役目を終えたら、土に還すの
私の娘は2歳。
近い時期に出産をした友人には、第2子ラッシュが起きており、今年出産した人や、現在妊娠中の人が多い。
保育園の所属クラスも、兄弟児がいる子ばかりだ。
メディアが発表する「兄弟、年の差アンケート」のような指標でも、3歳差以内に2人目を産む方が、だいたい過半数を上回っている。
なので、今のところ3歳差以内に第2子を生む様子がない私は、周囲からみて、「少数派」なのだと思う。
保育園でも街中でも病院の待合室でも、娘とすごす私の元には、
「2人は生まなきゃダメよ~。」
「次は男の子ね。男の子は可愛いわよ!」
「ひとりっこじゃ可哀相でしょ?」
といったご意見が多く寄せられる。ほんとに多く集まってくる。
そしてSNSしかり、対面会話しかり、こうゆうことがありました、と私が話すと、多くの方が
「ひとの家庭のことなのに、余計なお世話よね!」
「なんてデリカシーのない人!」
「それってハラスメントの一種じゃないのっ!?」
と、メラメラに怒りコーティングされた反応を返してくれる。
私はこの現象をみていて思う。
おやおや、ずいぶん「エネルギー値」に差があるな、と。
子供の数が多いとエライの?
だいぶあおりっぽい見出しになってしまって不本意なのだけど、いわゆる「ひとりっこ反対派」に対するイラだちの根底にはこれがあると思う。
言うまでもなく、子育ては子どもが何人でも大変だし尊いし、今の時代、経済的な理由やキャリアプラン、不妊や体力など親の身体的な問題、頼れる人がいないという育児の担い手不足など、各家庭はさまざまな状況を抱えている。
「同じお産は2つとない」というが、同じ家庭環境の家族だっていないだろう。
みなそれぞれに、収入がちがい、住環境がちがい、親との関係性がちがい、歩みたい人生像がちがい、そして望む子供の人数と、実際に授かり、育てあげることのできる子供の人数がちがう。
容姿や勤め先や出身地がちがうように、当然、ちがう。
しかもそれは、思い描いた通りになるとは、ちっとも限らない。
本当は2人以上の子供を望んでいたが、上記の理由が複雑に絡み合い、実現が困難な方だって多い。
その心の葛藤は、他人が気安く触れていいような代物ではなく、当事者ですら頑丈な箱にカギをかけて、胸の泉の深い底に沈めておくようなモノかもしれない。
そんな「ままならないワケ」があって、結果的にひとりっこの家庭もあるし、もともと子供の人数は1人が最適だと思っている家庭もあるし、そもそも後に2人目を望んでいます、という家庭もある。様々だ。
そうゆう意味では、「理由なきひとりっこ」というのは存在しない。
どの家庭も、何らかの感情や理由を抱き、ひとりっこを育てている。
こうした「いろんな家庭がある」という認知は一般的であると思うのに、「ひとりっこ」に言及してくる他人は後を絶たない。
給料いくら?なんであんな儲からない仕事してんの?
旦那さんって性欲強い?夜はどうなの?
なんで狭い家に住んでるの?将来設計が甘そうだね?
ここまで直球な質問をしてくる人は、ほぼいないだろう。
私もいまだ出会ったことはない。
しかし「なぜ2人目を生まないのか」という意味を含んだ投げかけを他人にすることは、金銭・性、そして人生観に関して、それくらい不躾なことを聞いているのと、時にイコールだ。
だから聞かれた人は怒ったり傷ついたり、嫌な思いをすることが多い。
嬉しく思う場合は、ちょっと思いつかない。
こう書くと、完全にタブーで、ヤバさが半端ない質問であるのに、どうしてこうも頻繁に出くわすのであろうか。
天気みたいに、なんでもないんだ
そうそう、この記事を書こうと思った理由なのだけど、「ひとりっこ反対派」によく出会う旨をツイートしたところ、コメントでも引用リツイートでも、発言主に対する怒りが炸裂しまくっている声が多くて、ちょっと戸惑ったからだ。
その声には2種類あって、
自分も言われたことがあるが、こうゆう理由があるのでショックだ、とご自身に置き換えて怒っている方と、
なんで各家庭の事情に土足で踏み込んでくるのかしら、無神経にもほどがある!と、発言者のスタンスそのものに怒っている方。
たしかにTwitter界ではこの2つの意見に出会うことが多いし、声をくれたみなさんが「嫌だな」「間違ってるよ」と思うお気持ちは、1つずつ読ませていただき、私なりに受け取っている。
そう感じることは自然であるし、おツラい事情がある方もいて、そうでなくても、ひとりっこという家族の選択を否定されてしまっては、不快に思って当然だ。
ただ、あくまで個人的な話なのだが、「子供は絶対2人以上よ!」系のご意見に対して、私は何とも思わない。
ひとりっこのメリットを知っているとか、望んだ家族構成だからとか、娘ひとりで十分かわいいからとか、そういったことではなく、
私にこう話しかける誰かは、決まって何のためらいも、少しの緊張もなく、言いにくさなど存在しない、まるで天気の話題のような何気なさで、この言葉を発するからだ。
もう10月なのに暑いですねー、2人目考えてるんですか?
雨が続くと洗濯物たまりますよねー、次は男の子が欲しいでしょ?
