デザイナーと消費者の責任
ご無沙汰です。
インプットに勤しんでいたら、書くのを怠ってました。
反省、、、。
余談ですが、卒業が決まりました。春から服飾学生です。
喜んでいた矢先、専門の入学式が中止、授業開始の延期の連絡が。
久しぶりに学業でショックを受けました。
4月はひたすらインプット続けます、、、。
今回取り扱うテーマは「責任」です。
重そうだけど、重くない。距離がありそうで、近い。
そんな話をします。
世の中に存在するプロダクツは全てデザインされており、それが商品化したものです。
家にあるテレビ、机、パソコン、ペン、言うなれば家本体。
それらは全てデザイナーの手によって設計されたものであります。
僕ら消費者はデザインされ、商品化されたものを購入し、使用しています。
ここで考えてみてほしいのは、デザイナーと消費者である我々との関係性です。
ファッションに話を移します。
ファッションにももちろんデザイナーがいて、その商品を購入する消費者がいます。
皆さんは購入した服をどのように着ていますか?
Tシャツは襟からかぶり、袖に腕を通す。
パンツでいうとファスナーが前に来るように足を通す。
この行為は当たり前であって、違和感はありません。僕もそうしています。
しかし1つ考えてみてほしいのは、この行為がデザイナーの意図のうえに成り立っている可能性があるということです。
つまり、デザイナーが袖を作ったから腕を通し、ファスナーをつけたから前後がある、ってことです。
ちょっと自分でも書いていて分かりにくいって思ったので、もっと本質的な部分を。
以前の投稿で、ブランドの権威性について書きました。
この投稿でもわかるように、ブランドが持つ権威性、信頼性って絶大なものです。
では、ここで挙げたブランドのデザイナーとその服を買う消費者のパワーバランスはどうなっていますか?
明らかにデザイナー100:消費者0になっています。まさに虎の威を借る狐状態。
僕が言いたい責任ってこういうことで、デザイナーがデザインした製品を、そのまま鵜呑みにして使用していると、消費者の責任は0なんです。
デザイナーに支配されているのと同じです。
大量生産、大量消費の世の中で両者の責任は大きく傾いています。
個人の趣味嗜好はターゲッティングのための道具でしかなくなっています。
理想はこの責任が50:50であることです。
なぜならプロダクトは消費されて初めて存在認知されるからです。
それを最も可能にしていたものが”学生服”です。
中学生の頃、与えられた制服を着て学校に通っていました。しかし、自我が芽生えると同時に着崩す人が一定数いたのではないのでしょうか。
あの行為は、デザイナーの意図とは完全に分離していて、まさに消費者の責任です。
もちろん着崩すことがすべてではないのですが、
消費者として責任を持つために大事なのは、考えることです。
マニュアル通りの方法で使うだけでなく、他にも使い道があるのではないか、もっと自分らしく使えるんじゃないか、と考えることです。
最後に、自分的にデザイナーの責任に縛られていないと感じるブランドを紹介します。
それがISSEY MIYAKEです。
日本を代表するブランドであるISSEY MIYAKEは、「一枚の布」という考えの基、デザインがなされており、着る人によってシルエットやスタイルが変わっていきます。
また、ブランドの1つである132 5.ISSEY MIYAKEは2次元になったり3次元になったりと、まさにデザイナーと消費者が対等であると言えます。