2.5 調号と「均」
2.1節において、変化記号(シャープ・フラット等)について説明する際、少し調号 (英: key signature)についても触れました。また、前節までで基礎的な全音階の知識について説明してきました。このタイミングで、この節では、改めて「調号とは何か」ということについて、少し遠回りになりますが、順を追って掘り下げていきたいと思います。その際、あまり一般的に有名ではないのですが、「均」という概念を導入します。
2.5.1 再び、完全5度を6回積み上げる(ただし、今度はF以外の音から)
さて、全音階の例として、2.3項でハ調 長音階、2.4項でイ調 自然短音階をそれぞれ見てきました。これらはいずれも「F音(ファ)から完全5度を6回積み上げる」ことによってできたFCGDAEB(ファドソレラミシ)の7音を選び出している点で共通しています。違いは、この7音から中心音としてC(ド)を選んだかA(ラ)を選んだか、というところだけです。
すなわち、全音階を作る作業は、突き詰めて考えると、1オクターブ内の12個の鍵盤の中から、その音階に使用する7個を適切に選び出す作業と考えることができます。
一方で、1オクターブの中に鍵盤は全部で12個あるわけですから、F以外のどの音からでも、完全5度を6回積み上げる操作じたいはできるはずですし、その操作の結果として、やはり同様の、7音からなる正しい全音階が得られるはずですね。
以下、この操作を実際にやっていきたいのですが、F以外の残りの11音をいきなり同時並行で考えるのは難しいので、少し順序立てて考えていきましょう。
なお、この節では、特に長調・短調などの区別にこだわらず、単純に、「完全5度6回積み上げ」によって全音階を作ることだけを目標とします。別の言い方をすると、前節までにいう「原初的な全音階」(中心音が定まっておらず、上下に無限に続く全音階)を作った時点でいったん満足するということです。
また、この節以降では、説明の都合上、これまで用いてきたイタリア式の音名(ドレミファソラシ……)を英語式の音名(CDEFGAB……)に改めていきます。英語式の音名について不慣れな方は2.1節⇒2.1.4.2項を参照してください。この機会に英語式の音名に慣れていきましょう。
2.5.2 白鍵における6つの完全5度と1つの減5度
まずは準備作業として、7つの幹音と、そのそれぞれの5度上の幹音との音程関係について改めて確認しておきましょう。ここでは幹音(ピアノの白鍵の音)に限定して考えていますので、♯・♭は一切登場しません。
C-G, D-A, E-B, F-C, G-D, A-Eの6つの5度音程は、いずれも(順番はともかく)全音合計3つと半音1つを挟み込む形になっており、完全5度となっています(上図で青の矢印で示しました)。それに対して、B-Fの5度だけは、その中に全音2つ(C-D, D-E)と半音2つ(B-C, E-F)を挟み込んでおり、完全5度より半音狭い減5度となっています(上図の赤の矢印)。
実はこれこそが、私がこれまで、完全5度を6回積み上げる操作を必ずF音から始めてきた理由です。幹音だけで完全5度の積み上げを6回コンプリートしようとすると、起点をF音とする以外にはありえません(F-C-G-D-A-E-B)。F以外のどの幹音を起点にしても、B-Fの減5度がどこか途中に出てきてしまい、失敗してしまうのです。
2.5.3 ♯系:積み上げの起点を完全5度ずつ上げていく
さて、我々の課題は、F以外のどんな音からでも「完全5度の6回積み上げ」を行えるようになることでした。そこで手始めに、Fの完全5度上、C音を起点とした積み上げを試してみましょう。なお、前節までと同様、以下の譜例中では、ト音記号の範囲内にすべての音符を収めるため、「完全5度上げる」という操作を適宜、「完全4度下げる」で置き換えています。見た目上は完全4度下げになっていても、あくまで「完全5度上げたあと、便宜上1オクターブ下げているだけ」という意識で捉えてください。
では、C音から完全5度を6回積み上げてみます。先述のとおり、最後に出てくるB-Fは減5度です。これを完全5度とする(つまり半音分だけ広くする)ためには、Fを半音上げてF♯音にしてやれば良いことになります。以下の通りです:
では次に、Cの完全5度上のG音を起点として同じ操作をしてみましょう。
F-Cは完全5度でした。ここではFがF♯に変化していますので、完全5度を保つにはCのほうにも半音上がってもらう必要があります。こうしてC♯音が登場しました。
この調子で、以下同様の作業を続けていきましょう。積み上げの起点をどんどん完全5度ずつ上げていき、D, A, E, B, さらにF♯(!)……としてみると、それぞれ以下のようになります。
こうして、まさに最初のFCGDAEBと同じ順番で、まずFに♯が付き、次にCに♯が付き、……(中略)……、最後にBに♯が付きました。とても規則的ですね。さて、この積み上げ起点を完全5度ずつ上げていく作業はここで打ち止めにしておきましょう。さもないと、この次(C♯を起点とした場合)にはB♯の完全5度上、すなわちFのダブルシャープが出現してしまい、無駄に複雑になりますので……。
以上、得られた7種類の全音階(それぞれ起点となる音がC, G, D, A, E, B, F♯)を#系の全音階と呼ぶことにします。
2.5.4 ♭系:積み上げの起点を完全5度ずつ下げていく
さて、今度は、「完全5度6回積み上げ」の起点をFから完全5度ずつ下げていく作業を考えましょう。
変化記号を用いない場合、Fの5度下はBですが、このB-Fは例によって減5度です。これを半音だけ広げて完全5度にしたいのですが、今回はFの位置がすでに固定されているため、Bに半音下がってもらいます。B♭音を起点として同様の積み上げ作業を行うと以下の通りとなります:
次の積み上げ起点はB♭の完全5度下、E♭音です。E-Bが完全5度でしたので、全体を半音下げてE♭-B♭とすれば完全5度になりますね。
以下、同様に積み上げ起点を完全5度ずつ下げていき、A♭、D♭、G♭、C♭(!)、F♭(!!)としてみます。
今度は、FCGDAEBのちょうど逆順に、まずBに♭が付き、次にEに♭が付き、……(中略)……、最後にFに♭が付きました。ここでも、前節で上方向に登って行ったときと同様、F♭の完全5度下まで行ってしまうとBのダブルフラットが出現してしまうため、この作業もここで打ち止めです。
以上、得られた7種類の全音階(それぞれ起点となる音がB♭, E♭, A♭, D♭, G♭, C♭, F♭)を、♭系の全音階と呼ぶことにします。♯系の全音階を得る作業と比べてみると、色々な意味で正反対でしたね。
2.5.5 12種類+αの全音階
さて、以上の操作で多くの全音階を作ってきましたが、これで1オクターブ内の全ての鍵盤がカバーできたのかどうかを念のため確認してみましょう。それぞれの全音階を「班」に見立てます。各班の積み上げ作業の起点となった音に「班長さん」になってもらい、それぞれの班長が、下図のピアノの鍵盤上(①〜⑫)でどこに位置するのかを見ていきます。
大元の全音階(♯系でも♭系でもない全音階):F=⑥
♯系の全音階(下図に赤字で示したもの):C=①, G=⑧, D=③, A=⑩, E=⑤, B=⑫, F♯=⑦
♭系の全音階(下図に青字で示したもの):B♭=⑪, E♭=④, A♭=⑨, D♭=②, G♭=⑦, C♭=⑫, F♭=⑤
以上の通り、①~⑫それぞれの鍵盤を起点とする全音階が全て作れたことが確認できました。また、⑤、⑫、⑦の鍵盤については、それぞれE=F♭、B=C♭、F♯=G♭という異名同音が出てきたことも合わせて確認しておきましょう。これらの異名同音を別物として扱うと、この作業を通じて15種類の全音階(15パターンの班)が作成できたことになります。
繰り返しますが、ここで得られた15種類の全音階はいずれも、未だ中心音を決めていない状態のものです。従って、いま得られた全音階が長音階か短音階か、といったことは確定していないことに注意してください(「班長さん」がそのまま中心音となるわけではありません)。
2.5.6 さて、改めて、調号とは何か
ここで、先の作業で完成した15種類の全音階を一挙に眺めてみましょう。「班長さん」を青丸、新しい班長さんが任命されるたびに新たに1人登場する「新人さん」を赤丸で囲っています。♭系では、新人さんがいきなり班長を務める形になっていますね。
一段下に進むほど、♯や♭の数が一つずつ増えていき、譜面が込み入ってくることがお分かりいただけるかと思います。
