こだわりの、真っ青なぬりえ
コノビー編集部に配属される以前、私は社内の児童発達支援部門に所属し、療育教室の指導員をしていた。
療育というのは、簡単に言うと、主に発達障害のあるお子さんに対して、本人の能力を伸ばすべく、専門的な授業を行う通所支援機関のことである。
学校というよりは、塾や習い事教室に近いと思って欲しい。
そこで数年間、「わか先生」をやっていた。
たくさんの未就学児を担当したが、どのお子さんもそれぞれに可愛く、当然ながら個性もそれぞれで、貴重な幼少期に関われたことに、今も感謝が絶えない。
全員がほんとうに大好きだったが、特に印象に残っている生徒が何人かいる。
今回は、とある年長の男の子との思い出を書いてみたい。
彼は、真っ青な少年だった。
年長さんになったばかり、5歳の彼とはじめて会ったときから、小学校に送り出す次の春まで、彼のファッションは、見事なまでに青一色だった。
服だけでなく、リュックも靴も、手に持っているお菓子のパッケージもだ。
仮にユウ君、と呼ぶことにする彼は、自閉症とADHD(多動性)の診断が出ており、特に習慣的なこだわりがこの時期は強かった。
起床から就寝までのスケジュールを正確に記憶しており、朝食のメニューは何もぬっていないトースト半分と牛乳、別のお皿に盛りつけた4カットのゆで卵の白身だけ。
何時の電車のどこの車両に乗るかも決まっていて、いつもの公園をおなじルートで歩いてから水を飲み、教室までやってくる。
ユウ君にとって、「同じであること」は安心して生活するための非常に重要な要素であって、台風だろうが風邪をひこうが、もっと楽しそうな何かがあろうとも、この「習慣」が優先される。
公園の一部が工事中で、いつものルートが通れないときには、習慣が崩れたせいでパニックになってしまうのだ。
私との授業も、うまくできないことがあったり、課題の内容がユウ君の予想と異なると、情緒が乱れてイスを投げたり、癇癪を起した。
ユウ君は「いつもとちがう」と「先の見通しがたたない」が苦手だったが、私と授業をすることが「習慣化」してくると、だんだんと小さな想定外には耐えられるようになっていき、言語を含めたコミュニケーションも、格段に成長した。
彼は接続詞と形容詞を使わない話し方を好んだ。
(使い方が臨機応変で、抽象的な概念なので苦手なお子さんが多い。)
その一方で、こちらの話す内容への理解は非常に高かった。
私との授業は毎週水曜だったので、「わか、せんせい、すいよう」とよく話してくれ、笑った顔が、ものすごく可愛かった。
徐々に打ちとけ、私もユウ君の性格や特性がつかめていったが、特に「青色」へのこだわりが非常に強く、身に着けるものはもちろん、つみきも青色しかつまないし、折り紙もおはじきも、青以外のものには興味を持たなかった。
「青が好きなこと」自体は社会的にまったく問題がない。
なので、ユウ君の授業では、パニックと癇癪のコントロールを獲得することが目標設定され、ご両親も、息子が許容できる色が増えることは嬉しいが、他の課題より優先順位は高くない、というご意見だった。
授業ではユウ君とご家族が、より安心安全に暮らしていくためのスキルを習得できるような課題を組む。
ユウ君にとっては「まだできないこと」や「苦手なこと」に少~しずつでもチャレンジしなくてはいけない時間なので、あまり詰め込むと疲れてしまう。
そこで、専門用語で強化子(きょうかし・本人が安らぎや楽しさを感じられる対象物のこと)という時間を、課題の合間合間にはさんでいく。
仕事の休憩にコーヒーを飲むような感覚で、心身のブレイクタイムをとるのだ。
ユウ君にとっての強化子は、パズルや足し算のような、答えが決まっていて、一人でもくもくとできる作業。
その中でも「ぬりえ」が一番好きだったので、特に難しい課題を終えた後は、必ずぬりえを行っていた。
私は毎回12色のクレヨンを用意したが、ユウ君が使うのは青色だけだ。
これは「課題」ではなく「休憩」の時間なので、ユウ君の好きにぬってくれて構わないのだが、作業に集中している時はまったく言葉を話さないユウ君のBGMがわりに、私はちょこちょこ話しかけてみていた。
内容たいしたものでなく、「こいのぼりの絵だね、3ついるね」や「くまの親子だよ、本物のくまはちょっと怖いから、もし会ったらビックリするね」など、ぬりえの絵柄にちなんだ、完全な雑談だった。
そして、ときどきユウ君の調子がよさそうなときには、「他の色もつかってみる?」や「わか先生は赤色が好きだね」など、色の話を意識的に行った。
すると、授業が半年すすんだ頃に、一度だけ、私の声かけに反応して、水色のクレヨンをこわごわとり、ぬりえの一角を水色でぬってみたことがあった。
