(94) 無茶振り ー 前編
「二十四時間戦えますか?」
某栄養ドリンクのCMのキャッチコピーである。今からすると、とんでもない無茶振りなコマーシャルが当たり前のようにテレビで流されていた時代があった。
国策でもあり、
「無茶なこと言うな!」
などと、誰も言ったりしなかった。そればかりか、皆黙って戦い(働き)続けた。無茶苦茶な話だ。そんな”無茶振り”は私の仕事上やってはならない筆頭に上がる”振り”である。もちろん、空気を読み、クライアントの力量・意志の有無を感じとり、”無茶振り”を提案しないよう心掛けている。
「先生!そんな無茶な!」
「それ程難しいですか?」
「難しいどころの話ではないですよ!僕は素直だから・・・言われてやれることは試してみようと思う方ですけど・・・これだけは、そんな僕でも無理ですよ。勘弁してください」
毎回こんなやり取りとなる三十歳の青年がいる。その都度、提案は違うが、毎回却下されるのが続いている。私の”無茶振り”が原因なのなら、反省し、出来るだろうと思われる提案をするのだが・・・。例えばこうだ。
ある日、
「いつ目を覚ましたかわからない。ご飯を何食食べ、何を食べたかわからない。ほとんどの時間、自室に籠っています。何をする訳でもありません」
と言う。
「それでさ、カウンセリングに何を期待しているのかな?」
こんな生活から脱して、毎日実感のある生活に戻りたいと強く思っているから、カウンセリングに通う決心をした、と、少し笑顔で顔を上げて話すところからみると、悪気はないようだ。
「そうそう、それそれ。初回の面接で聞いたよ。それで、その生活を脱するはじめの取り組みの提案をしているんだよ・・・。自身の過ごした時間を覚えていないから、まずノートに記録することから始めて、いつか不都合や希望を整理して時間の計画を立てないか?ってことを提案しているんだよ」
「それが”無茶振り”なんですよ、先生」
「いやいや、今日一日どう過ごしたかの記録をするだけなんだよ」
「いやぁ~出来ませんよ。無茶ですよ」
これは、私による”無茶振り”などでは決してない。彼がする独特の”交流の形式”なのだ。人に「私はどうしたらいいか?」と尋ねておいて、「こうしたらどうか?」との提案に対しての、”振り”への独特の”返し”なのだ。「はい・でも・・・」という”ドラマ的交流”とよばれる、良くない交流である。
結末は、相談を掛けた相手に対して、「あなたはダメだ、大して有効な答えを用意する力のない人だ」という”他者否定”の構えの証明であり、何と言われても「私は何も出来ない」という”自己否定”の構えを確認したのに過ぎない。言わば不毛な交流でしかない。ただ、ほんの一瞬ではあるが相手を否定出来たことで自分への否定感を紛らすことが出来る。その一瞬が彼自身の「快」を感じる、実感と言える瞬間なのだろう。
困る。こういうのが一番困るのだ。
本人に自覚はなく、このようなクセのある返しをまともに買い取って応えてはいけないのが原則なのだが・・・対応に困る。大いに悩む。
ちょっと待てよ、そう言えば・・・二歳のチビ坊が生意気になって来た。赤ちゃん顔していたのが、近頃少年の顔になりわんぱくしきりだ。押し手のついた三輪車をペダルに足が届かないからと、キックバイクのように地面を蹴って乗ってやってくる。やかましく奇声を上げながらだからチビ坊だとすぐわかる。
「公園にでも行くか?」
「うん」
まだ十分に喋れない割に、生意気にも対話するのだ。後ろに回って押し手を持って押し始めると、不満そうな顔をして三輪車から降りて来て、
「じいじ!いや!」
と、「俺、自分でやるから触るな!」とばかり手を払いに来るのだ。払いのけると、してやったとばかり嬉しそうな顔をして、ドヤ顔で三輪車に乗り、「見てろ!」とばかりにキックし始める。ヨレヨレなのだが・・・。
これだ!これこれ。
”振り”に対し強力な”拒否”をしておいてドヤ顔・・・この一連がチビ坊なりの「俺のアイデンティティー」の主張だ。なるほど、確かにこれだ。
「俺はもう赤ちゃんじゃないんだ。手を出すな」である。
彼も同じことをしている。
「俺は俺です。人の言うことを〈はい〉なんて聞きませんよ。そんなヤワな押しでは私はビクともしませんよ」
なのだ。そうでないと自分を保てないのだ。
私は”振り”が彼の負担にならないような最大の配慮をして、適度と思われる提案をして来た。そうだから、全然無茶でない”振り”を無茶だといって”拒否”したかっただけなのだ。インパクトの強い本当の”無茶振り”になら驚きながらも必ず反応して採用するだろうと思った。
~続く~