![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/169863176/rectangle_large_type_2_59ace81b1d648e79b8a5291b4ba51cf2.jpeg?width=1200)
(153) 安堵
何十年ぶりになるだろうか、「”安堵”しました」という言葉を青年から聴くこととなり、その一瞬の間に古い記憶が呼び戻されたのか、身震いした。それは私が高校生の頃、ある決意をした苦しくて切ない記憶で、思い出すことが躊躇われたのか長い間重い蓋をしてきたものだった。
部活をするのなら、ポーンポーンと華麗に球を打つテニスなどやってたのではダメだ。そこには苦行をもってやり遂げたという満足やら誇り、ストイックに我が肉体を鍛え上げた勝負ではないなどと、偉そうに考えていて、やるとしたら柔道か剣道、ラグビーだろうと無駄なことを言う面倒くさい奴だった。そんなことを考えていた時の歴史の授業だった。封建時代、権力者から土地を分け与えられ、汗水流して耕作してきた土地の所有権をそのまま賜ったとき、生きていけるかの瀬戸際であった貧しい農民たちは、これで生きていける本当に救われたありがたいと”安堵”したのだと習った日があった。「これが”安堵”するという言葉の語源なんです」と先生から教わった。
先生のその言葉に大粒の涙を流した。確かに「”安堵”する」という言葉は、「安心」に比べて重くて古典的な香りがして馴染みの薄い言葉のようだ。しかし、その裏にはそれなりの物語があるに違いないと想像していたことも重なって、その上、貧しいその日暮らしの農民たちの”安堵”できたとの気持ちに共感し、深い感動とともに泣けてしまった。
「これで生きられる。頑張って来て本当に良かった。今までの苦労が決して無駄でなかった」
と、涙ながらにそう思ったに違いない。
私はその日以来、”安堵”という言葉を決して軽く扱うことができない、触れられない・・・触れてはならないと思うようになった。というのも、きっとこの私が誰よりも「”安堵”したい」と強く願っている人間であるという自覚が強くあったからだ。私が”安堵”したとしたら、一歩もその場から動くことなく”安堵”に浸り続けてしまう臆病な人間であり、そのままではきっとすぐに自身を責め”安堵”出来なくなることを知っていたのだろうと思う。それを知っていた私はその臆病な自分から抜け出ようと決意して、不自由にも重い課題を課すしかないのだと思い、生意気にも自分なりの「生きる美学」はこれだろうと防衛を図ったものだった。人には話したことはないが、そう言ったとしたら、「無理すんなよ、馬鹿げているよ、無駄だよ」と、笑われるに決まっていると思っていた。道を選ばねばならないとしたら容易な道より困難と思われる道を敢えて選ぶ。誰も拾いはしない「火中の栗」を先んじて拾う人間でありたい。損を承知でも買って出る。”安堵”の中に浸らない生き様を求めた。臆病な私にはこれしかなかった。挙げたらキリがないほどの格好をつけて、”安堵”を誰よりも強く願っていながら、そちらに流れてしまうだろう自分を奮い立たせた。
私はその授業の日、よせばいいのに”安堵”と決別をした。そう格好つけて生きることを決めた。しかし、振り返りよく考えてみると、”安堵”することに頼らず戻らず決別をして、自らに過酷な課題を課してつっぱり格好つけて生きることが、私の美学であると同時に、真にそれが私の”安堵”であったの
だと思う。”安堵”するということは、人によって求めるものが違うこともあることから、大いに個人差があるのだとこんな歳となり強く思う。私はそう生きることで心の底から”安堵”を求めていた。確かにそうだったと思う。それが私の”安堵”だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1736739500-BCarmXj3oFNspEnl9OxTktPK.jpg?width=1200)
つい最近、この原稿用紙を持って久しぶりに喫茶店に入った。まるで進まない原稿が気になっていたからだ。手にとった写真週刊誌を見るともなく眺めていたとき、突然胸が痛む記事が目に入った。「ウクライナ軍 十八歳女性衛生兵が語る」「最前線に行かない選択肢はなかった」と、あり夢中で記事を読んだ。
「ロシア軍がウクライナに侵攻している今、私には最前線に行かないという選択肢はありませんでした。ウクライナ軍に入って戦うか、ロシアに占領されるかの二択しかありませんから」
と、彼女は語った。彼女はソフィアという。侵攻を受けて、写真家になる夢を中断、両親に相談することなくその道を選んだと言う。ソフィアの母が言う。
「ソフィアは才能のある子なので、戦場へ行かなくても活躍の場があると言うのに、どうして戦場に行かなければならないの?と思うことがあります。私の娘が国を守っているということを誇りに思うと同時に母として、複雑な心境です」と、母は述べ戦場へ行くことに反対をしなかったと言う。
(参考文献 文 横田徹)
ソフィアが籍を置く大学はキーウにあるという。
ソフィアはこうも言う。
「まずは生き残ることです。戦争が終わるまで生き残れていたら、山の中の小さな家で自然に囲まれて犬と共に静かな生活を送りたい」
また、私は泣いた。どこにいても、悲しいとき感動したとき私は泣く。遠慮なく恥じることなくそうする。ソフィアが籍を置く大学はキーウにあるという。”安堵”する場と生活は、ロシアの侵攻するウクライナでは望めない。この今、ソフィアが戦うことをしないでいたら”安堵”する日はやって来ないと考えた。今、「戦う」ことがソフィアにとっての”安堵”なのだと考えているのだろう。私はソフィアに共感した。私もきっとウクライナに住んでいたとしたら、その道を生きたはずだ。
歴史の先生は、”安堵”の語源を語ってくれた時、あと二つ”安堵”の概念を知らせてくれた。
・物事がうまくいって安心すること
・垣根の内の土地で安心して生活すること
ソフィアも”安堵”を求めて生きようとしている。どうかあなたの考える”安堵”を力いっぱい求めてそう生きて欲しい。ソフィア・・・決して命を落とさないでいて欲しい。”安堵”しながら、あなたの求める”安堵”する日を手に入れるまで・・・。
![](https://assets.st-note.com/img/1736739545-xvKLPjGHgWlwYe3JriOz0FAT.jpg?width=1200)