私は「お!!ついに!」と身を乗り出したが、ユウ君はいつだって真っ青にぬりあげる紙に、他の色が入ったことがイヤで、そのぬりえをすぐに破いてしまったのだ。
私は、おおいに反省した。
発達指導員をしていると、つい欲張って「これもできたら」「あれもできたら」とできることを増やしたくなってしまう。
だが、ユウ君をはじめ、子供たちとその親御さんは、発達のために生きているわけではないし、教室に通うこと自体が、「楽しみ」でなくては日々がツラくなってしまう。
いわゆる「健常者」を中心に作られた世の中に、無理にハマる努力というのはイビツなもので、そんなことよりも、この子の「好き」や「やりたい」に向き合う場所でありたいのに。
ユウ君は真っ青なぬりえをひたすらにぬっていくことが楽しく、安心できる遊びなのだ。
誰にも迷惑をかけていないこの好みに、「他の色も使ったらもっといいよ」なんて、私の価値観の押し付けでしかない。
はぁ、反省。
ユウ君との1年間は、私の指導員生活に、貴重な学びをたくさんくれた。
彼は生徒でありながら、越えられない師でもあった。
それからのぬりえタイムは、純粋なおしゃべりのみをしていった。
話すのは私だけだが、ユウ君はときに頷いたり、帰宅してから、「わか、せんせい、くま、おやこ、言ってた」など、私の雑談を親御さんに反芻して話すことを日課にしており、親御さんからも、過去の話をあまりしないので、毎回聞けて嬉しいというご意見をいただいていた。
ユウ君はたった1年で、複数回の会話のラリーや、自分がやりたいことを言葉で伝えるスキル、予定の変更に対する部分的な妥協など、多くの成果を身に着けた。
初期には1回の授業で2~3回は癇癪を起していたのに、最後の方は、落ち着いた態度で終始すごすことが多くなり、ご両親からは、日常の嬉しいエピソードを聞くことも増えた。
ユウ君は、彼にとって生きづらさがあるこの世界で、ほんとうにほんとうに、たくさんたくさん、がんばったのだ。
そして私との最後の授業。
今日で最後だよ、と伝えると、「わか、せんせい、おべんきょう、おしまい」としっかり理解した言葉を返してくれる。
最後のぬりえタイムには、ユウ君の好きなリスの絵柄を選んだ。
兄弟だろうか?やや大きさに差がある2匹のリスが仲良さげに笑い合い、キッチンでコーヒーを入れている。
同じ柄のマグカップを1つずつ持ち、木のイスに腰かけているイラストだった。
いつも通り、スッとつかんだ青いクレヨンで、几帳面に端からぬられていくプリントを眺めていた。
木目が入った丸太のテーブルも、壁にかかったエプロンも、コーヒーミルもクッキーのお皿も、丁寧に青くぬられていく。
美しいな、と思った。
「青」という色の、ひたむきで静かで、それでいてシンの強いイメージは、きっちりした秩序を好みつつも、どんどん生活の幅を広げていった、ユウ君のこの1年を象徴していた。
「この最後のぬりえ、わか先生もらいたいな。ずっと大事に飾っておくよ」
ユウ君は、無言でうなずき、どんどん青を広げていく。
右利きなので、先に右側に描かれた、少し小さいリスの体や服、手に持ったマグカップを青くぬる。
「こっちのリスの方が少し小さいね。兄弟かな?親子かな?」
ユウ君は答えない。いつもそうだ。
2匹のリスの間に描かれた、たくさんのクッキーを1枚ずつ染めていく。
「わか先生とユウ君だったら、この小さいほうがユウ君で、となりの大きいほうがわか先生だね。大人のほうが大きいからね。」
左側の大きいリスも、小さいリスとおそろいの青色になり、ますます仲がよさそうに見える。
「仲良しだから、マグカップもお揃いだね。おんなじ絵が描いてあるね。」
そこで、規則正しかったユウ君の手が止まる。
握りしめていた青いクレヨンを、他の色たちが横たわる、プラスチックのケースに戻す。
塗り終わった時には、いつも「できた、おしまい」と教えてくれるのだが、何も言わずにクレヨンケースを眺めている。
もうおしまいにするのかな?と思い、スライド式の箱を取り出そうとしたその時、ユウ君はもう一度、クレヨンに手を伸ばす。
手に取ったのは、なんと真っ赤なクレヨンだった。
え…っとフリーズしているうちに、ユウ君は手に持ったクレヨンで、左側の大きいリスのマグカップを赤くぬった。
それはこの1年、まったく想像できなかった光景だった。
青以外は不慣れだからか、大急ぎで赤のクレヨンをケースに戻したユウ君は、ぬりえを持ち上げ、私に見せるように両手を伸ばして説明してくれた。
「こっち、リス、わか、せんせい。わか、せんせい、あか、スキ。」
欲しいといった最後のぬりえ。
私に見立てた大きなリス。
そのカップを、前に話した好きな色で…?
