ」
その店がある裏通りに入ってすぐに、女性客は、ひとりの男に呼び止められた。
その男は女の元カレだった。
「なに、あんた。あんたが彼女にしつこくつきまとっている男なのか?」
女性客から男のことを聞かされていた誠は、あきれたように吐き捨てた。
「どういうことだよ。なんで俺がお前にそんなことをいわれなきゃいけないんだよ!」
誠のそのことばに男は声を荒らげた。
そして、彼女を力ずくで連れ去ろうとした。
「やめろよ! 彼女の手を離せ」
誠は大して腕っぷしは強くはないのに、売られた喧嘩は買うタイプだった。
誠に突き飛ばされた男は烈火の如く怒り出した。
「お前は俺の女の何なんだ? 新しい男か? ふざけやがって!」
男はそう叫びながら、丸太のような腕からピストンのようなパンチを続けざまに繰り出し、誠に容赦なく浴びせた。
「やめてよ、このひとは違うって、そんなんじゃないって。やめてったら!」
男に取りすがって必死にとめようとする女のことばを無視して、女を乱暴に払いのけると、なおも男は誠を殴り続けた。
男が最後に放った強打で後ろに飛ばされた誠は、通りの電信柱に後頭部をしたたかぶつけた。
そして、誠はそのまま電信柱にもたれかかるように崩れ落ちて、動かなくなった。
「お、お前が悪いんだぞ……」
その様子を見て、ヤバイと思った男はその場を逃げ出した。その女性客も逃げた男のあとを追いかけるように走り去った。
「誠くん、しっかりしろ! おい、救急車を呼べ、それから警察もだ」
騒ぎに気づいた焼肉屋の大将が表に飛び出してきて、誠を抱き起こしながら叫んだ。
辺りは騒然となった。
誠はすぐ病院に運ばれたが、手術の甲斐もなく、そのまま息を引き取った。
明美はマルからの連絡で急いで病院に駆けつけた。
そして、その夜、誠の身に起こったことを焼肉屋の大将とマルから聞かされた。
明美は病院の霊安室のベッドに横たわる誠にしがみついたまま、マルに抱き上げられるまで、声を上げて泣き続けた。
*
誠の死亡原因は、はっきりしていたため、検察と警察によって司法解剖の必要性はないと判断された。
明美から誠の死を知らされた誠の母の文子は、大村を伴って、翌日の正午過ぎには、誠の遺体が安置されている病院へ駆けつけた。
そして、文子と明美が話し合い、誠の遺体は病院から直接、火葬場まで運ばれて荼毘に付された。
直葬には、明美、誠の母の文子と大村、誠の師匠のマルだけが参列した。
誠の遺骨は、誠が明美とふたりで暮らしていた部屋に、しばらくの間、残されることになった。
「自分は戦災孤児で、出生もはっきりせず、そのせいで、自分がどのお墓に入ればいいのかわからない」と文子がそんな話を誠にしたことがあった。
そのとき誠は、「俺はじいちゃんと同じお墓には絶対に一緒に入りたくないよ」と怒ったように文子にいった。
そのことを、誠の遺骨を腕のなかに抱いた文子はふと思い出した。
それで、文子は、「誠の遺骨をどうしたらいいのか、まだ決められないの。嫌じゃなければ、しばらくの間、明美ちゃんの側に置いてもらえないかな」と、明美にお願いしたのだ。
明美のことを心配して東京まで駆けつけた明美の叔母は、余計なことを一切いわず、三度三度の食事を明美に無理にでも食べさせた。
そして、叔母は、明美の手をとり、肩を抱いて、泣きじゃくりながら誠の話を続ける明美のことばに静かに耳を傾けた。
「なにか困ったことがあったら、すぐに電話するのよ。わかったわね、絶対よ」
誠のことを話し尽くして、明美はこれで大丈夫だ、とそう確信した叔母は、そういって優しく微笑んだ。
「自分からとは別に、誠と親しくしていた馴染客からだ」
マルは明美にそういって、誠の遺影の前に香典を供えた。
「すまなかったな……」
遺影のなかの誠を見つめながら、マルはボソッとつぶやくと、頭を下げた。
「あいつのために今はいっぱい泣いてやってくれ。あんなにいい奴はいなかったよ……」
帰り際、マルは明美にそういうと、溢れ落ちそうになる涙を隠すようにうつむきながら去っていった。
*
誠がこの世を去ってから、一週間が経っていた。
明美は小さなガラステーブルの上に置かれた骨壷の蓋を開けた。真っ白な骨に混じってすこしピンク色をしたものもある。小さな骨片を親指と人差し指でそっと摘み上げた明美は、ゆっくりと口のなかへ入れた。
「苦い……」
舌の上で転がしながらその味を確かめる。
そして、恐る恐る奥歯で噛み砕く。骨はガリっと音を立てて口のなかで飛び散った。明美はむせそうになって、あわてて飲み込んだ。
「なに気取ってんの? まこと兄ちゃん」
遺影のなかの誠は、カメラに向かって斜めにポーズをとっている。明美が持っている誠の写真はこんなものばかりだった。
まっすぐ前を向いているものは一枚もない。
明美の目からとめどなく零れ落ちる涙は、頬をつたい、顎から滴り落ちて、スカートを濡らしていく。
「死んじゃったんだね。もう会えないんだね、まこと兄ちゃん。だけど、あたしたちはずっと一緒だよ……」
口のなかの誠の遺骨を惜しむかように噛み砕きながら明美は、多くのときを今まで共に過ごしてきた誠との思い出を噛みしめる。
ふと、明美は誠のことばを思い出した。
それは、あの夏の日、明美が誠と初めてひとつになったあの夜、誠がぽつりとつぶやいたひとことだ。
「月が綺麗ですね」
紺青の空に輝く満月を見つめながら、誠は確かにそういった。
突然、半分開いた窓から舞い込んだ一陣の風がカーテンを揺らした。
「明美……」
その瞬間、明美は自分を呼ぶ誠の声を聞いた。
明美はあわててカーテンをめくり、窓の外を見回す。
どこかで鳴いている虫の音は、冬の匂いを微かに纏った木枯らしに攫われ、力なくとぎれとぎれに聞こえてくる。
明美が見上げた濃紺の夜空には、明るく澄んだ十三夜の月が静かに佇んでいた。
「あたしにとって、月はずっと綺麗だったよ、まこと兄ちゃん……」
やわらかな月明かりは、明美の心を包みこむように、そっと寄り添っていた。
〈了〉
*
最後までお読みいただきありがとございました。
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