見出し画像

(100) とりこし苦労

「この先のことはどうなるかわからないのに、どうしてそんな心配をするの?」
「先生いつも言うよ、”先”をきっちり”読め”って。だから・・・」

まず、クライアントの半数位の方々とこんなやりとりが必ずある。その度ごとに「この先を心配する」ことがいかに無駄であるか、と、説明を繰り返すことになる。不思議なのは、同じクライアントに面接期間中、何度も繰り返し説明することになることだ。それほどまでに、誰にとっても「この先」のことはわからないにも関わらず、考えたら不安になるということなのだろう。気持ちはよくわかる。確かに「先を読む」ことの大切さを私は口癖のように言っている。しかし、”心配”をかき集めて「先を読む」などと決して言ってはいない。

これが”とりこし苦労”と言うものだ。「先読みの誤り」と名付けられている、”認知の歪み”のひとつである。

「なるべく考えないようにしていますが、ふとした時に先の心配が目の前をかすったら、もう居ても立ってもいられません。正直に言うと毎日なんですよ。一旦心配し始めると、次から次と先の心配が湧いてきて、あれもこれも全部が不安で何ともブレーキが効きません」
「誰でも心配し始めるともう止められないものです。あのね、ブレーキをかけるタイミングが遅いんですよ。心配し始めたら、もうブレーキは効かないですよ。日頃から、 ”自覚”をすることが大切です。その”自覚”というのは、【元々自分は不安がる人なんだ】という”自覚”です。いろんな事情から人より潜在意識の中に押し込めている不安が大きいと考えてください。ちょっとした”刺激”でそれは表にすぐに出てくるものです。その、ちょっとした”刺激”と同時にブレーキをかけることが必要なんですよ」
「難しいですね・・・一瞬ですよね」
「確かにね。何らかの”刺激”に対してその潜在意識の中に押し込められた漠然とした不安が表面化し、考えていることにプラスされて、より大きな不安を作り出すわけです。あなたがそれを加えなければ、大きく不安は膨れ上がりません。その直前にブレーキをかけるんです。”自覚”による”業”というわけです
「具体的にどこでそうすれば良いのですか?」
「それが問題です。あらゆる”刺激・状況”をあなたが自分の中に取り入れる時に、ブレーキをかけるんです。人間は誰しも”刺激・状況”を取り入れた瞬間に”思考”します。そしてその結果、”感情”が自動的であるかのように決まります。この”思考”の直前にブレーキをかけることです。要は、【間】を置き、いつものように自分の潜在的不安をプラスせず、【正しく状況を判断しなくては】と冷静になることがブレーキです」
「それで不安を感じなくて済みますか?」

こんなやり取りが、卒業されるまで何度も何度も必要となる。たかが”とりこし苦労”だが、これが怖いのだ。人は大なり小なりこの傾向がある。「漠たる不安」「具体的な不安」を抑圧し、隠したつもりで生活して来た。目の前の”刺激・状況”に反応し、つい隠したつもりの不安が飛び出して、目の前の不安を増幅させる触媒の働きをしてしまうのだ。そんな危なっかしさのまま、先を予見しようとすると、ろくなことにならない。真っ暗闇で不安でいっぱいと判断してしまうに違いない。

先を正しく予見することを習慣にすることが大切でもある。先を予見した時、こうなるだろうという「根拠」があるかないかが大切なのだ。「根拠」がなく、漠然と「そんな気がする」を採用してしまうこと、これが本当に危ないのだ。日頃から不安の大きな人は、先を予見する”目”がすでに違う。不安が練り込まれたレンズの入った眼鏡を掛けてものを見るようなものだ。人と同じものを見たとしても、掛けているレンズのせいで、まるで違うものを見ていることになる。

「こうなる」という「根拠」がない限り、先を予見しようとしないことを習慣にすること。ものを見て先を予見したら、まずブレーキをかける。自分はよく何にでも自分の不安を写し出して理解する癖があるから気をつけるぞ・・・と、である。

”とりこし苦労”はきっと顔のしわを増やすことになる。しわくらいで済むなら良いのだが、「人生は楽しんでなんぼ」なのに、それを手放してしまうことが残念で仕方ない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?