ところで、先ほども述べたように、全音階を作る作業というのは、オクターブ内に全部で12音ある音の中から、その音楽で(主に)使用する7音を選び出す作業(総勢12名の集団から班員7名を選出する作業)だと考えることができます。ただし、その選び方は完全ランダムではなく、「班長さんからの完全5度積み上げ」によらねばならない、という縛りがかかっています(いわばピタゴラスの縛りですね)。先程の作業における♯や♭の増え方に綺麗な規則性があったのは、まさにこの縛りのおかげなのです。
この規則性があるため、班員7名全員の「名簿」をわざわざ作らなくても、班員の中で「♯」または「♭」のバッジを付けている人だけの名簿を作りさえすれば、残りのバッジを付けていないメンバー(幹音のメンバー)のリストも自動的に分かるようになっています。そして、実は調号とは、五線譜の最初に書かれる、この「♯」または「♭」付きのメンバーだけをリストした名簿のことなのです。
あるいはもう少し、比喩を用いずにちゃんとした言い方で言うと、調号とは、「完全5度を6回積み上げる作業」=「12音から7音を選び出す作業」の「成果」を、譜面の冒頭(五線の左端、より正確には音部記号のすぐ右)にあらかじめ纏めて書いてしまおうというものなのです。
以下の各譜例のト音記号のすぐ右隣にある♯や♭の固まりが、実際に五線譜で用いられる調号です。ここでは新人さんを赤丸、その他のバッジ付きのメンバーを青丸で囲っています。
改めて、♯はFCGDAEBの順に、♭は逆にBEAEGCFの順に増えていく、ということを確認しましょう。また、一つの調号の中に複数の♯または♭を並べる際、それらを並べる順番は上記の順番でなければなりません。そして、♯も♭も付いていないところでは、バッジの付いていないメンバー、すなわち幹音が選ばれていることになります。
特に♯や♭の多い全音階を用いた楽曲を記譜する際、調号を用いることによって譜面の見た目が圧倒的にスッキリします。調号を用いる利点として、まずもってこの点が挙げられるでしょう。いささか極端ですが、例を以下に示します。J.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』第3番嬰ハ長調(BWV848)のフーガ冒頭(ソプラノパート抜粋)です。調号は最大ギリギリの♯7個(つまり、班員全員が「♯」バッジ付き)です。
2.5.7 「均」記号としての調号
調号は英語でKey Signatureと言います。Keyは調という意味ですので、「調号」という日本語は英語からの訳だと思われます。一方で、ドイツ語ではVorzeichen(単に「前置記号」という程度の意)と言うのだそうです。果たして、調号は本当に「調」を表しているのでしょうか。
ここで、東川清一(とうかわ・せいいち)氏という音楽学者が提唱している「均」という概念をご紹介したいと思います。なお、「均」は必ずしも音楽理論の世界で十分に普及している概念ではありません。彼自身による「均」概念の正確な説明については本稿では省略しますので、ご興味がある方は、ぜひ彼の著書『音楽理論入門』(ちくま学芸文庫、2017)の第4章に直接当たっていただきたいと思います[注1]。
では、我々にとって「均」とは何か。前項までで、15種類の全音階を作成する作業、すなわち15パターンの班を組織する作業を地道に行ってきた我々の視点から見ると、東川氏のいう「均」とは、まさにこれらの「全15パターンの班(全音階)それぞれに名前をつけたもの」に他なりません。
この15種類の「均」の実際の呼び方については、いくつかの案が同書の中でも提出されていて、必ずしも綺麗に整理されていませんが、私の考えでは、単純に「♯または♭の数」で呼ぶのが最も分かりやすくて合理的だろうと思います[注2]。先述の規則性のゆえに、♯または♭のついた班員の「人数」さえ確定してしまえば、その名簿は一通りしかないからです。たとえば「♯」付きが3人ならF♯、C♯、G♯の3人、「♭」付きが5人ならB♭、E♭、A♭、D♭、G♭の5人、というように。
具体的にそれぞれの均の名前を列挙すると以下譜例の通りです(それぞれの「班長さん」の音符を併記しています)。
