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掌編小説「白い朝の記憶」
午後十時三十分過ぎ、ディナーの客もすっかりひけた頃、白樺の木でつくられた年代物の店の扉が開かれると、しかめっ面をした黒木が軽く右手を上げて入って来た。
店の中で一日中流れ続けるロシア民謡が外へと逃げ出す。
黒木は俺を見つけると
「ちょっと聞いてよ、公平ちゃん」
と、タバコと酒でなかば潰れたかすれ声で話しかけてきた。
まあ、いつものことと言えばそうなのだが、今日は少しばかり様子が違っていた。
「公平ちゃん、俺、死にに行くのよ」
カウンターの背もたれのない皮張りの大きめの椅子に力なく座り、両手をだらんとぶらさげて、すこしのつくり笑いとその角張った顔、カモメが二羽ならんだようなへの字眉、その下に決して笑うことのない冷たい光を放つふたつの目、パンチパーマ、いかにもそちら筋のひとだと一目でわかる出で立ちの黒木はそう言って力なく笑う。
俺がどうしたのか質問を投げかける間もなく、黒木はなかばあきらめにも似た言葉をもう一度続ける。
「こうへいちゃん、おれ、しににいくのよ」
それさっきも聞いた。よっぽど嫌なんだろうな。そりゃそうだろう。
死にに行くなんて、おだやかな話ではない。
黒木とはそんなに長いつき合いではない。
俺は一時期かわった行動をしたことがあった。このまちの商店街を南北二キロメートルにわたって突き抜けるアーケードを、派手な黄色とオレンジの縞もようのジャケット、それに見た目にも鮮やかな青のズボンを身にまとい、大声でそのアーケードのど真ん中を歌をうたいながら歩くという行動だった。異常な行動だった。
そんな風だからある日正面からきた男に、お前ちょっと来いと暴力団の事務所に連れていかれた。その男が黒木だった。
そんな俺のことを面白がってくれ、それからのつき合いだから、半年ぐらい経っただろうか。
黒木のいつもの一杯目の定番、ロシアのウォッカ、<ストロバヤ>を目の前にすすめると黒木はくいっと喉に流し込み大きくため息をついた。
そして俺の顔をみてまた同じことを言った。
「コウヘイチャン、オレ、シニニイクノヨ」
だからもうわかったってとさすがに俺は笑い出しそうだったが、笑っちゃいけないことだし神妙にしないと、と思い直し、それで一体どうしたの黒木さん?と答えを待ったが、
「公平ちゃん、いつものやつ」と、黒木は俺の言葉をさえぎった。
黒木の言ういつものやつとは、ボルシチとピロシキだ。ピロシキは彼だけの特別バージョンで、厚めのチェダー系のスライスチーズを上に乗せて、それを少しあっためて冷たいレタスで巻くのだ。
黒木は猫舌だからそれがたいそうお気に入りだ。
食べ終わると黒木は「いつもの締めのあの辛いやつちょうだい」と、さいそくする。
唐辛子のウォッカ、<ペルツォフカ>をひとくち口のなかでその辛さを味わった後、残りを一気に喉に流し込むと黒木は、
「公平ちゃんまたね」
と言いながら長財布から皺のない1万円のピン札を取り出すと静かにカウンターの上に置いた。
「黒木さんお釣り!」と言う俺の声を背中でバイバイと払いのけ去っていった黒木の後ろ姿には漢であることのやるせなさが漂っていた。
店のドアの銅製の鐘が奏でるカランカランという乾いた音が、一日中この空間に流れているロシア民謡の風景の中に、世間の日常にふと紛れ込んだ黒木という異質な男の物語のように不協和音を響かせていた。
黒木は二度と戻ってこなかった。誰も彼のその後のことは知らない。
*
俺の勤めているロシヤ料理店は、朝十一時から翌日朝方の五時までの営業と、少し変わっていた。
この店を始めた女性は、新撰組の池田屋事件で名を知られる熊本藩士宮部貞蔵のお孫さんで、営業を始めてからもう三十年以上経っていた。
そういう関係もあってから、この街の名士が夜の社交場のひとつとして足しげく通い、ロシア風オードブル、通称ザクースカをツマミに、いろいろな種類のウォッカを嗜んだため朝方五時までの営業形態を取るようになったと言う。
深夜零時を過ぎたらほとんどの客がウンターに座る。三十ほどのテーブル席には、たまに見慣れないやつらが座っていたがその話については結局誰にも言えなかった。
「今日のあの客ほんと最低だよね」
きつね顔のユミが吐き捨てるように言った。
本来客の悪口は店の中ではもちろんのこと、外では決して言ってはいけない。
誰が聞いてるか分からないからだ。
けれども彼女たちにとってみればこの俺は愚痴れる数少ない相手だった。
彼女たちに対していちいち、ご注文は?などとは聞かない。
じぶんたちのタイミングで欲しいものは注文してくる。
彼女たちにとっての仕事終わりの溜まり場みたいなものだった。
「公平ちゃん。今日はいっぱい頼むからね」
三人の中で一番年若い、彼女たちがこれまで話した話の内容からつかんでいる今の情報では二十八歳くらいだろうと思われる冨貴がその愛らしい声で言った。
冨貴は彼女たちの働くクラブのチーママだ。
なんでも以前東京銀座の有名なクラブで働いたことがあり、語学堪能、何かしらの武道の黒帯らしい。