雑談なのだ。完全に。
いっそ無意識に口にしている人もいるのではないだろうか。
「子供の人数」は家庭ごとに事情のことなる、複雑でセンシティブな問題だ。
これは事実で、どうしたって聞いてほしくないし、何回耳にしても嫌悪を感じる、という人が存在することも理解している。
なので私は口にしないようにしているし、傷つくことが過剰反応であるとかも思わない。
嫌な思いをする可能性がある方の耳に、一切届かないでほしいとも願っている。
ただ、悪気どころか、ごくごくライトな世間話の一種として、この話題をチョイスする人々が、それなりの数いることも、また1つの事実なのだ。
だからといって、嫌だな、と感じる方に、相手は悪気がないから許そう、とか、もうあきらめて無視しよう、と言いたいのではない。
それは乱暴なやり方で、好きじゃない。
ただ、こんなチグハグな構造になったのはどうしてかしら、と考えていくと、少し状況はちがってみえるかもしれない。
どうして子供の数を、気軽に聞くの
天気の話題のごとく気軽に、人によってはちょっと気の利いた話題であるかのように投げられる言葉たちは、たいてい大したモチベーションで放たれていない。
ひとりっこの親にこう聞く人々は、ドギツイコトを聞いたくせに、回答に対して特に期待値をおいていない場合が多い。
つまり答えに対して興味なんかないのだ。
そしてそのわずかな質問動機を考えてみると、
・自分が2人以上育てたことを自慢したいので聞いている。
・あえてひとりっこを選んだのか、興味本位で聞いている。
このあたりがややいそうな気がするが、おそらくぶっちぎりで一番多いのは、「自分もかつて言われたことがある、または言われている人を複数回見たことがあるから」ではないかと私は思っている。
つまり、子育て当事者もそうでない人も、多くの人にとって、「ひとりっこ家庭には、子供の人数の話をする」はオーソドックスな正解テンプレとして刷り込まれているのだ。
年末に「今年もあっという間でしたね~」と言うことと同列の、特に意味はないが、これを言っておけばなんとなく「ぽい」雰囲気を醸し出せる、そんな認識であるような気がする。
恋人がいるなら「結婚しないの?」
婚約したら「お式はするの?」
新婚さんには「子供はまだなの?」
相手のライフステージの、ちょっと先の話をすることは、この国の人々の意識の底に深く刷り込まれた「ぽい」行為なのだ。
結婚も式も子供の有無も、お金と思想と人間関係が深く関わる決め事で、他人に話したくない事情を含んでいることは多いはずだが、そんなに深く考えず、反射的にテンプレ質問が飛び出してしまう。
テンプレなので、「絶対」「ダメ」「べき」「可哀相」などの、相手を追い詰めるパワフルなワードが含まれていることも、特に気にならない。
自分のオリジナルの言葉ではなく、昔からの流儀をマネているだけなので、罪悪感も発生しない。
自分の発言であるにも関わらず、そこに自主性はないのだ。
何もひとりっこの親に嫌な思いをさせたいなど思っておらず、彼らは彼らなりに、相手にとってタイムリーな、当たり障りない話題をふっているつもりかもしれない。
冒頭で書いたように、2人以上の子供を持つ家庭は、昔からずっーと、ひとりっこ家庭より多数であるので、グサッとくる人が存在しているのに、一向にこのテンプレは消滅しない。
与党がかわらないのだから、基本政策はずっと一緒だ。
対立よりも、一緒に還そう。
長く続いてきた、テンプレ伝承を断ち切る方法は1つだ。
「自分が次の人に伝えない。」
これに尽きるのではないだろうか。
そして悪気なくご挨拶かわりに口にする与党には、元気のあるときだけでいいので、いつもより少し印象に残る回答をしてみる。
「ん~…ちょっと複雑だから、内緒。」
「まぁ、いろいろあるよね、家庭の問題だからね。」
私はこのどちらも使用したことがあるが、相手はなんとはなしに投げた問いに、思いのほかひっかかりのある言葉が返ってきたので、少し止まって考えてみていた。
そして、「ごめん、立ち入ったこと聞いちゃって」などと、謝ってくれたりもする。
さらに追撃して、いいから答えなさいよ!や、ひとりっこはダメだって言ってるでしょ!!とキレられたことはない。この先もないだろう。
多少「子供が可愛くないの?」のように追求されることはあっても、これは相手も、フワッと聞いた質問に、想定外の言い回しがかえったので動揺して、さらに「ぽい」ことを重ねただけであると思う。
「配慮のある人」「配慮のない人」とくくって対立するよりも、本来複数の政権など必要ないように、少しずつだが、同じ方を向いていきたい。
深く考えずに話していたけど、相手によっては聞かれたくない話題だよなぁ、と少しのきっかけで気付いてくれたら、使い古したテンプレを、あっさり埋めてくれる人はたくさんいる。
ずっと昔、子供は多ければ多いほどいいという考えが、国の正義とされていた時代に生まれたであろうこのコミュニケーションを、もう役割は終わったよ、と土に還す。
見つけるたびに、発言者と受け取り者が、一緒になって土に還す。
地道だが、ぽつぽつ減って、いつかなくなる日はくるし、そんな遠い日々に目を細めなくても、いま一緒に土を触ったこの人は、さっきまでの敵ではなく、ともに現代を生きている、大事な友に、なっていきはしないだろうか。
もともと大きな悪意はないなら、澄んだ空気に包まれて、立派な木にも、なるかもしれない。私はそんな、気がしているよ。
記:瀧波 和賀