表現における現代的停滞(頽廃)を超える行先
現在、上野の森美術館で、「石川九楊大全」展が開催されていたので行ってきた。
広大な上野の森は、いつも大勢の人で溢れているが、上野の森美術館方面に歩く人は少なく、鬱蒼と茂る大樹の陰は、厳しい暑さを和らげてくれた。
私は、書道について詳しくはないが、石川九楊さんについては、20年以上前に『二重言語国家・日本』という本を読んで、すごい人だと思った。
そして、書に限らず様々な視覚表現において、西洋の造形芸術論の影響を受けた評論分析を胡散臭く感じていた私は、石川さんの表現哲学に対して、共感するところが大きかった。
どういうことかと言うと、絵画であれ書であれ写真であれ、今日の視覚表現は、大きく二つに分けられる。
一つは、古典趣味。日曜画家やカメラ好きの趣味写真もここに含まれるが、世の中一般に流通している古い価値基軸や流行やステレオタイプの枠組みの中で、停滞的反復作業を繰り返しているもの。
二つ目は、一つ目の保守的な表現に対する反発から、既存の価値を壊して、新たな視点を提示しようと試みているもの。
しかし、このアンチ保守は、ともすれば形ばかりの差別化や変化に陥ってしまっており、その思想は、「現代性」という表層的な観念でしかない場合が多い。だから、心の深いところに鋭く突き刺さってくることはなく、評論家が、「これが新しい」とか、「現代を象徴している」などと理屈っぽく論じているのを聞いても、「へえ、そういうもんなんだ」と、どこか他人事になってしまう。
書という表現が、絵画や写真と少し異なっているのは、「言葉」そのものを表現のモチーフにしているところだが、これは、とても重要なポイントだと思う。
なぜなら、言葉というのは、直接的に思想とつながっているからだ。
書による表現は、言葉の解釈であり、書の表現には、自ずから、書道家の思想の深さが反映される。
たとえば、「生命」という文字を、巨大な紙に、勢いよく、墨が飛び散るように描けば、「生命力を感じますねえ」などと、当たり障りのない感想が、お茶の間で寝転んでテレビを観ている人にも受け入れられるし、人生訓を、子供っぽく書くだけでも、「型にとらわれずに味わいがあって好き、難しいことは嫌いだから」などと評価されたりするが、それらの生命観や人生訓は、使い古され、陳腐化したもので、新しい視点を切り拓く思想とは無縁だ。
そうしたことを含め、安易なことを繰り返していく”停滞”を、石川九楊氏は、頽廃だと言う。
書は、筆と紙のあいだの接点における筆蝕によって、言葉との回路をつないでいく。そして、その時の言葉は、その人の思想の深さの反映だ。
そうした言葉との回路を、書道表現において特に重要視しているのが、書道家の石川九楊氏なのだと思う。
本当は、絵画でも写真でも言葉(思想)から乖離してしまっているものは、単なる造形的パフォーマンスにすぎないのだが、「言葉にできないことを写真(絵画)で表現する」などという陳腐な理屈にあぐらをかいて、言葉(思想)との回路の回復を試みない安易な姿勢の持続は、停滞(頽廃)にすぎない。
その繰り返しが続いている現代的停滞からは、新領域は、切り拓かれない。
深い思想を備え、かつ創造の意欲に満ちた書道家は、必然的に、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師と為るべし。」という存在となる。
単に昔のことを調べたり知るだけでなく、古きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得する。つまり、人類の辿ってきた足跡を振り返ることで、世界の捉え方や未来の展望を更新すること。これができて初めて本当の師であると、孔子は述べた。
ゆえに、書道界では前衛的と評される石川九楊氏だが、そういう線引きは意味がなく、万葉集や源氏物語などの古典に取り組んでいることに、なんの矛盾もない。
現在、上野の森美術館で開催されている石川九楊展で、私がもっとも好きな作品は、空海の「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」という言葉を表現したものだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1720310825394-5kn36Myk2q.png)
空海のこの言葉は、風の旅人の第48号で、石牟礼道子さんをロングインタビューした「死の力」というテーマの号の巻頭にも掲げた。
この号を制作する時、メメント・モリ(死を忘れるな)という言葉さえ、3.11の大震災の後では通俗的なキャッチフレーズのようにしか聞こえず、その言葉に便乗するのは停滞(頽廃)にすぎないという意識が私にはあった。
「死の力」というテーマにこめられた想いは、「死が無ければ、生も無い」であり、死から生を眺めることだ。そして、それは、未来から現在に目を向けることでもある。
死は生の終わりではない。
石牟礼さんは、この号のロングインタビューのなかで、「人間は、死があるから生きられる」と述べられた。
もし死が無くて、生がいつまでも続いていくとしたら、この生のかけがえのなさも失われてしまう。かけがえのないものは、常に、限られたもの。
人間の精神は、無意識のうちにそのことを悟っている。人間のことを考え尽くした表現者の表現は、どんなものでも、その精神が反映されている。
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