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「いのちの重さ」の実感値
来月で3歳になる娘は、2歳児としてのラストスパートをかけているのか、思考と言葉が加速度的に成長している。
まだまだ発音自体がつたなかった少し前は、単純な「これなあに?」に付き合っていればよかった。
しかし、モノの名詞限定だった質問バリエーションは、あれよあれよと高度になり、理由や関連性、そのものがもつ意味合いにまで及んでいる。
これは同時に、親に求められる「説明スキル」が爆上がりしているわけで、なんとはない会話から発生した無垢な疑問に、ウッッと言葉を詰まらせてしまうこともでてきた。
つい先日も、こんなことがあった。
天気予報がみたくてつけた夕方のニュース番組で、ベジタリアンやフルタリアンなどの、限定的な食生活を貫く人々を特集していた。
はじめて聞く単語に娘は反応し、「ベジタリアンってなに?」とまっすぐに尋ねてきた。
名詞を説明することは簡単なので、「野菜しか食べない人のことだよ」とすぐに返す。
すると2歳の頭脳はぴぴぴっと違和感を感じたもようで、「なんで?」といぶかしげな声色をだす。
ベジタリアンに至る思想と目的は、実際のところ、さまざまあるのだろう。
しかし「いろいろだね」ばかり答えていても、埒が明かない。
ここは代表的な理由を伝えるか、と考えた私は、「動物やお魚は生きてるからさ、生き物を食べちゃうのが、可哀想だなって思うからだよ」と話した。
娘は2秒ほどのあいだに、長いまつげを3回大きくパチパチ動かし、さらなる疑問を口にした。
「…じゃあ、おやさいは、いきてないの?」
不意に私はハッとして、まだ自分の腰より低い位置にある、澄んだ両目にくぎ付けになってしまった。
すべての「いのち」は同等なのか
わが子に真剣に教えなくてはいけないと、身構えてしまうテーマはいくつかある。
お金、性、差別、戦争、そして「いのち」。
私の想定より幾分はやかったが、この時はじめて、重要テーマのひとつを語る瞬間がきたのかもと、頭の隅で察知していた。
「いのち」はすごく大事なもので、尊いもの。
替えがきかない、たったひとつのもの。
私たちは幼少期より、道徳教育でそう教えられており、おけらだってアメンボだって生きているから友達だと、高らかに歌ってもきた。
あの曲以外でおけらが私の人生に登場したことはないのだが、それでもおけらのいのちも大事なのだと、学習してきた。
しかしいま、「動物を食べるのは可哀想なのに、野菜を食べるのは野菜が生きていないからなのか」と頭をひねる娘がここにいる。
そこで私が伝えたくなったのは、完璧に道徳的とは言えなくても、母なりの正直な言葉だった。
見上げる娘に視線を合わせて答えてみる。
「いや、お野菜も生きてるよ。」
まずは事実を教えたい。
「でもね、ひとが感じることのできる、いのちの重さが、野菜と動物ではちがうのかもって、ママは思うよ。」
娘よ、これは正解でもなんでもないが、我が家の大事な教育なのだ。
感覚的だが一般化している「いのち」の価値
さきほどの一文を読んで、いやいや、命は等しく尊いよ、動物も野菜も人間もかわりないよ、と思う方もいると思う。
そんな方をねじ伏せる意図はないが、実生活でかんじる、いのちのスケールに関して個人的な考えを書いてみたい。
職場に「忌引き制度」がある人は多いと思う。
身内が亡くなったときに、公的に休日を取得し、場合によってはお見舞金がもらえるような仕組みだ。
なぜ忌引き制度があるかというと、ごく近しい家族の死は、本人の生活と精神に大きな影響を及ぼすことが、公然と認められているからだ。
配偶者や親が亡くなれば、仕事どころではない。人生の大問題だ。
その感覚をパブリックに共有できているからこそ、この制度は存在している。
では、「人間」からすこし離して、「動物」だったらどうだろう。
いまからするたとえ話は、会社の風土や雰囲気によって大きく左右されるので、あくまで私の職場のイメージで話すことを許してほしい。
