1000年に渡る祇園祭の祈り


9世紀、貞観の時代、富士山の大爆発や大地震が起き、疫病も流行した。
朝廷は、863年、京都の神泉苑で御霊会を行った。御霊会は、恨みを残したまま亡くなった人々の祟りを鎮めることで、世の安寧を祈る祭だった。
 京都の神泉苑は、平安時代の初期、空海が雨乞いの祈祷を行った場所でもあるが、863年の御霊会では、全国の国の数を表す66本のを立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送って、八坂神社の牛頭天王を祀った。
 牛頭天王は、神仏習合による日本のオリジナルの神で、本質的には疫神であるが、この疫神を丁寧に祀ることによって災いを鎮める力に転換できると信じられた。
 牛頭天王のルーツに関しては、様々な説があるが、もともと八坂神社のところは渡来人が拠点としていて、天神を祀っていた。この天神は、日本神話の中に登場する高天原の神々のことではなく、雷・雨・水などと結びついて、荒ぶる神として恐れられる一方,農耕の神としても信仰されていた神だ。
 菅原道真も北野天満宮で天神として祀られているが、もともと北野の地では天神が祀られており、そこに菅原道真の怨霊が重ねられた。
 さらに、北野天満宮境内には、石の臥牛像があるが、その理由の説明として、菅原道真と牛の関係を伝える物語が取り上げられる。
 しかし、それらの物語は、おそらく後世に作られたもので、もともと、八坂神社をはじめ天神信仰のあった場所では、牛の生贄が行われていたとされる。
 「犠牲」という漢字を見ればわかるが、犠にも牲にも、偏の部分に「牛」という文字が組み込まれており、古代、豊かさの象徴である牛を犠牲にすることで、災いが鎮められると考えられた。また、牛という漢字は、牛を真ん中から二つに切った姿である。
 この牛の犠牲と、天神が結びついた呪力は、災禍を鎮める力がもっともあると信じられていた。牛頭天王というのは、牛の頭と、天神が統合された神なのだろう。
 祇園祭の起源は、この八坂神社の牛頭天王を祀る御霊会だった。その時は、祭の主役は現在のように山鉾の巡行はなく、八坂神社の神輿だった。今でも、前祭の山鉾巡行の行われる夕刻、神幸祭が行われる。神様が乗った神輿が八坂神社を出発し、鴨川以東、河原町などを通り、四条寺町の御旅所に移動する。これは、神様が洛中に渡って厄災を払う祭事だ。

そして、後祭の山鉾巡行の後、還幸祭が行われる。夕方、神様が乗った神輿は御旅所を出発し、八坂神社へとお戻りになる。
 祇園祭は、神様が厄災を鎮めることが主だから、神輿が主であり、山鉾は従であり、神様が通る道を山鉾が清める(厄神を集めるという説もある)ために、山鉾の巡行が行われる。
 祇園祭は、もともとは山鉾の巡行はなく、神輿だけであり、祭事に庶民がくわわるようになって芸能の奉納という流れで山鉾が始まり、だから山鉾は、八坂神社ではなく、町衆が中心になっている。そのため、町衆の力が反映する山鉾の数は時代によって違ってきて、応仁の乱の前後は、極端に違っている(58基から10基へ減少)。
 祇園祭は、神様が厄災を鎮める祭だから、神輿が主で、山鉾は従であり、神輿に乗った神様が通る道を山鉾が清める(厄神を集めるという説もある)ために、山鉾の巡行が行われる。
 しかし、この華やかな山鉾の巡行があるからこそ、祇園祭が、世界的に有名な祭となって、毎年、大勢の人が見物に来ており、その見物のための特等席の値段が、話題になったりする。
 「豊かさの象徴である牛を犠牲にすることで、災いが鎮められる」という精神に立ち返れば、その豊かさの象徴は、現在、何に当てはまるのかと、ふと考えてしまう。
 祇園祭の巡行における山鉾の順番は、「くじ取らず」の9基をのぞく24基の順序をくじで決める。
 最も大事な先頭は、「くじ取らず」で、常に長刀鉾だと決まっている。これは、神の領域に33基を率いて進むため、しめ縄を断ち切って結界をとくという役割がある。
 また、祇園祭は、9世紀、貞観の富士山大噴火や大地震、疫病の流行などの災いに対して、国の穢れを祓うために始まったので、疫病邪悪を祓う「大長刀」が先頭を行くのは当然のことだと理解できるが、前祭の最後が舟鉾、そして後祭の最後尾が大船鉾と、「くじ取らず」で決まっている理由は、はっきりとしていない。