もう半年も前のことなのに…?
「スキ」なんて形容詞も、話すことはできなかったはずなのに。
「ぬりえは青」が、彼の愛した絶対ルールで、ゆずれない、こだわりだった、はず、なのに…。
差し出されたぬりえを受け取る。
真っ青な世界の中に、一点だけ燃える赤。
これは秩序を乱す、汚点だろうか。
それとも、新しい物語の、はじまりだろうか。
誇らしそうなユウ君の笑顔を、私の都合がいい方に解釈することは、果たして許されるのだろうか。
こんな甘美な瞬間を、6歳の少年から受け取る贅沢が、許されるなんて、あり得るだろうか。
鼻の奥をツーーンとした刺激が突く。
顔の皮膚の下が熱い。意思でコントロールのできない刺激が、心が受けた衝撃の大きさを体現していく。
作業中、おしゃべりをしないユウ君。
とりとめなく、話し続ける私。
彼のまだ6年間しかない人生の、大事な大事な1年を、2人で毎週、そうしてすごした。
…届いていたと、いうのだろうか。
短くはなかった指導員生活。
指導時間中に泣いたのは、後にも先にも、ついにこの日だけだった。
ユウ君は「空気をよむ」や「表情から察する」が苦手だ。
1年一緒にやってきたのだ。私はよく知っている。
だからすぐに言葉にしなくちゃ。具体的に。
「ユウ君が、わか先生の好きな色を覚えてくれてて嬉しい。」
「はじめて赤のクレヨンを使ったね、ビックリしたよ、上手に塗れたね。」
「すごい!スキって言葉、つかえたね。ユウ君のスキなものを教えてよ。」
褒めたいことがたくさんあるのに、溢れて何も声にならない。
コミュニケーションを教えているクセに、最後に悪い見本になってしまった。
そしてユウ君のコロコロとした笑い声を、また都合のいいように解釈する。
ユウ君のご家族がうらやましかった。
もし私もそうだったら、目の前の細い肩を、なんのてらいもなく、全身で抱きしめることができたのに。
こんなに嬉しい日がやってくることを、過去の私に伝えられたら、どんな困難にも歯を食いしばれたと思う。
それくらいの、出来事だった。
あれから数年がたち、結婚して子供をもった今でも、ユウ君の最後のぬりえは、私の宝物だ。
私の仕事は、発達指導員から、ウェブメディア編集者に変わったが、青い世界の中にある、赤いマグカップをみるたびに、今みている世界は狭くないか、未知のモノと出会う努力をしているだろうか、と自問する。
誰でも新しいことや苦手なことに挑戦するには、大きな決意が必要だ。
「同じであること」が安心の根底にある人ならば、なおさらに。
ユウ君があの日、赤のクレヨンをつかんだ勇気は、私の中に、消えない明かりを灯し続けている。
もともと超デジタル音痴だった私が、メディアの人として歩む日々には、大変だな、難しいな、うまくできないな、と思うことがゴロゴロある。
そんな時には、くさってしょげたり、誰かを責めたりするよりも、立ちはだかる壁をにらみつけ、右手を振り上げる私でいたい。
安定よりも「誰かを喜ばせること」を選んだ、ユウ君のクレヨンと同じように、「もっとな自分」になるために、困難と闘う、剣をとる。
壁を壊したその先に、まだ届けられていなかったユーザーが、きっといると信じているのだ。
ユウ君の小学校生活は、どんな色に満ちているだろう。
真っ青なぬりえの秩序を、今も愛しているだろうか。
多くの人が交わる、このカラフルな世界の中で、きっと彼らしく輝いている。
わたしの好きな色は、赤。
青の少年が灯した、新しい自分を目指す、決意の色だ。
記:瀧波 わか
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