服は皮膚である
noteを書くようになってから、服について改めて考えるようになってから、実感したことがあります。
人間の身体が服無しでは(社会的に)成り立たないってこと。
興味があるにしろ無いにしろ、社会生活をしている人は皆必ず服を着ています。
服という鎧を着て、自分の所属、立場、嗜好を外部に示しながら街中を歩いています。
別になんら不思議なことではないと思います。
当たり前のこと。
でも、もし当たり前じゃなくなったら、法律が裸でいることを認めたら、人間はどうなるのでしょう。
おそらくですが、99%の人間は服を着続けます。
なぜかというと、それだけ服に頼って生きているからです。
以前のnoteに、"人は素でいることが不安"と書きました。
(逆に言えば、素でいても安心できる環境があることはそれだけで財産ですね。)
服が無い状態というのは、外部に自分を示す道具がないこととほぼ同じだと思っています。
それではやはり生きていけない。
Instagramが明らかにしたように、人は見てもらうことに優越感を感じ、外部に自分を示すことで自我を保とうとする生き物だからです。
そういう意味では、服は人間の皮膚であると言っていいと思います。
人を包んでいる一番外側の部位。それが服。
むしろその「皮膚」によって身体が支配されることもあります。
例えば、オラオラ系の服を来ているから大股になって歩くとか、スーツを来ているから背筋を伸ばす、とか。
事実、19世紀以前のファッションを見ると身体をすっぽりと包むような格好をしています。
いかに裕福で豪華な暮らしをしているかを示すツールでもあったわけですが、まさに社会的皮膚。
その価値観をぶっ壊したのが、初めて膝を解放したミニスカートであり、デザインしたMary Quantやcourreges、さらにそれらのアイテムを着こなしたツィッギーやフランスギャルなんですよね。
この辺の話はまた今度。
最後に、最近読んでいる本で好きなフレーズ、この投稿のきっかけになった言葉をかいて終わります。
人は液体と同じように、容れ物に入れないと形を保つことができない。裸のままでは社会的に存在することができず、裸で人前に出るやいなや、床にこぼれた飲み物の様にすぐさま片付けられてしまう。私たちが人の姿を保っていられるのは、衣服というパッケージが存在するからなのだ。
『ファッションの哲学』井上雅人