特攻の拓 天羽時貞と宮沢賢治――響き合う『春と修羅』の世界 ①

『疾風伝説 特攻の拓』に登場する天羽時貞が、宮沢賢治の作品を愛し、特に『春と修羅』を幾度となく口にする場面は、物語の中でも印象深い。

佐木飛朗斗先生自身も、「『特攻の拓 天羽時貞編』は『春と修羅』に捧げます」と語っていたほど、その影響は大きく、この作品は『特攻の拓』における一つの重要な要素ともいえるものだ。

『春と修羅』に宿る無常と調和の哲学

私が初めて宮沢賢治を読んだきっかけは定かではないが、『春と修羅』に触れるたび、まるで静かな闇の中に光を見つけるような不思議な感覚を覚える。

賢治は仏教の教えや深い哲学に強く影響を受けていて、その中でも「刹那滅」という概念を基に、生と死、存在の輝きと消滅を描いている。
「刹那滅」とは、一瞬ごとにすべてが消え、また一瞬ごとに新たに生まれ変わる、無常の理を表している。
それはまるで星や銀河の動きのようで、私たちの心の中でも常に変化が起きていることを示している。

「春」は冬が終わり、命が芽吹き、花が咲き、光に満ちた季節を表している。
一方「修羅」は、仏教で争いや競争が絶えない不穏な世界を指している。
賢治が面白いのは、これらを二項対立として描かず、どちらも一つの世界に共存していると表現している点だ。
春も修羅も、善も悪も、悲しみも怒りも、清も濁もすべてが一体となり、宇宙の流転の中で調和していると。

また、賢治は人間の感情や欲望を否定するのではなく、むしろそれらを受け入れ、理解しようとしている。
彼は、自我を超えた先に「真の幸福」があると考えていたのだろう。
この姿勢は仏教で説かれる「無我」の概念と深くつながっているのではないかと感じられる。
賢治の宗教観や哲学的な思索、そして深い慈悲や万物に対する敬愛の精神が、この作品の根底に流れているのだと思う。

人生の苦悩や矛盾に向き合い、それを受け入れることで初めて見えてくる光。
それこそが、賢治が『春と修羅』で示した〝道〟なのだと感じた。

天羽時貞と菩薩の表情

先にも述べたように、『特攻の拓』の天羽時貞編には宮沢賢治への深い敬意が感じられる。
宮沢賢治といえば、彼自身が仏教の求道者であり、その理念は多くの著作に及んでいると聞く。
仏教において、「菩薩」とは、悟りを求め、修行に励む者を指すが、『特攻の拓』において、時貞はしばしば「菩薩」のような表情を浮かべているのだ。

特に、増天寺LIVEのステージ上での時貞の姿は、偶然額についた血の跡がまるで「白毫」のようであり、その様はまさに菩薩のようであった。
時貞がその場で「生きる意味」を見出したというのは、すなわち彼が悟りを開いた瞬間とでも言うべきものであろう。
この演出が、この場面に配置されたことには、深い意味があるように感じられる。

時貞は音楽を通じて、自分の存在意義や人生の意味を常に考え、悩んでいた。
それは、まさに菩薩が悟りに至るまでの過程と重なるように思われる。
時貞と菩薩、仏教、そして宮沢賢治――これらは一つのイメージとして、私の中で自然と結びついている。