理知を継ぐ者(63) 正義とは⑤
こんばんは、カズノです。
【向坂の正義】
いくつか前に『笑の大学』の話をしました。そこでも紹介しましたが「一度も笑ったことがない」向坂睦夫は、周囲からも「おまえには笑いのセンスがない」と言われています。でも彼が、脚本/脚本直しにのめり込めばのめり込むだけ、椿からは「向坂さんには笑いのセンスがある」と言われるようになります。
脚本/脚本直しに際し、べつに向坂は個人的な意見を言っているだけだし、経験的な知見を述べているだけなのですが、椿一という笑いのプロから見れば十分にその意見、経験だけで笑いをとれるものを持っているとされます。
きっとこれも三谷が託した意志だと思いますが、どういうことでしょう?
人間はみんな、どこかおかしいということでしょう。
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人間とはおかしいものです。他人はおかしいことばかりしているし、そういえば自分もおかしいことばかりしている。それが人です。
こういう言い方をすれば向坂とは、娯楽になど一切興味を持たず、勉強ばかりしてきた優等生です。そんな彼が大真面目に国家のために働く姿は、でもどこかおかしいし、そんな彼が椿に大真面目に意見する姿も、なおさらおかしいものです。
大真面目に国家に忠誠を尽くすように、大真面目に椿に意見し、本読みやリハにまで付き合う向坂は、とてもおかしい人です。でもそんな彼の大真面目は「義」でもあると、おれは思います。彼は「正義」にとても近いところにいる。
抗議や記事の内容にはあれこれ言いましたが、この連載でモチーフにさせてもらったトライセラの和田も、受講生Dも、山本も、高校生たちも、向坂と同じような「義」があるとおれは思います。
むしろ彼らを受け流したり、反射的に反意を示したり、または、意図を理解する努力もせずに賛同している、受け手のほうが「義」からも「正義」からも遠い人間です。その姿もまた人間の滑稽です。その滑稽を自覚せずに済んでいるのは、きっと4者の姿形がまだ「義」でしかないからでしょう。「正義」まではまだ行っていない。おかげで自分の滑稽を自覚せずに済みましたと、言うのもヘンかも知れませんが。
『笑の大学』では向坂は、最後にきちんと正義の味方になります。江戸っ子かたぎの粋な金さんからはほど遠い、仏頂面で軽演劇をくさしてきた中年男性が、でも正義の味方になる。そこには人を笑顔にする正義があります。人を裁かない、一流の正義ですが、4者もいつかそうなってくれるかも知れません。
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人はいつも、どこかおかしいものです。そんな自分や他人のおかしさを気づかせるものが正義という鏡で、だから正義を知ったとき、みんな笑うんですよね。これまでの困難はウソのようだったと。
正義とは、そのような安定とゆとりを人間に生むものです。そのような安定とゆとりの下で、「他人は他人でおかしかったけど、自分は自分でおかしかったなあ。これまでってなんだったんだろう」と人は笑うんです。
そう気づかせる正義の味方とは、だから「極端におかしい人」でもあります。
だって一歩引いて見れば、だいたいどんなヒーローもヒロインも尋常じゃないですよね。現実にあんな人がいたらまずヒきます。金さんでもセーラームーンでも。
正義の味方とはあまりに極端におかしい人で、あまりに極端におかしすぎるから、いったい何事かと、人は彼/彼女に目を見張ります。そうして、「ああこれは、あまりに正しすぎて(つまりあまりに美しすぎて)普段は見かけないものだから、自分は目を見張ってしまったんだな」と悟るんですよね。ほのかな思慕を伴いながら。
だってそうじゃないですか。あまりに美しすぎる人の姿を見たら、あんまり美しくない人生をやってるこちらにすれば、驚きだし、恥ずかしいし、憧れるし、お近づきになりたいと思うものです。
「正義をやれるのは色気を持っている人」とはそういうことです。
長い連載でした。お疲れさまでした。はい、おしまい。