かんながらの道〜日本人の心の成り立ち〜


今年中に出版するつもりで取り組んできた日本の古層Vol.5「かんながらの道」の入稿が終わった。
 完成は、来週末(10月25日、26日)に行うワークショップに、ぎりぎり間に合うタイミングか。
 今回は、日本人の心の成り立ちに焦点をあてて、仮名文字が日本人の世界観や人生観に与えた影響とか、現在のポストモダンの思想を超える空海の叡智とか、永遠の謎のように思われている古事記の冒頭とか、律令制の開始時期の日本人の心模様とか、かなり深く古代のミステリーゾンに潜入したけれど、文章全体はいつもより短くて、写真に100ページ割いている。
 日本人の心の文化、その反映である祈りが、たとえば西欧や中近東の一神教の世界と大きく異なるのは、”あはれ”と”かなしみ”が底流にあること。そのことが、写真と文章で、どれだけ伝えられるかが、この取り組みにおいて注力していることだが、鬼海弘雄さんに誓ったように、一年に一冊ずつ作り続けてきて、これで5冊目。
 今までと異なりカラー写真をメインに構成しながら、最後の方に、この2ヶ月ほど狂ったように撮影してきた東京や京都の写真を少し組み込んだ。そのことで、全体が引き締まったのだが、自分としては、これまでの集大成と、次の取り組みのあいだに橋を架けたいという思いで、そのような構成にした。
 年明けの2月上旬に新宿のOM SYSTEMギャラリーで写真展があるので、今現在慌てて販売していく必要はないが、とにかくこれを完成させなければ、晴々とした気持ちで前に進めない心境だった。
 実は昨夜、入稿準備をしていて、コンピューターがフリーズしてデータが壊れてしまった。夏からずっと酷使してきたこともあるし、入稿データは重いので大きな負荷がかかったのだと思う。
 一瞬、目の前が真っ暗になり、とりあえずコンピューターを休めようと、静かにオフにして、呆然とした心のまま夕食をとっていた。
 こういう事が起きると、私は、「癌を宣告されたら、もっと辛いだろう」などと考えて自分の心を鎮める癖があるのだが、その時、ふと、癌で亡くなられた鬼海弘雄さんと、日野啓三さんのことが頭をかすめた。
 お二人とも、10月が、お別れの時だった。
 あれっ、今日は何日だったっけ? とカレンダーを確認したら、13日で、実は、日野さんの命日が10月14日、すなわち今日だった。
 鬼海さんの命日は、10月19日で、今週の土曜日。
 22年前の10月14日に日野さんが亡くなって、その後すぐ野町和嘉さんにところに、その報告に行った。当時の私は、野町さんと親しかったわけではなく、それ以前に1度か2度くらいしか会っていないのだが、日野さんが、野町さんの写真を表紙に使った本を2冊出していた。
 それで、日野さんが亡くなる直前、私が素人の情熱だけで作った日野さんの最後の本「ユーラシアの風景」を野町さんのところに持参したのだ。日野さんが撮った写真と、エッセーをまとめたもので、写真と文で構成された日野さんの本は、これ以外なかったこともあり、写真界で第一者だと私が感じていた野町さんに見てもらいたいと思った。
 その時、突然、野町さんが、「これを作れるのなら、グラフィック雑誌を作れよ」みたいなことを言い出し、その流れで「風の旅人」を作ることになったのだが、日野さんの死を境にして、私の人生も大きく変わったなあと、昨日、夕食を食べながら思っていたのだった。
 けっきょく今やっていることも、写真と文章の構成で伝えたいことを表現しようとしているので、この20年間、ずっと同じようなことをしているなあと、しみじみとした思いで、パソコンを再起動したら、壊れていたデータが修復された。不思議だ。
 それはともかく、日野さんが私にとって救いだったのは、放浪から帰ってきた22歳の時、その当時、日本の知のヒエラルキーのトップとされていた人に原稿を持っていったのだが、原稿を見る前に話だけ聞いて「きみは、巨視的すぎる」と見下されたのだが、日野さんが、そんな私の巨視的な視点を楽しんでくれたことだ。
 私が日野さんのところに通い続けていた頃、日野さんは2年に1度、癌が転移して入退院を繰り返していたのだが、そうした状況にもかかわらず、何冊も本を書いた。
 私と日野さんは、日野さんの家や慶應病院で長く話し込んだのだが、日野さんが私に言ったのは、こういう時間が、ちょうどいい脳のリハビリになるということだった。
 というのは、私は巨視的に色々な分野に関心を持っていただけだが、日野さんもまた、歴史、文明、宇宙、生命、生物、芸術、宗教など、様々な分野のことに、とても深く関心を寄せていたからだ。
 私は若い頃から一分野の研究者になりたいと思えず、また写真など特定分野での表現をしたいという志向がなかった。だったら一体何がやりたいのか、よくわからないまま放浪を続けていて、出会う人に、あなたは何を専門にしているのか? 将来、何をしたいのか?と問われるたびに、答えに苦労していた。
 日野さんは、小説家だが、日野さんにとって小説はただの器で、そのなかに文と理の垣根を超えた様々なことを放り込んでいた。だから私は、日野さんに惹かれた。そして、その薫陶を受けて、巨視的なだけの未熟状態から、少しずつ中身を蓄えていった。
 風の旅人の始まりは、日野さんが亡くなり、もう日野さんからは直接学ぶことができないというタイミングだった。
 風の旅人というのは、文と理の垣根もないし、表紙制作を現代美術家の大竹伸朗さんに依頼するなど、巨視的な私が、自分がイメージするものを成すためには自分の力では足りないので、考えうる最強の人たちの力を借りて、そのイメージを形にしようとしたものだった。その最強の人たちも、白川静さんや川田順造さんをはじめ、日野さんを通じて身近に感じていた人たちだった。
 歴史、文明、宇宙、生命、生物、芸術、宗教、思想は、どれか一つ専門領域のなかだけで探究しても袋小路に陥る。同時並行的に眺め渡しながら探究していくことが重要だと教えてくれたのは日野さんだった。
 今回、制作した「かんながらの道」は、風の旅人の頃と違い、文章も写真もデザインも、私一人で全てを行った本だが、相変わらず巨視的な視点は、そのままだと自分でも思う。
 歴史の専門家でない私が、ここまで書いて、さて本職の歴史研究者は、やはり「あなたは巨視的だ」と見下すのだろうか。
 しかし、現在の歴史研究は、たとえば継体天皇の研究をしている人は、その分析ばっかりと、非常に限定的で狭すぎる。
 歴史にかぎらず、文明、宇宙、生命、生物、芸術、宗教を理解するためには、もっと大局的な視点が必要なはずだ。 
 「群盲象を評す」という古代インドの寓話があるが、現在の知は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合っているという状態に、なっていないだろうか。
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10月26日(土)、27日(日)、東京の高幡不動で、フィールドワークとワークショップセミナーを開催します。
 詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E5%A4%A9%E5%A1%BE-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC/

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