ミシェル・フーコー「医学の危機あるいは反医学の危機?」
現在、コロナ禍において医療と経済、また権力の関係が問題となっており、哲学の領域ではまさにその問題を先んじて論じていたミシェル・フーコーが再読されている。公衆衛生から人口統計にいたる権力として概念化された「生権力」が特に注目されているが、フーコーが直接的に「医学と経済」の関係を語った講演録「医学の危機あるいは反医学の危機?」(一九七六年)がある。
今の状況下で読むに値すると思えるので、その一部(特に「医学の経済学」というテーマに関する文章)を抜粋した。短いテキストなので、興味を持った方は本書を手にとって読んでみることをオススメします。
以下のテキストは、すべて『フーコー・コレクション 4 権力・監禁』(ミシェル・フーコー 著 , 小林 康夫 編集 , 石田 英敬 編集 , 松浦 寿輝 編集、ちくま学芸文庫、二〇〇六年)より引用。
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最後に、現代医学のもうひとつの特徴、すなわち医学の経済学と呼べるものについて述 べてみたい思います。
じつは、これもまた最近の現象ではありません。というのも十八世紀以来、医学と保健衛生は経済的な問題と見なされてきたからです。医学は十八世紀末に経済的な理由から発達しました。忘れてならないのは、十八世紀フランスで最初に研究され、全国的なデータの収集をもたらした大規模な伝染病は、実際には人間の伝染病ではなく、家畜の伝染病だったということです。南フランスでかなりの数の羊の群れが破滅的なまでに高い死亡率を示したことが、王立医学協会の設立におおきく貢献しました。フランス医学アカデミーは人間の伝染病からではなく、家畜の伝染病から生まれたのです。これは、医学の編成の端緒になったのが経済問題であるということをよく示しています。(pp.292-293)
現在の状況に特有なのは、医学がかつてとは異なる側面で経済的な大問題と関係していることです。かつてであれば、ひとは医学にたいして強い人間、つまり働けて、労働力を維持し、それを改善し、再生産できるような人間を社会に提供するよう求めていま した。近代社会が機能するように労働力を維持し、刷新するための装置として、医学が援用されました。
ところが今日では、医学は別の途をへて経済と遭遇します。単に医学が労働力を再生産できるからだけではなく、健康でいることがある者にとっては欲望であり、またある者にとっては贅沢なのだというかぎりにおいて、医学は直接的に富を生み出すのです。消費対象になった健康、いくつかの製薬研究所や医者たちによって生産され、他の人々――潜 在的な病人や実際の病人によって消費される対象になった健康が、経済的な重要性をおび、市場のなかに入ってきたのです。(p.293)
こうして人間の身体は二度にわたって市場に組みこまれました。まず、人間がみずからの労働力を売ったとき賃金をつうじて、そして次に、健康というものを媒介にしてです。その結果、人間の身体は感覚や欲望などの対象になるかぎりにおいて、健康や病いを経験し、快楽や不快、喜びや苦しみを感じるやいなや、たちまち経済市場のなかにあらためて組みこまれるのです。
健康にまつわる消費を媒介にして人間の身体が市場に組みこまれた時から、さまざまな 現象があらわれ、それが現代の保健衛生システムと医学システムに機能障害を引き起こすようになります。
期待に反して、人間の身体と健康が消費システムと市場のなかに組みこまれたことが、 それに応じて相関的に健康レベルを高めるのにつながったわけではありません。計算され測定されうる経済システムのなかに健康が組みこまれたことは、社会にたいして健康レベルが生活レベルと同じような影響をおよぼすのではない、ということを示しています。生活レベルは、諸個人のもつ消費能力によって規定されます。消費の増加が生活レベルの向上をもたらすのに対して、医療消費の増加がそれに比例して健康レベルを向上させるではないのです。健康の問題に取りくむ経済学者たちは、この種のさまざまな事柄を研究しました。たとえばチャールズ・レヴィンソンは、一九六四年に発表された健康産業にかんする研究のなかで、医療サーヴィスの消費が一パーセント増えても死亡率は○・一パーセントしか下がらないことを明らかにしました。このずれは当然のことと思われるかもしれませんが、しかし、虚構の純粋モデルの枠組みで表れたずれにすぎません。