祇園祭の山鉾巡行の最後尾をつとめる大船鉾。御神体は神功皇后。

舟鉾と大船鉾の御神体は、神功皇后だ。神功皇后は、第15代応神天皇の母ということになるが、神話のなかでの神功皇后は、新羅討伐の象徴として描かれている。
 神話では大勝利となっているが、実際の戦争では、新羅が建国された6世紀の初頭から、継体天皇、欽明天皇、推古天皇など何度も新羅討伐を試みるが、すべて失敗に終わり、663年の白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍に大敗してしまった。
 しかし、その後の新羅は、次第に国内が混乱状態に至り、平安時代になると、滅亡する935年までの間に、たびたび、新羅の賊が日本各地を侵していた。
 鎌倉時代の元寇は学校の教科書でも習うので誰でも知っているが、それ以前の新羅の入寇は、ほとんど知られていない。
 894年、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めたという記録や、新羅滅亡直後の997年、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲い、民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれたという記録がある。
 丹後にもやってきたという記録があるので、10世紀後半の源頼光による丹後の鬼退治伝承なども、これに関係しているかもしれない。
 いずれにしろ、平安時代、新羅の入寇は、疫病などと同じ厄災であり、厄払いの祭事である祇園祭において、神話上の神功皇后の力が、復活したのかもしれない。
 京都には、歴史上、神功皇后に関する重要な聖域がある。それは、現在は松尾大社の摂社になっている月読神社(もともとは名神大社)の境内にある月延石だ。
 

月読神社(京都市西京区)。神功皇后の新羅遠征の時、応神天皇の出産を遅らせるために腹に巻いたと伝えられる月延石。月読神社の境内には、国譲りにおいてタケミカズチの副使として派遣された天鳥舟命(神が乗る船の名)を祭神とする御船社と、聖徳太子の霊を祀る聖徳太子社があり、聖徳太子の時代、桂川に面したこの地が、亀岡(丹波)を舞台にした戦いで活躍した海人勢力の前線基地だったことが想像できる。

これは、神功皇后が応神天皇を孕ったまま新羅と闘う時、出産を遅らせるためにお腹に巻いた伝説的な石だとされる。
 この石が京都の月読神社にあるのは謎なのだが、京都の月読神社は、日本書紀によれば西暦487年に壱岐島から勧請されたものであり、壱岐島の月読神社にも、三つに分裂した月延石の一つがあったとされる。三つの石のもう一つがあったとされるのは、神功皇后が応神天皇を産んだ場所である九州の糸島の鎮懐石八幡宮だが、今では、月延石は、京都の月読神社にしか残っていない。
 壱岐島は、鎌倉時代の元寇の時もそうだが、新羅の入寇の際も、日本の前線基地として、たびたび苦難を強いられる場所だった。
 京都の月読神社に残る月延石は、新羅の入寇に対する抵抗のスピリットの結晶みたいなものなのだが、それが九州にあっても不思議ではないが、なぜ京都の桂川流域なのか?
 ここから先は私の想像でしかないが、新羅の場所は、朝鮮半島の東側であり、この位置から日本に行こうとすれば、対馬海流に乗って、山陰や丹後半島あたりに上陸する。
 実際に、古代、大陸からの渡来人は九州だけでなく、丹後半島から若狭湾あたりも玄関口にしていた。
 そうすると、若狭湾から内陸部へは由良川で移動できる。由良川と加古川のルートは、日本で最も分水嶺が低く、標高90mほどしかなく、古代、大陸との交易における大動脈だった。
 そして、桂川は、京都から亀岡へと遡るが、亀岡の北部を由良川が流れている。つまり、桂川沿いの京都の月読神社の場所は、外敵を迎え撃つ戦闘部隊の前線基地となる。戦闘部隊は川を遡っていくので、当然ながら船を使う。
 祇園祭の前祭の最後尾の船鉾は「出陣」を表すのに対し、後祭の大船鉾は、戦を終えて戻る「凱旋」の場面を表すとされる。
 平安時代、富士山の大爆発や大地震や疫病とともに、たびたび悩まされた新羅の入寇という歴史的背景が、祇園祭に反映されているのではないだろうか。

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