前に一度、店で泥酔して暴れだした客に戸惑う黒服の前に躍り出て一撃で沈黙させたことがあったと言う。
こうして着物を上品に着こなしてしゃんとしている冨貴からはとても想像できない。
ひとは見かけによらぬものとはまさにこの事だ。
サーモンのマリネ、牛タンの塩漬け、キャビアの盛り合わせ、などの前菜、 羊肉のステーキオムレツ添え、ピロシキ、ペリメニ、カーシャ<ロシア風粥>が今夜の彼女たちの注文だった。
「あの社長さん、冨貴さんに本気みたいだよ。まだ独身だし四十歳そこそこでハンサムだし、冨貴さんの弟さんにもお店を持たせてやるって、すごくいい話だと思うけれど 乗り気じゃないんですか?」
そう言うきつね顔のユミのことばに答えもせず、
ズブロッカのジンジャーエール割り、<モスコミュール>をひとくち飲むと冨貴は、
「公平ちゃん、いま幸せ?」
と、悪戯っぽく笑った。
彼女はいつもこんな調子で俺をからかう。
俺には紗季という彼女がいるのをすでに知っているのに。
いつも無口なエミが口を開いた。彼女は先月まで自分で喫茶店をやっていたのだが結局うまくいかず35歳にして同じ水商売の飲み屋にその身を初めて投じた。
もちろん年下の冨貴をチーママとして立てないといけない立場だ。
この業界は初めてでいちばんの新入りなのであるから至極当然のことである。
「羨ましいよ、冨貴さん」
もちろんさん付けだ。ここでの飲み食いは全て冨貴が持つ。
本当に羨ましそうだが、エミには望んでも叶う話ではない。
彼女はあまり器量がいい方ではない。
内面が顔に滲み出ると言うが優しそうでもない。
人当たりも良い方ではないし、喋りが面白いわけでもない。ないない尽くしだ。
彼女がなぜ冨貴と同じクラブに雇われたのかについては結局解らず仕舞いだった。
「結婚ねぇ.....」
冨貴はため息まじりに呟いて俺を見つめている。
その瞳は優しく揺らめいていた。くちびるの端にすこしだけ笑みが浮かんでいる。
その冨貴の横顔を見つめながら両側に座っていた女たちは、
「公平ちゃん、まさか冨貴さんに惚れているんじゃないでしょうね?」ケラケラケラと笑っている。
冨貴は表情を変えず視線をサーモンのマリネに落とすと、その一枚と下に添えてある野菜も少しだけ箸で摘まみ口の中にそっと放り込んだ。
ピンク色のサーモンがうす紅色の冨貴の小さなくちびるの中に吸い込まれて行く。
「ちょっとだけ酸っぱいけど、美味しいよ公平ちゃん」と、冨貴は俺の瞳を見つめながら、ことさらに声を張り上げて言った。
俺が冨貴と知り合って初めの頃は、美人だし話も面白いし気さくだし良い女だなあと思ったこともあった。
正直に言うと仄かな恋心も抱いていた。
けれども、冨貴のことを知れば知るほど彼女と俺の人間としての格の違いを思い知らされ、そんな恋心はどこかへ吹き飛んでしまった。
今はただ、尊敬の念に堪えない。
それから半年ほどたったころ、冨貴はその社長の結婚の申し出を断り、弟とふたり東京へ旅立ったと聞かされた。
*
彼女達を見送り店の後片付けを終え外に出ると、小鳥たちのさえずりが聞こえ始めていた。真夏の空は白み始めていた。
ゴミ収集所ではカラスがゴミ袋をついばみ、舗道に残るいくつもの嘔吐物の跡、ドブネズミがチョロチョロと下水から上がったばかりのその黒く濡れた姿を何の恐れも抱かず人の前に晒していた。人以外の動物たちの朝食の時間が始まっていた。
いつもの朝の風景だ。
収集所にぞんざいに放置された色々なゴミが混ざったその匂いの中で消え入るような微かな声がしていた。
その声を頼りに黒いゴミ袋をひとつふたつとどかして探してみるとひとつのゴミ袋に行き着いた。
中をあけて覗くと真っ白な子猫がゴミの中に捨てられている。
なんてことをするんだ。生き物をゴミの中に捨てるなんて...俺は言葉を失った。
そーっと手を伸ばし手のひらの中に包み込むように 拾い上げた。
その白い体は小さなお菓子のようにフワフワしていた。
真っ白だった。
そいつは俺の手のひらの中で、その小さな体をおびえるように震わせていた。
まだ目も開いていない。
今日から俺が守ってやる。そう俺はこころに決めた。
朝日を水面にきらきらと映してたゆたう川の流れを右手に見ながら家へと向かう。
左手の東の空から昇る太陽の日射しは店を後にしたときよりもその輝きを増していた。
俺の手のひらの中では小さな命がぷるぷると震えていた。
必死に声を張り上げていた。
その声は、お腹が空いたと言っているのか、お母さーんと呼んでいるのか、生きたいよーっと叫んでいるのか、愛してほしいと訴えているのか、俺には全く見当もつかなかった。
ただ愛しい気持ちだけはとめどなく込み上げてきた。
一緒に、あせらず、すこしづつ歩んで行こうな。
俺はそいつに話しかけた。
心を、体を、おたがいに抱きしめ合いながら、一歩づつな。
一歩づつだ。
*
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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