医療消費を現実の環境のなかに位置づけるならば、環境という変数、とりわけ食生活、教育、世帯の収入などが医療消費よりも大きく死亡率に作用することに気づきます。たとえば、場合によっては死亡率に悪影響をおよぼすかもしれない収入の増加は、薬の消費より二倍も有効です。どういうことかと言うと、収入が医療サーヴィスの消費と同じ割合で増加すると、 医療消費の増加によって得られる利益は収入のわずかな増加によって相殺されてしまうということです。同様にして教育は生活レベルにたいして、医療消費より二・五倍も大きな作用をおよぼします。したがって、より長生きするためには、高い教育レベルのほうが医療消費より好ましいということになります。
こうして、死亡率に影響をおよぼしうる変数全体のなかに医療消費を位置づけてみれば それがもっとも弱い要素だということが分かります。一九七〇年の統計が示すところによれば、医療消費が絶えず増加しているにもかかわらず、健康を示すもっとも重要な指標の ひとつである死亡率は下がらなかったし、現在でもなお女性より男性のほうが死亡率が高いのです。
したがって、医療消費レベルと健康レベルのあいだに直接的な関係はありません。それは、消費が増加しても健康や、羅漢率や、死亡率などの面で良いことはまったくないという経済的逆説を明らかにしているのです。
健康が経済学の領域になったことは、もうひとつの逆説を生みだしました。社会保険制度によって実現できると期待されていた所得再配分が、予期していたような機能を果たしていないということです。実際、医療サーヴィスの消費における不平等はかつてと同じくらい大きく、昔も今も、もっとも豊かなひとたちは貧しいひとたちよりも、はるかに多くの医療サーヴィスを受けています。現代のフランスではそうです。その結果、もっとも貧しいひとたちである医療の小口消費者がみずからの拠出金で、もっとも豊かなひとたちの過剰消費をまかなっていることになります。しかも、科学的な研究や、もっとも貴重でもっとも高価な病院設備の大部分に要する費用は社会保険から支払われ、他方で、私立病院は技術的にはより単純な設備しかそなえていないので、公立病院より儲けになるのです。 フランスで病院ホテル業と呼ばれているもの、つまりちょっとした手術のように些細な理由による短期入院は、もっぱら私立病院で行われていることであり、私立病院はこのよう にして病気を治療するための集団的、社会的予算によって支えられているのです。
こうしてわれわれが目にしているのは、社会保険によって実現できると期待されていた 医療消費の平等が、十九世紀社会を特徴づけていた病いと死をめぐる大きな不平等を絶えず復活させようとするシステムによって、ゆがめられているという事実です。現在では、 万人が平等に健康を享受する権利は、その権利を不平等に変えてしまうような悪循環のなかに取りこまれてしまっています。(pp.294-297)
医学をそれ自体として拒否したり支持したりしてはならない、医学は歴史的システムの一部であり、純粋科学ではない、医学はひとつの経済システムと権力システムの一部であり、どの程度まで発展モデルを変更したり適用したりできるのか決定するために、 医学と経済と権力と社会の関係を明らかにする必要がある(p.299)
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フーコーの研究が実証的に正しいかどうかは、後続の研究や最新のデータによって更新されているかもしれない。しかし重要なことは、フーコーが最後に語った「医学をそれ自体として拒否したり支持したりしてはならない、医学は歴史的システムの一部」という洞察だ。
現在の状況で過剰な期待をかけられ、神聖視されているようにもみえる医学が、いかなる歴史的な制度なのか、それがどのように構築されてきたのか。一人の医者や医学研究者ではなく、また医学内部の知見でもなく、複合的な社会制度の一部としての医学という視点で考える必要がある。
また、単に命か経済かという二項対立ではなく、そもそも医学と経済がどういう関係によって成立し、機能しているかという視座こそ必要ではないか。
僕の見解はメルマガなどでまた書いていこうと思うので、ここでは抜粋メモに留めておくが、本書のテキストはそれだけで十分に考える材料になると思えるので、あらためてオススメします。
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