ここで重要なのは、たとえば「ハ調 長音階」(C major scale)と「イ調 自然短音階」(A natural minor scale)は、調としては二つの異なる調(ハ長調とイ短調)ですが、均としては同じ「♮均」に属する、ということです(♮均とは、♯や♭が1つも付かない均という意味です)。
同様に、たとえば「変ホ調 長音階」(E♭ major scale)と「ハ調 自然短音階」(C natural minor scale)は、調としては別物ですが、同じ「3♭均」に属します。変ホ長調とハ短調、2つの調を特に愛したと言われるベートーヴェンの作品から、それぞれ例を示します。
逆に言うと、たとえばある曲に♭3つの調号が付いていたとしても、その曲が変ホ長調なのかハ短調なのかは、音楽の中身を見てみないと分かりません。「均」という概念を導入してみると、厳密には、調号から確実に見て取れるのは、調ではなく「均」であるということになります。東川氏は前掲書で、調号はむしろ「均」記号とでもいうべきものである、と指摘しています。私もこの考えに賛成です。
2.5.8 「均」の話をもう少しだけ
「均」という概念の有効性について、一つ、傍証となりうる話をします。J.S.バッハが妻アンナ・マグダレーナのためにまとめた「アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集」という曲集の中に「メヌエット」(BWV Anh. 115) という曲が収録されています[注3]。この曲の内容を見ると明らかにG音を主音とする短調、つまりト短調 (G minor)なのですが、実は譜面が「1♭均」で書かれています。
古典派(機能和声の時代)よりも後に生きる我々の常識だと、ト短調は当然「2♭均」で記譜してしかるべき調です。
バロック時代の初期~中期ごろには、まだ短調の曲の調号について確たるルールが確立していなかったのでしょう。同様の例は同時代の作品に多数見つかります。このことからも、「調号」を見ただけでは調は分からない、分かるのは「均」だけである……ということが言えるように思います。
さて、これまでの説明で、全音階を作るための方法として「完全5度を6回積み上げる」という操作を私が非常に重視しているということが十分お分かりいただけたかと思います。すでに何度か触れているとおり、この「完全5度を6回積み上げる」という作業は、12音から7音を適切に選び出すための手段なのですが、一方、逆に考えると、この作業だけでは、その次の、7音から1つの中心音(主音)を選び出すという仕事には全く手を付けていないことになります。つまり、「均」とは、12音から7音を選び出す作業が完了したものの、そこから中心音を選び出す作業をまだ行っていない、いわば「半開き」の状態を指すと考えることもできます。「班」の喩えで言うと、班長さんはあくまで班を組織するための仮のリーダーに過ぎず、その班をこれから牽引していく真のリーダーはまだ決まっていないという状態、それが均です。
この「均」の概念はかなり有用だと私は考えていますので、以降の記事でもたびたび用いることになるかと思います。次節では、いよいよ、調号や「均」の概念を援用しながら、音階の話をもう少し掘り下げていきます。お楽しみに!
脚注
[注1] なお、東川氏は「均」という概念を中国の音楽理論から引っ張ってきているとのことですので、「均」概念の適切な西洋語訳は存在しないと思われます。
[注2] たとえば東川氏は同書において、「♮均」のことを「ハ均」、「3♭均」のことを「変ホ均」と呼ぶことも行っています。これは、その均から作られる長音階の主音に着目した言い方です。しかしながら、私としては、この節の本文末尾に述べたとおり、「均」を、中心音を選び出す以前の原初的な状態として捉えたほうが概念としてスッキリすると考えているため、このような特定の音(鍵盤)を指す呼び方は避けました。
[注3] 余談ですが、近年の研究では、このト短調メヌエットおよび、これと並んで同じ「小曲集」に収録されている、さらに有名なト長調メヌエット (BWV Anh. 114、以下譜例参照) の2曲は、いずれもJ.S.バッハ自身の作ではなく、彼より8歳ほど年上のクリスティアン・ペツォールトという人物の作品を「拝借」したものであることが判明したようです。
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