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(87) 薫 ー 切なくて

休日の街は目覚めるのが遅い。
薫は、そんな慣習が口惜しいのか、休日は特に早起きするのだった。朝早く起きて何をするというわけでもないのだが、パジャマのままベランダへ出てコーヒーを飲むのが習慣になっていた。六時に目を覚ました薫は、ドアポケットから新聞を取り、いつものように大きなマグカップにドリップでコーヒーを入れ、ベランダへ出た。よく海の家などに置かれてある簡易なプラスチック製の椅子に腰を掛け、テーブルに両脚を投げ出した格好で、大きく両手を広げて後ろに反り返りながら、
「あぁ、休みっていいなぁ。こういうのんびりとした瞬間が何とも言えない・・・。えーっと今日は、洗濯をちょこちょことやって、窓を開けっ放して布団を干して、散歩にでも出るとするか。久しぶりに渋谷にでも出て服でも買おうか・・・」
薫は、大きな声でひとり言を言うと、今度は立ち上がって背伸びをしてみせた。

アーケードがあるわけでもない駅までの商店街は、洒落た店はないものの昔ながらの店が並んでいて、ほとんどの買い物は間に合った。遅くまで開けている店も多く、残業の時など自炊の材料を買うのにも便利だった。薫は、どことなく垢抜けしないこの商店街が好きだった。商店街の外れを右に曲がると駅へ通じるのだが、左への道は緩やかな坂道になっていて、その先には大きな公園があり、隣接して図書館が建っていた。薫は、角の自販機で缶コーヒーを買うと、坂道を登り始めた。特に公園へ行きたいというわけでもなかったのだが、何となく足がそちらへ向かったのだった。特に知られてはいないのだが、この北町公園には樹齢二百数年といわれる楠があって、記念物として都からの指定を受けているらしかった。その楠は、確かに威風堂々とした様子で、他の木々を圧倒するかのように公園の真ん中あたりに立っていた。根を傷めない工夫なのだろうか、半径五メートル位を低い棚で囲い、人の立ち入りを禁止してあった。棚の外側に、木を大きく囲むようにベンチがいくつか並べられてあった。薫は、缶コーヒーを開けるとベンチに腰を深く下ろし、背もたれに身体の重みを預け、脚を一杯投げ出し、深い吐息をついた。薫には、ほっとした空白の時深い吐息をつく癖があった。幼い頃、よく母から
「ため息なんかつくもんじゃないよ」
と、よく言われていたものだったが、母が言う意味合いでつくため息ではなかった。そんな時の薫は、ホッとした満足感で全身の力が抜けて、とてもいい表情をしているのだった。木漏れ日が空を見上げている薫の顔を、チカチカと照らした。眩しそうに目を細めた薫は、
「いいんだなぁ、これが・・・。何とも言えないんだよこの感じ、顔がくすぐったい・・・高くて青い空、夏のそれと違って乾いた空や空気はうんと軽い・・・。毎日、こんなふうに出来たらいいのに」

薫は、あの手紙を懸命に忘れようとしていた。出来るだけ何事もなかったかのように、今までの薫の日常に変化が出ない工夫をしていた。いつもと同じように通勤し、今までと同じ程度の仕事をこなし、変わらない毎日を過ごそうと努めて来た。しかし、確実に限界は薫に近づいてきていた。

薫へ

熊本へ転勤になって三年が過ぎようとしている。この夏は、僕の都合から会うことが出来なくて、本当にすまなかった。元気でいてくれると思うけど、
どうですか?社内報で君の活躍を見て、頑張ってるなと思っています。生活課の記事は、範囲が広くて取材なども大変だと思うけど、君は確かによくやってると思う。地方局は、何でも屋だからつい自分は何が得意なんだかわからなくなってしまう。こんな生活してたら、本社へ戻っても昔のように仕事は出来ないぞと、ふと思う時がある。

この夏、僕は九重連山を縦走した。高い山ではないけれども、結構山は味わい深い山だと思った。北や南アルプスほどメジャーじゃないから、人で賑わうことはないけれど、それなりに人は多かった。実は、春から僕は君に黙っていることがあって、もう限界になってしまった。これ以上黙っていることが出来ない。

春の検診で再検査という結果だった。何かの間違いだろうと最初のうちはそう思っていたけど、確かに痛みはあるし、よく吐き気もした。胃カメラが嫌だとかいってる場合じゃなくて、結果が怖いとも言えなくて、再検査に病院まで出掛けた。結果が出るまで二週間と言われて、一層不安になった。それは組織検査をするという意味だと思ったからだった。本当はこの時点で、誰よりもまず君に連絡すべきだった。何故なんだろうか、今、考えてもその理由がわからない。自分なりにその状況を受け止めることが出来なかったのは事実だ。臆病だということもそうなのだが、どういうわけか、それでもいいやと何かよくわからないのだが思ってしまっているところがあって、何か
力が抜けてしまっていたんじゃないかと思う。結果は、決して良いものではなかったのだが、幸い早期ということで、一応の処置はした。内視鏡を入れて、レーザーで処置する方法だった。一週間の入院で済んだ事もあって、言わないまま、いや、言えないまま済ませて来てしまった。本当に申し訳なかったと思う。そういう経過なのに、何故、今報告するのかと君は不思議に思っていると思う。その通りだ。九月に入って、胃の調子が少し変だと気づいた。今度は痛みではなく、何と言うか胃の内壁が突っ張っている気がするし、熱があるような、ちょうど火傷した時のあの感じがしている。大事に至らなければいいのだが、処置後三ヶ月で検査ということだったし、来週は病院に行こうと思っている。結果を聞くのは怖いけど、最悪の場合を想定するのも嫌だけど、もし、結果が良くないのなら、来て欲しいと思っている。

どうだろう、身勝手な言い方になってしまっていることが情けないけれど、正直怖いんだ。これだけのこと、電話をすればすぐなんだが、どうしても言葉でいうことが出来なかった。勝手を言ってすまない。

謙二

公園横を流れている用水路の脇に、色あせた彼岸花の一群が力なげに咲いていた。盛りの時期には、近づくことを拒むかのような紅色をして、つんと立っていたのだろうが、失せた紅色は、どこかしら優しい色に変化していた。
薫は、ふと立ち止まりその一群に目をやった。
「おなじ曼殊沙華とは思えないわ。お彼岸の頃とはずいぶん様子が違うのね」
薫は、そうつぶやくと立ち上がって用水路脇の身とを公園の方へ歩き始めた。陽が落ちかけているところからすると、ずいぶんと長い時間公園に居たことになる。渋谷へ買い物にでも行こうとアパートを出たのだが、軽い気持ちになれなかったのだろうか、結局公園で謙二のことを考えて一日を過ごすことになった。

この季節、陽が落ちる頃になると一種独特の空気の感触が伝わってくる。ひんやりとした空気が頬を撫でると、ゾクッとして、もの悲しくて切ない思いが、胸の奥底から込み上げてくる。それは、薫にとって決して不快なわけではなかった。雲ひとつなく晴れ渡っていた空の西方に、帯状に薄く長い雲が出始めている。雲に隣接した空が、やや青色のトーンを落として切なげな様子になる。薫は、秋の夕焼けになる直前の空の色が好きだった。その切なさも、同時にそう思っていた。薫は、身体全体で深い吐息をついた。


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