もしも私が「10年飼っていた犬が亡くなったので、今日は休ませてください…。」と朝いちで連絡したとしよう。
周囲の反応はどんなものだろうか。
もちろん、休ませてくれると思う。
上司も同僚も眉をひそめて同情し、それはショックだったね、なんてお悔やみもいただくかもしれない。
だがしかし、まったく同じシチュエーションで、「丹精込めて育てていたバジルが枯れてしまって、とても仕事が手につかないから休ませて…。」と訴えたなら、どうだろう。
あくまで予測だが、どんなに憔悴しきった声で涙交じりに話しても、気持ちよく休ませてはくれない気がする。
これはつまり、犬とバジルでは、いのちの重さがちがうからではないのか。
より厳密にいうと、実在としての「いのちの重さ」ではなく、人々が想像力として、実感できる「いのちの重さ」がちがうのだ。
犬とバジルじゃ極端だよ、と思った方も、並べてみるとわかりやすいかもしれない。
犬、猫、うさぎ、ハムスター、インコ、カエル、熱帯魚、カブトムシ。
上記は等しく、メジャーなペットであるはずだが、サイズが大きく哺乳類に近いものほど、いのちの重さを感じやすく、鳥類、両生類、魚類、虫と種族が遠ざかるごとに、その重さは薄れないだろうか。
少なくとも私はそうだ。
粗末にしてよい命などないと確信している一方で、くだんの「ペット忌引きで休んでいい境界線」がインコあたりにひかれてしまっている。
その人が愛着をもって育てたならば家族も同然で、亡くした時の悲しみは他人には計れない。そんなことは知っている。
それでもなお、「カブトムシでは休まないでよ。」が胸の中にある。
それは、お頭付きの豚の丸焼きから、「残酷だわ」と目をそらす一方で、貝殻ごとグツグツ焼かれるサザエに「おいしそうね」と笑いかける感覚に似ている。
または、枯れたバジルの代わりを購入する人に、「次のは長持ちするといいね」なんて思うくせに、愛犬が亡くなった当日にさっそく新たな犬を探す人を、どこかで非難するような気持ちかもしれない。
理屈よりも、もっと反射的な感覚として、「いのちの重さ」はそこにあるのだ。
もっとも大事な教育とは
いのちの重さのくだりを聞いた娘は、じっとこちらを視ていたが、するっと興味がそれたのか、「あ、ぎゅうにゅうのみたかったんだった~!」と冷蔵庫にダッシュしていった。
白い大型家電が目に留まり、同じく白い大好物が頭をよぎったのかもしれない。
てってけ走る後ろ姿をみて、思う。
野菜と動物のいのちの価値や重さなど、ずばりの答えがない問題に、この先いくつ答えることができるのか。
あいまいで正誤の差分がないものほど、そのまま伝える言葉が必要なのだ。
「この情報とこの考え方は知っているが、それでも答えがでない」という全貌を知ることが重要だ。
今回の主題である「いのちの重さ」を、2歳の娘は理解できなくていい。
当たり前だ。
ただ、すぐに3歳児になり、いずれ小学生にも思春期にもなる娘の母親である私は、「正解はわからないけど、ママはこういう理由でこう思う」を言葉で伝える努力がしたいな、と願う。
娘がそれを否定してもいいし、退屈に感じてもいい。
そして間違ったことを言ってしまったときには、はっきりと誤りを認めて、謝罪したい。
私の考える、幼少期にもっとも学習しなくてはいけないことは、「親も間違えることがある」だ。
親は万能じゃなければ、さして賢くもない。
でもそんな親が自分なりの言葉で独自の考えを表現していいように、君は君の感じたとおりを、正しくなくても臆さずに話せばいい。
そのために、言葉と思考は武器になる、だから勉強は君を助けるのだと、いつか娘に、教えてあげたいのだ。
そして今日も考える。
おいしそうに、のどを鳴らして牛乳を傾ける娘のとなりで。
一番大事なこの「いのち」に、いのちの実感値を伝える言葉を、まちがえながら、編んでいる。
記:瀧波 和賀
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