火山と日本人の精神世界(2)



火山の多い日本のなかでも、特に人々に知られた山としては、九州の桜島、阿蘇山、雲仙岳、そして日本の東西の境目のフォッサマグナに聳える富士山、浅間山、八ヶ岳といったところだろうか。
 興味深いことに、この西に三つ、東に三つの六つの山は、対になるように冬至(夏至)のラインで結ばれている。
 桜島と富士山、阿蘇山と八ヶ岳(天狗岳)、雲仙岳と浅間山だ。
 そして、この東西の主要火山を結ぶ冬至(夏至)のライン上には、伊勢神宮をはじめ、気になる聖域が数多く存在している。
 なかでも、伊勢の夫婦岩の二つの岩のあいだに、晴れた日には富士山が見え、夏至の日の出の時、この岩のあいだ、富士山の位置から太陽が昇ることは、よく知られている。
 日本を代表する単独峰の火山は、その雄大な姿を遠くから確認することができるが、火山が活発な活動をしている時は、かなり遠く離れた場所からでも、噴煙が確認できたかもしれない。
 冬至や夏至の日の太陽は、日本に限らず海外においても、古代においては死と再生のイメージと重ね合わされていたから、火山国日本においては、神々しいまでの火山と、冬至や夏至の太陽との結びつきが、特別な意味を持っていたとしても不思議ではない。
 そして、この日本を代表する巨大火山との不思議な符号がありながら、これまでの歴史関係者の誰も指摘しておらず、ほぼ全ての日本人がまったく意識していない古代の重要事項がある。
 それは、日本に13基しか確認されていない八角墳だ。

 八角墳は、7世紀の後半から8世紀の前半という日本に律令体制が導入された限られた期間だけに作られた特殊な古墳だが、被葬者として、天武天皇や天智天皇など、この時代の主要人物が多い。
 前回の記事で、天智天皇と天武天皇の八角墳が、近畿の真ん中を南北に縦断する東経135.80に築かれており、同じライン上に、藤原京と平城京、そして弥生時代の最大の銅鐸製造拠点である唐古遺跡があることを書いた。
 万葉仮名の「八」は、中国では「はつ」と発音する末広がりの数字だが、この文字に大和言葉の「いや」=「どこまでも重なって続いていく」という意味を持つ言葉の発音が当てられている。
 この律令制開始時期の歌人、柿本人麿は、大王のことを、「八隅知し 吾大王」と称えている。「知」というのは、「矢」と「口」で成っているが、白川静さんの説によると、「矢」には誓うという意味があり、口は顔についている口ではなく、「さい」という神の言葉を受け取る容器である。つまり、知るというのは、神意を受けて誓約するということ。
 大王は、「八隅」=「どこまでも続いていく隅々」を、神の言葉をもとに誓約し、治める存在だった。
 この聖なる数字である「八」を形にした八角墳は、こうした統治の考えと深くつながりがあるから、天武天皇、天智天皇、舒明天皇、斉明天皇、天武天皇の草壁王子、その息子の文武天皇といった6名の大王の墓になっていることは理解できる。
 しかし問題は、それ以外の7基であり、関東に5基、宝塚に1基、鳥取に1基が築かれている。
 この問題に関わってくるのが、上に挙げた日本を代表する火山との位置関係だ。
 日本に築かれた八角墳のうち、兵庫県宝塚市の中山荘園古墳、京都山科の天智天皇陵、群馬県藤岡市の伊勢塚古墳が、阿蘇山と八ヶ岳(天狗岳)を結ぶ冬至(夏至)のライン上に築かれている。
 また、鹿児島の桜島と伊勢神宮と富士山を結ぶ冬至(夏至)のライン上には、東京の聖蹟桜ヶ丘の稲荷塚古墳が位置している。
 そして、会津富士と呼ばれる福島の磐梯山、越後富士の異名のある妙高山、北アルプスの白馬乗鞍岳という裏日本を代表する火山と、北九州の宗像大社を結ぶ冬至(夏至)のライン上に、鳥取市の梶山古墳がある。
 13基の八角墳のうち5基が、日本列島の主要火山を結ぶ冬至(夏至)のライン上に築かれているのだ。
 残りは8基だが、このうち7基も、日本を東西に結ぶ冬至(夏至)のライン上にある。
 そのラインは、西の端が宮崎県延岡市の愛宕山で、この山は、江戸時代以前は笠沙山であり、神話のなかで、天孫降臨のニニギと、コノハナサクヤヒメが出会った場所である。このすぐ近くに、ヤマトタケルの熊襲退治の伝承と関わる行縢(むかばき)山が聳えている。
 そしてラインの東の端は、ヤマトタケルが蝦夷征伐の時に兵を休めた場所という伝承地で、ヤマトタケルを祀る神社としては古来から格式の高い吉田神社が鎮座している。
 つまり神話の中で、ヤマトタケルの東西の遠征地と、皇室のルーツとなるニニギとコノハナサクヤヒメの出会いの場所が関わった場所を結ぶ冬至(夏至)のラインなのだが、このライン上の近畿の奈良盆地に、天武天皇、斉明天皇、草壁皇子、文武天皇、舒明天皇という5基の八角墳が存在し、山梨県笛吹市に経塚古墳、茨城県水戸市に吉田古墳が存在している。
 上に挙げた5つの冬至(夏至)のライン上に位置していない八角墳は一基だけであり、それは群馬の吉岡町の三津屋古墳だが、ここもまた周辺にヤマトタケル伝承の多いところで、浅間山が、真東40kmのところに聳えている。
 こうした八角墳の規則的な配置は、たまたまそうなっているだけだろうか、それとも計画的で意思的なものだろうか。
 飛鳥の八角墳は、藤原京の近くに築かれているが、関東の場合は、武蔵国と甲斐国と上野国は国府、水戸は郡家という律令時代の行政の中心地と隣接したところに築かれている。
 すなわち、関東においても、律令制のミッションを遂行するための指導者が、八角墳に埋葬されたのだろう。
 日本に八角墳が築かれたのは7世紀後半から8世紀初頭で、柿本人麿が「八隅知し吾大王」と歌を作った時代であり、行政の指導者が、神の言葉をもとに誓約し、国を治める責任を担う時だった。
 神と誓約して、まつりごとを行い、日本の隅々まで、その安寧を願うこと。八角墳の形や、その配置には、「八隅知し」のビジョンが重ねられており、その安寧のビジョンにおいて、火山のことが意識されているように思われる。

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