かんながらの道
今年発行するつもりの「日本の古層Vol.5 かんながら」は、7月くらいには、ほぼ完成していたのだけれど、今年の猛暑で本なんか読む人はいないんではないかと思い、少し寝かせて、もう少し涼しくなってから印刷すればいいと思っていた。
しかし、8月に入って東京に来てから、何か不思議な縁の働きがあったのか、猛然と東京の撮影を行い続けた。異様な暑さにもかかわらず、都心に出る時には必ずリュックサックに三脚とピンホールカメラを入れて、用事の前後には、街の中を歩き回った。東京は広大な宇宙なので、まだまだその一部しか没入しておらず、これから数年は取り組むつもりだけれど、それでも、渋谷、池袋、銀座、浅草、新宿、下北沢といった東京の象徴的な場所には潜入していった。
そして、そのようなゾーン状態で撮り続けていた写真が、「日本の古層Vol.5 かんながら」と違和感なく馴染んでいくという不思議がある。
当初、この「日本の古層Vol.5 かんながら」は、これまで8年間、日本の古層の写真をピンホールカメラで撮り続けてきた一つの集大成にしようと思い、全部で120ページのなかで100ページを写真にして、しかもカラー写真を軸にしている。
というのは、私は富士フィルムのブローニーサイズのカラーネガフィルムで撮影していたのだけれど、これまで発行してきた本は、文章が全体の半分ほどあったということと、文章の中に入り込んでもらいたいという気持ちが強かったので、全体をモノクロトーンにしたいと思ってモノクロ印刷を行ってきた。
しかし、今回、集大成ということもあり、カラーフィルムで撮った写真を、そのままカラーで見せようと思ったのだ。
そして、20ページの文章は、「日本人の心がどのように作られてきたのか」と、日本人の心に絞り込んで、その鍵となっている古代と中世のことを書いた。
この全体のカラー化と、「日本人の心についての考察」が、土の中に埋められた種になっていたのか、東京と古代性をつなぐ力となったのかもしれない。
そのようにして東京を撮り、すでに出来上がっていた本の中の古代の聖域の写真と差し替えていったら、最後の20ページが東京の写真になってしまった。
来年以降は、東京とともに京都の街中にも没入し、二都物語をやりながら古代とつないでいきたいと思っているけれど、今年の本は、これまでの集大成というより、来年以降とのつなぎになるような気がする。
古代も現代の東京も混在させているけれど、「かんながら」というテーマは、変える必要はなく、けっきょく、時代がどのように変遷したとしても、日本人の心のなかには、この「かんながら」という世界観というか人生観が、宿り続けているのではないかと思う。
「かんながら」というのは、「神のおぼしめしのままに」という意味だが、気をつけなくてはいけないのは、日本人にとって「神」は、キリスト教やイスラム教のような唯一絶対神ではないこと。
万葉仮名で、「かみ」は迦微と表記されるが、迦は「巡り合う」、微は「かすか」という意味になる。
日本人の「かみ」への祈りは、自分の理解を超えた何事かに対する「畏れ多さ」が元にあり、それは、自然の全ての営みの背後に隠れている力に対する心の在り方である。
運命に抗わず、受け入れながらも、道にそって生きること。この場合の道とは、老子の説く「正しい道」というより、荘子の説く万物斉同の道に近い。
荘子の説く万物斉同の道は、善悪などの対立する概念を相対化して成り立っている人間の認識を超越した絶対的な無の境地から見れば、対立と差別は消滅し、全ては同じものであり、生死すら広大無辺な道の一過程にすぎないと受け止めること。
「荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。」(斉物論第二 荘子)
この150年、西欧の近代合理主義の価値観に覆い尽くされているものの、日本人の生理的な世界観や人生観は、実は、そんなに大きく変わっていないのではないかと思うし、そのことが、近代合理主義の行き詰まりを超えていく種になっていくのではないかという予感がある。
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